茨の餐庭、黒薔薇の帰着
オルブライト伯爵家の食堂は、一国を代表する名門にふさわしく、格調高い静謐さに満ちていた。贅を尽くした調度品に囲まれ、白磁の器に美しく盛られた至高の料理が次々と運ばれてくる。だが、席に着いたアルシードの五感は、料理の芳香よりもむしろ、男たちの間から立ち上る、静かだが苛烈な気配を察知していた。
そこへ、ジゼルの口から、応接室にいたるまでの庭園での一幕───すなわち、メリッサが木から落下し、アルシードに受け止められたことで「本性が完全に開帳された」という事実が、極めて淡々と明かされた。
「がはははは!! ついにメイがドジを踏んだのか! 愉快、愉快! 油断したな、メイ!」
沈黙を破ったのは大将軍ガルフォードの、大地を揺らすような豪快な爆笑であった。武人の気品を損なわぬ重厚な響きではあったが、その内容はあまりにも身も蓋もない。
アルシードは男たちが驚愕し、取り繕う姿を予想していた。しかし、将軍である父ゲラルトも近衛騎士隊長である長男のシグルドも、驚くどころか「なんだ、ついにバレたのか」と、至極当然のことのようにシレッと構えている。宰相補佐である次男のヴィンセントにいたっては、眼鏡の奥の切れ味鋭い瞳を細め、「フッ……」と、どこか楽しげな薄ら笑いさえ浮かべていた。
(……やはり、この家族は全員が異常だ。令嬢がドレス姿で二階の窓から木に飛び移る異常事態を、『ドジ』の一言で片付けるなど、どのような価値観のなせる業だ。……待て。慌てない? 全員がシレーッとしているだと……?──ああ、そうか。この男たちは、最初からすべてを知っていたのだ。彼女の中身が『二階の窓から飛び降りるじゃじゃ馬』であることを知り尽くした上で……あの日々、私を国家転覆オーラで威嚇し、手の平の上で転がしていたというのか……!?私が『可憐で儚げな深窓の令嬢』を必死に口説こうと空回りしていた滑稽な姿を、この軍閥の男たちは、すべて分かっていながら私を威嚇し、特等席の観客として嘲笑っていたのか──!!)
アルシードが内心で戦慄していると、ガルフォードが不敵な笑みを湛えたまま、彼に視線を向けた。
「ベルンシュタイン大公、よくぞ我が家のじゃじゃ馬を受け止めてくれた! 感謝するぞ!」
「……滅相もないことでございます、大将軍。ただ、受け止めた際のあまりの衝撃に、私の方が心臓を止めかける始末でございましたが」
アルシードは完璧な大公としての微笑を浮かべつつ、自身の粉砕されかけた尊厳を思い、密かに胃をキリキリと痛めていた。
だが、男たちが「バレた事実」そのものに動じなくとも、それはそれとして「最愛の妹が他の男の腕の中に落ちた」という事実は、彼らの尋常ならざる過保護に深く触れていた。
シグルドが、極上の貴族的な笑みを浮かべながらも、近衛騎士隊長としての据わった目をアルシードに向ける。
「メイ、怪我はないんだね? ……大公閣下、妹がご迷惑をおかけした。それで……受け止める際、まさかとは存じますが、不埒な触り方などはしていませんね?」
「誓って、そのような余裕など微塵もございませんでした。あまりの落下の速度と重量に、骨が折れなかった己の頑強さに感謝したほどですから」
アルシードが必死に取り繕った嫌み交じりで弁明すると、ヴィンセントが静かにワイングラスを揺らしながら、底冷えのする薄ら笑いを深めた。
「我が家の料理長の腕は確かですが……閣下、胃の調子は大丈夫ですか? なんだか、先ほどからお顔の色が優れないようですが」
冷徹な宰相補佐らしい、こちらの急所を正確に突いてくる言葉の嫌がらせに、アルシードはうっすらと引きつった笑みを返すしかなかった。
そんな、男たちの間でバチバチと見えない火花が散り、アルシードが精神的に削られている横で、メリッサの様子はこれまでのデート時とは一変していた。
本性がバレた今、もはや「退屈を噛み殺すお人形」を演じる必要はない。背筋こそオルブライト家の令嬢らしく凛として完璧に美しいが、その食べっぷりは驚くほど生き生きとしていた。下品にならない絶妙な品格を保ちつつも、気持ちよく大きく口を開けて、パクパクと実に美味しそうに料理を平らげていく。
「んー! やっぱりうちのローストビーフが世界一美味しいわ!」
幸せそうに頬を膨らませてモグモグと咀嚼する彼女を見て、男たちは一斉に目尻を下げてとろけるような笑顔を向けた。
それを見つめるアルシードは、またしても新鮮な衝撃に打ちのめされていた。
(……嘘だろう。今までのデートで、私の用意した最高級の宮廷料理を『あ、もうお腹いっぱいですので』と小鳥のようについばみ、数口で残していたあの儚げな少女は一体どこへ行ったのだ。否、あれが『退屈すぎて食欲すら湧かなかった姿』で、これが彼女の『真実の胃袋』というわけか。恐ろしいほどによく食べる……!)
