白と黒の戯曲、無自覚なる序奏
やがて馬車が停止したのは、アルシードが世間の目を欺きつつ、彼女を退屈させずに満腹にさせるためにセッティングした、人目を完全に遮断できる最高級レストランの完全個室だった。
入室したメリッサは、てっきり薔薇園や夜間植物園に連れて行かれると思い込んでいたため、予想外の「食事の場」であることに、お上品な仮面の奥で少しだけブルーの瞳を丸くした。
豪奢な扉が閉まり、給仕が下がって二人きりになった瞬間、メリッサは「ふぅ……!」と見事な姿勢のまま肩の力を抜いた。これまでのデートの時のように、小さな口でお上品に微笑む猫かぶりはどこにもない。彼女はハキハキとした生身の声で、満面の笑みを浮かべた。
「閣下! ここ、あの予約が一年先まで埋まっているという、ジビエとタルトが絶品の隠れ家レストランではありませんか!?」
メリッサはブルーの瞳をこれ以上ないほどキラキラと輝かせ、ソファから身を乗り出すようにして地声で大興奮している。それを見つめるアルシードは、ソファの背もたれに深く寄りかかり、足を優雅に組み替えた。そして、完璧な、しかしどこか悪戯っぽく勝ち誇ったような笑みを浮かべ、フッと鼻で笑ってみせた。
「フッ……、いかにも。ベルンシュタイン大公家の情報網と権力を以てすれば、この程度の席を用意することなど造作もないことですよ。どうですか、メリッサ嬢」
アルシードは、美しく整った顎を少しだけ上げ、してやったりと言わんばかりに不敵に微笑む。
驚きから一転、嬉しさを隠しきれずに頬を赤らめるメリッサ。そんな彼女の姿を前に、アルシードは心の底から男としての尊厳を取り戻したような、満足げな勝利の笑みを深めるのだった。
* * *
「閣下、今日は個室にしてくださって大正解だわ! これなら誰の目もなくて、気兼ねなくお食事が楽しめるわね!」
これまでの彼なら「それは何よりです、我が愛しの薔薇」などとキザに囁き返したところだろう。しかし、すっかり格好をつけるのが馬鹿らしくなった現在のアルシードは、端正な眉を少しだけ下げ、ちょっと呆れたようにフランクに笑ってみせた。
「それは良かった。メリッサ嬢、今日の私のエスコートには『あくびを噛み殺す死に物狂いの努力』は必要なさそうだね?」
「あら、閣下ってば根に持ってるのね」
先日の悪口を根に持ったチクリとした嫌みを、素の男の軽口として楽しそうに返すアルシードに、メリッサは悪びれずに楽しそうに笑う。
やがて運ばれてきた料理を、メリッサはオルブライト家の晩餐会の時と同じように、大きく口を開けて実に見事に、そして本当に美味しそうに食べ始めた。 その生き生きとした圧倒的な生命力を、アルシードがどこか毒気を抜かれたように見つめていると、メリッサの視線がアルシードの皿の上にある好物へと吸い寄せられるように照準を合わせた。
「ねえ、閣下。もしよろしければ、そちらの前菜も頂いても……?」
それは、オルブライト家で兄たちにやっていたのと同じ、おねだりのノリだった。隙あらば物理的にフォークが伸びてきそうな勢いである。
「はいはい、どうぞ。君のその『鋼鉄の体幹』を維持するためには、いくら燃料があっても足りないようだね」
アルシードは呆れつつも、諦めたように笑って自分の皿をそっと差し出してやった。口説く気にはなれないと言いつつも、気取らない自分でいられるこの空間が、彼にとっても実はひどく心地よい。
「ありがとう、閣下! やっぱりここのお料理は最高だわ。今度お祖父様たちにも教えてあげなくちゃ。あ、でも、あんまりお兄様たちが騒ぐと、また閣下の胃が痛くなっちゃうかしら?」
悪気なく、かつ盛大にアルシードのガラスの胃袋を抉るようなセリフをのたまうメリッサ。
「……君ね、誰のせいで私の胃に穴が空きかけていると思っているんだい」
「え? 皇太子殿下じゃないかしら?」
フォークを咥えたまま小首を傾げるメリッサに、アルシードはついに天を仰いだ。
「確かにあのたわけのせいでもあるがね。……はぁ、駄目だ。すっかり格好をつけるのが馬鹿らしくなって、調子が狂う」
「あら、閣下ってば、私の前でそんな風に溜息をつくなんて、ずいぶんと私に心を許してくださっているのね?」
ふふ、と悪戯っぽく笑うメリッサに、アルシードは呆れたように肩をすくめた。
「そりゃあ、あんな派手に裏で悪口を言われて、挙げ句に木から降ってこられたんだ。今更格好をつけたところで、俺のプライドの死体が惨めになるだけだからね」
「まぁ、俺、だなんて。閣下の素の口調、新鮮で素敵だわ」
「……今のは忘れてくれ」
うっかり口を滑らせたアルシードは、自身の漆黒の瞳を泳がせ、気まずそうに再びグラスへと手を伸ばした。そんな彼を見て、メリッサは実に楽しそうに笑っている。 二人はそのまま、個室という完璧なプライベート空間のなかで、これまでのどのデートよりも遥かに長く、リラックスした心地よい時間を過ごして羽を伸ばしたのだった。
しかし、いざ食事を終えて部屋を出るとなった瞬間、その空気は一変する。 メリッサは扉に手をかけた瞬間、すうっと息を吸い込み───一瞬にして、あの神々しいまでの「帝国一の美女(深窓の令嬢)」へと、実に見事な変身を遂げたのだ。
完璧にコントロールされた、一ミリの無駄もない優雅な足さばき。慈愛に満ちた、ガラス細工のように美しいお淑やかな微笑み。 そのあまりに鮮やかな「化けっぷり」に、後ろを歩くアルシードは、可笑しさが込み上げてきて思わず吹き出しそうになった。口元を片手で覆い、端正な顔を少しだけ歪めてクスクスと笑う。
───だが、レストランにいた周囲の貴族たちには、その光景が全く違うものに映っていた。
「まぁ、ご覧になって……! ベルンシュタイン大公閣下が、オルブライト令嬢をあんなにも愛おしそうに見つめて微笑んでいらっしゃるわ……」
「本当ね。いつも格式高く冷徹な閣下が、彼女の前ではあんなに相好を崩されるなんて。なんだか、以前よりもずっとお二人は親密になられた感じがするわ……」
周囲からは、これ以上ないほど仲睦まじい「熱愛カップル」にしか見えないという、完璧な、そして幸福な誤解。
だが、その甘やかな勘違いは、あながち完全な的外れとも言い切れないのが、今の二人の可笑しなところであった。
お互いの本性を知り、虚飾の口説き文句をかなぐり捨てたからこそ生まれた、気兼ねのない空気。アルシードが浮かべたその笑みは、確かに演技ではなく、目の前のじゃじゃ馬な愛らしさに毒気を抜かれた、本物の温もりを帯びていたからだ。
当人たちだけがその微かな変化に無自覚なまま、浴びせられる羨望の視線を背に、二人は静かにエスコートの形を整える。アルシードが差し出した逞しい腕に、メリッサが羽毛のように軽くその手を添え、息の合った足取りで待たせてある馬車へと向かうのだった。




