白薔薇の憂鬱、黒薔薇の策略
深夜のベルンシュタイン大公邸・執務室。
室内に灯る微かなランプの光のなか、ようやく自邸に帰り着いたアルシードは上着を脱ぎ捨てると、総革張りのソファへと優雅な面影もなく深く身体を投げ出した。社交界の人間が見れば、その無作法な姿に目を丸くしたかもしれないが、今の彼に体裁を取り繕うだけの余力は残されていない。片手で額を覆い、重苦しい息を吐き出す。
「……濃い、あまりにも濃すぎる一日だった……」
疲労困憊のなか、アルシードの脳裏には、今日一日にオルブライト伯爵邸で目撃したメリッサの信じがたい行動の数々が、鮮明な灯籠流しのように次々と浮かんでは消えていった。
上質なドレス姿で二階の窓から木へ飛び移る、驚異の身体能力。自分の二十七年間の歩みを「退屈、キザ、聞いてて欠伸を噛み殺すのに必死」とぶちまけた、容赦のない地声の本音。さらには、玄関ホールでの主人の帰りを待つ忠犬のような爆走、そして極めつけは、あの気持ちが良いほどに大きく口を開けてパクパクと料理の数々を平らげてみせた、規格外の健やかな胃袋である。
(とんだじゃじゃ馬だ。……さんざん騙されて、あの庭で派手に悪口をぶちまけられて、挙句の果てに木から降ってこられて物理衝撃まで食らったんだ。しかも、リスのように頬を膨らませて実兄とテリーヌを争うなど、さらに子供染みていて……)
アルシードは呆れ果てたように、心中で果てしない苦言をこぼしていた。
(───フッ、あれではもう、口説く気にもならんな。………というか、口説いた瞬間にまた欠伸の温床にされるのがオチだ)
だが、そう毒づいている己の口元に、社交用の作り物ではない、柔らかく温かい本物の苦笑が浮かんでいることに、アルシード自身すら気づいていなかった。
とはいえ、政争回避のための偽装婚約は今後も継続する。婚約者である以上、今後も定期的に彼女を連れ出し、逢瀬の場を設けなければならない。
(これからは、どう接したものか。いつもの、社交界の定番である優雅な薔薇園や夜間植物園デートは、彼女にとっては『退屈な拷問』でしかないらしいからな……)
木の上からの容赦ない悪口を思い出し、アルシードは一瞬、美貌に微笑を湛えたまま、魂の抜けたような遠い目を向けた。
腕を組み、大公としての格式高い知性を総動員して思考を巡らせる。その時、先ほどの晩餐での彼女の食べっぷりを思い出す。
(───よし、とりあえず何か食べさせに行こう。次は、気取った社交の場ではなく、信頼できる名店の格式高い個室など、人目につかない場所で、彼女が心置きなく食事を楽しめるような『美味を追求する逢瀬』にすればいいのではないか?)