そんな中、メリッサが皿の端に大切に残していたテリーヌに、シグルドの目が留まった。
「メイ、そのテリーヌはいらないのか?」
普段の厳格な近衛騎士隊長とは思えない、悪戯っぽく少年のような笑みを浮かべ、彼はメリッサの皿へフォークを伸ばす。
「だめよ!! これは最後の楽しみにとってあるんだから!」
メリッサは皿をぎゅっと抱え込むような、驚異的な俊敏さでそのフォークを回避した。
「お兄様ったら、この前も私のお菓子を勝手に食べちゃったじゃない! 意地悪だわっ!!」
本当に悔しそうに、まるで木の実を守るリスのように両頬をぷくーっと膨らませてシグルドを睨みつける。
「ははは、そう怒るな。……そうだ、今日、街でメイの好きそうなお菓子を買ってきたんだ。それで許してくれ」
「許すわ!」
満面の笑顔での即答。そのあまりの現金さに、ヴィンセントが眼鏡の奥の目を細め、心底楽しそうに破顔した。
「メイは現金だな」
目の前で繰り広げられる、国を滅ぼせる男たちと最強のじゃじゃ馬令嬢の、あまりにも賑やかで温かい日常。その光景をじっと見つめているうちに、アルシードの心から、先ほどまでの胃痛や、プレイボーイとしての虚飾、男たちの殺気に対する緊張といった「毒気」が、不思議とすうっと抜けていくのを覚えていた。
時折、鈴を転がすような本物の笑い声をあげながら、感情を豊かに爆発させて食事を楽しんでいるメリッサ。その姿は、社交界で誰もが憧れるあの完璧に気取った令嬢姿よりも、ずっと生き生きとしていて、人間らしくて……そして、何倍も魅力的に見えた。
己の心のなかにストンと落ちてきたその素直な感情に、アルシードは眉を少し下げ、困ったように微笑みを浮かべるのだった。
食事も終盤に差し掛かった頃、ゲラルトが、思い出したように食事の手を止めてアルシードに視線を向けた。
「で、結局のところ、大公は本日、我が邸宅に何をしにいらしたのだ?」
「そう言えば……まことに奇妙ですね。何をしにいらしたのですか?」
優雅に菓子を口に運びながらシグルドが首を傾げ、さらにメリッサまでもがテリーヌを咀嚼しながら自然に連鎖する。
「うん、何しに来たの?」
……悪気は一切ないのだろう。しかし、一切の躊躇なく大公への敬意をミリ単位すら無視してくるなめ腐った態度に、アルシードの胃が再びキュッと音を立てた。彼は静かにカトラリーを置き、大公としての格式高い表情を引き締め、真っ直ぐにオルブライト家の面々を見据えた。
「……昨日、私がここへ訪れた際、お騒がせした挙句に挨拶もせず、逃げるように帰ってしまった非礼を、まずはお詫びしたかったのです」
男たちは、アルシードがなぜ昨日逃げ出したのか(皇太子の贈り物の山と、自分たちの発する殺気に胃を破壊されたため)を察し、少しバツの悪そうな顔をする。
「そして、メリッサ嬢。何よりもあなたに謝らなければならない。そもそも私の政争回避のために、あなたを『偽装婚約の盾』として巻き込んでしまった。そのせいで、今、あなたが皇太子に歪んだ執着で狙われる羽目になっている。私の不徳の致すところだ。本当に申し訳ない」
心からの罪悪感を滲ませて頭を下げるアルシードの姿に、食堂の空気が静まり返る。アルシードは顔を上げ、今度は男としての強い覚悟を宿した瞳でメリッサを見つめた。
「ですが、最初の契約を違えるつもりはありません。これからはメリッサ嬢に群がる不埒な虫───皇太子を含め、あらゆる害意から、私の全力を尽くしてあなたを『盾』として守り抜くことを、改めてここで誓います」
プレイボーイの軽薄さも、大公としての傲慢さもない、真摯な決意。いつもなら殺気を飛ばす過保護軍団も、今回は一切の威圧を引っ込めた。
ヴィンセントが静かに声をかける。
「……ふむ。大公閣下がそこまで責任を感じて謝られるようなことではない。遅かれ早かれ、あの害虫はいずれメイに目を付けていたでしょうし」
アルシードが少し驚いたように目を見張ると、ガルフォードが不敵な笑みを浮かべて腕を組んだ。
「我々は、それを正面から合法的に圧殺するのみだ。相手が皇族だろうが関係ない」
「ええ。オルブライトの総力を以て、跡形もなく叩き潰すだけですから」
シグルドもまた、絶対的な強者の自信を湛えて頷く。
(……サラリと言ったな。相手は次期皇帝だぞ。──いや、待て。この布陣が本気になれば、帝国そのものを文字通り『圧殺』して新国家を建国できるな………)
男たちのあまりに規格外な発言に、アルシードは別の意味で背筋を凍らせた。しかし、国がひっくり返るような物騒な会話が男たちの間で交わされているというのに、当の本人は完全に別世界にいた。
メリッサは、運ばれてきたデザートを見た瞬間から目を輝かせ、完全に「我関せず」のオーラで幸せそうにモグモグとパフェを堪能している。アルシードが(少しは危機感というものを持っていただきたい……!)と、彼女をじっと見つめていると、メリッサがその視線に気づいて顔を上げた。
「……デザート、食べないんですか? 食べないなら、貰っちゃいますよ?」
そう言って、アルシードのデザートの上に乗っていたスティック型のクッキーを、手元からヒョイッと摘まんで、己の口へと運んでしまったのである。
「あらっ、メイ、お行儀悪いわよ」
ジゼルにそう窘められても、メリッサは全く悪びれずに「へへへ」と楽しそうに笑う。
危機感ゼロで、自由奔放なじゃじゃ馬の姿。アルシードは呆れつつも、やはり眉を下げて、困ったように笑った。
「──まったく。あなたを見守る盾の義務は、想像以上に過酷なようです。どうぞ、私の分もすべて差し上げましょう」
そう言って、自分のデザートの器を丸ごと、メリッサの前へと優しく差し出す。これまでのどんな洗練された口説き文句よりも、本物の優しさと甘さが通い合った瞬間のまま、オルブライト家の賑やかな晩餐会は幕を閉じるのだった。