これならば彼女も退屈しない。我ながら完璧な妙案を思いつき、アルシードが微かに満足げな笑みを浮かべた、その時であった。静かに扉がノックされ、筆頭秘書官のハンスがお茶と茶菓子を載せた銀盆を携えて入ってきた。
「閣下、おかえりなさいませ。オルブライト伯爵邸での晩餐はいかがでしたか?」
「……ああ。非常に、胃の痛む歓待を受けたよ」
アルシードが疲弊しきった笑みを浮かべて応じると、ハンスはすべてを察したように深く、されどどこか誇らしげに深く頭を下げた。
「それは何よりでございます。我が主の真摯な愛が、あの厳格なる軍閥の皆様にも確実に響いている証拠にございましょう。今夜はこれ以上の邪推は無用かと存じます。どうぞ、ごゆっくりお休みくださいませ」
ハンスは至高の調度品の如き流麗な所作でお茶を注ぐと、長居は無用とばかりに一礼し、静かに執務室を退室していった。
主が一人残された室内のテーブルには、白磁の皿に上品に焼き上げられたスティック型のクッキーが美しく盛られていた。 それを見た瞬間、アルシードの脳裏に、先ほどメリッサに自分のデザートを奪われたあの理不尽かつ愛らしい光景がまざまざと蘇る。あまりの落差と、白旗を掲げるほかない妙な敗北感から、アルシードはソファに深く背を預けたまま、片手で顔を覆って喉を鳴らした。
「……くっくっくっ、ははは……。いや、本当に……完敗だよ、メリッサ嬢……」
覆った手の隙間から漏れる笑みは、もはや隠しきれない脱力感に満ちていた。
気取った薔薇園のデートなど「拷問」と断じたあのじゃじゃ馬に、己のプレイボーイとしての自尊心は完膚なきまでにへし折られた。だが、近衛騎士隊長であるシグルドとテリーヌを奪い合い、自分のデザートを美味そうに掠め取っていったあの規格外の健やかさが、どうしようもなく可笑しくて堪らないのだ。
これを恋などという気恥ずかしい錯覚で呼ぶつもりは毛頭ない。ただ、あまりに未知の生物を前にして、大公としての好奇心と調子が狂わされているだけに違いないと、アルシードは心中で都合の良い弁明を並べ立てる。
降伏の白旗を掲げた己の滑稽さに呆れつつも、彼は静かに、しかし確実に、その茨の迷宮へと自ら足を踏み入れていた。
* * *
数日後。メリッサの私室に、一通の書状が届けられた。これまでは華美な装飾や、流麗な愛の言葉がこれでもかと並んでいた大公からの便りであったが、今回は驚くほどに白紙に近い。
『次の偽装婚約の活動日は今週末の良き日。日没の定刻ちょうどに迎えに上がるので、支度をしておくように』
貴族の令嬢たちが目にすれば、あまりの素っ気なさに卒倒しかねない事務的な文面であったが、メリッサは逆に、ホッと肩の力を抜いて書状を机に置いた。
(あら、ずいぶんと簡潔だこと。まあ、もうお互いの本性はバレてしまったのだから、お上品な文通など長続きするはずもないけれど。……だけど、今度はどんな退屈な場所に連れて行かれるのかしら。またあのキザな台詞を聞き流しながら、必死に欠伸を噛み殺すのかと思うと、本当に面倒だわ)
そんな緩い憂鬱を抱えながら、当日、彼女は世間向けの完璧な「お上品な深窓の令嬢」のドレスに身を包んだ。
やがて約束の時間通り、ベルンシュタイン大公家の豪奢な馬車が迎えに現れる。車内には、当然ながらアルシードが待っていた。対面に座る二人の間には、かつてのような甘やかな、しかし酷く張り詰めた空気はもうない。
メリッサは端然とした姿勢のまま、完全に遮蔽された馬車という人目を気にしなくて良い空間に入った瞬間、それまでの可憐な微笑を消し去り、サバサバとした本来の地声で声をかけた。
「……大公閣下。今日の行き先ですが」
「何かな、メリッサ嬢」
「よく眠れる場所ですか?」
真顔で、極めて自然な疑問として放たれたその一言に、アルシードの至高の美貌がピクリと引きつった。前回の植物園での精神的致命傷を思い出したアルシードは、無言のまま、深々と重いため息を吐き出すと、そのままスッと窓の外へ視線を逸らした。
「……教えません」
「あら、なぜですの」
「絶対に教えません。到着するまでの間、その素晴らしい想像力を働かせて、存分に警戒しているといい」
(──絶対に教えるものか。到着した瞬間の、お前のその澄ました令嬢の仮面が驚きで崩れる顔だけを心の支えにして、私はこの片道一時間を耐え抜くことにする)
大公ともあろう者が、まるで駄々をこねる幼児の如く行き先を秘匿した様子に、メリッサは(あら、怒らせてしまったかしら?)と思いつつ、まあどうせまた退屈な庭園だろう、と当たりをつけて大人しく目的地を待つことにした。




