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白薔薇の素顔、黒薔薇の開花 ~真実のプロローグ~



「うるさいっ!! おまえのせいだろうが!!」


オルブライト伯爵邸の、美しく整えられた庭園に響き渡ったのは、ベルンシュタイン大公家の歴史のなかで、誰一人として発したことのないであろう、剥き出しの怒号であった。一瞬にして、周囲のすべての音が消え去った。梢を揺らす風も、囀りかけていた小鳥の羽ばたきすらも、その場に凍りついたかのような完全な静寂が支配する。


アルシードの腕のなかには、未だ、気まずそうなままのメリッサが収まっている。受け止めた際の、まるで隕石を抱きとめたかのような物理的衝撃の余韻によって、アルシードの強靭な心臓は未だかつてないほど激しく脈打っていた。



(……私は今、なんという見苦しい声を上げてしまったのだ)



 ハッと我に返った瞬間、アルシードの脳内にある格式高い知性が、一斉に警報を鳴らした。令嬢に対して大声を張り上げるなど、紳士の、否、ベルンシュタイン大公としての矜持が許すはずもない。あまりの自己嫌悪に、アルシードの顔には社交用の「完璧な美貌の笑み」が張り付いたが、その瞳からは一切の光が消え失せ、魂だけが一瞬で遥か遠い異界へと旅立っていた。


彼の腕のなかで、完全に表情を「死体」にさせた大公の顔を至近距離で見つめていたメリッサは、気まずそうに、けれどどこか親近感を覚えたような眼差しでポツリと呟いた。普段の、徹底的に作り込まれた猫なで声ではない。少し低めの、サバサバとした本来の地声であった。



「……あの、大公閣下。魂が戻っていらっしゃいませんよ」



びくり、とアルシードの肩が揺れ、遠い世界から魂が引き戻される。彼は大急ぎでメリッサを地面へと下ろしたが、その手は無意識のうちに、シクシクと痛み始めた胃のあたりを押さえていた。そこに、どこか楽しげな足音が近づいてくる。

 


「あらあら、バレちゃったのねえ。閣下、お見苦しいところを……いえ、お聞き苦しいところをお見せしてごめんなさいね?」



二階の窓から事の顛末をすべて見守っていた母ジゼルが優雅にドレスの裾を揺らしながら歩み寄ってきた。その声音は相変わらず呑気で、しかし一切悪びれない凄まじい包容力に満ちている。アルシードは「お聞き苦しいどころの騒ぎでは……」と心中で血の涙を流したが、貴族としての本能が辛うじて理性を繋ぎ止める。笑顔のまま、再び一瞬遠い目をしたアルシードを、ジゼルはふんわりとした微笑みで見つめた。

 


「外で立ち話もなんですし、応接室へどうぞ。殿方の激しい情熱(※怒号)で乾いた喉を宥める、特製のお茶を淹れさせますわ」



 * * *


 オルブライト伯爵家の応接室には、どこか落ち着かない、妙にちぐはぐな空気が流れていた。


 先ほど庭園の木の下で、格式高きベルンシュタイン大公としての仮面をかなぐり捨て、「普通の男」として全力の怒鳴り声を上げてしまったアルシードは、その凄まじい自己嫌悪のあまり、気品ある微笑を浮かべたまま完全に魂の抜け殻と化していた。


 対面に座るメリッサもまた、先ほどの野生児のような大立ち回りを見られたバツの悪さからか、借りてきた猫のようにお行儀よく縮こまっている。お互いが完璧に構築してきた「理想の婚約者像」が音を立てて崩壊した空間には、いつもの偽装婚約デートとは明らかに異なる、奇妙な限界領域が形成されていた。


 二人きりの沈黙のなか、メリッサが恐る恐るアルシードの黒耀の瞳を覗き込んできた。



「……あの、閣下。本当にお怪我はございませんでしたか?」



 アルシードは現実逃避の深淵からゆっくりと意識を引き戻し、どこまでも優雅に、しかし確かな恨みがましさを込めて声を紡いだ。




「……幸いにして、私の骨は五体満足のようです、オルブライト令嬢。……ただ、私のこれまでの歩みと、紳士としての自負は……今さっき、あの庭の芝生に木っ端微塵に砕け散ったようですがね」


「それは、その……大変申し訳なく思っております」




 アルシードの遠回しな嫌みに対し、メリッサはほんの少し申し訳なさそうに身を縮めた。だが、次の瞬間、遠慮がちではあるものの容赦のない本音のナイフが再び突き刺さる。



「……ですが、閣下のお言葉、本当に、その……退屈、でしたので……。あくびを噛み殺すのが、本当に死に物狂いだったのです……」


(……退屈。そうか、退屈だったか。二十七年の人生で培った私の洗練された話術と、社交界の令嬢たちを虜にしてきたあの甘美な時間が、この可憐な少女にとっては『上質な睡眠導入剤』でしかなかったというわけだ……)


 正面から「退屈の極み」だと宣告され、今度は物理的に胃のあたりを押さえて完全停止するアルシード。



「……しかし、メリッサ嬢」


「はい」


「その、少し低めの落ち着いた声が、あなたの『素』ですか?」



メリッサはハッとして、いつものお上品な猫なで声を作ろうとしたが、アルシードの「もう手遅れです」という冷徹な真顔の遮りによって、完全に肩の力が抜けたようだった。



「……ええ、そうです。これが素です。がっかりされましたか?」


「がっかり、というよりは、すべての謎が解けて腑に落ちました。あの日、夜間植物園で私が覚えた違和感や、あなたの鋼鉄の脈拍、1ミリもよろめかない足さばき。すべては私の脳のバグではなかった。私の直感が正常だと証明されて、むしろ安心したくらいです」


「それは……すみません」



へへへ、とでも笑いたそうな、それでいて心苦しそうな顔。初めてアルシードの前で見せた、完璧なお人形ではない年相応の少女らしい人間味のある表情に、アルシードの思考は再びフリーズした。


 笑顔のまま完全に魂が抜けた大公の前に、ジゼルがお茶と、彼女お手製の焼き菓子を携えて戻ってきた。



「さあ、どうぞ。お詫びと言ってはなんですけれど、閣下、今夜はぜひ我が家の晩餐にいらしてくださいな」



 ジゼルの温かい誘いに対し、さっきまでバツの悪そうな顔をしていたメリッサは、焼き菓子を見た瞬間、そのブルーの瞳を輝かせた。そして、小さな子供のように嬉しそうにパクリとそれを頬張る。咀嚼しながら、彼女はすでに完全にケロッとした様子で、ジゼルに同調した。



「うちの料理長は、すごく腕が良いのです。閣下もきっと気に入ると思うわ」



モグモグと口を動かす婚約者を前に、アルシードは内心で深い溜息を隠せなかった。



(……切り替えが早すぎる。あるいは、私の胃痛は現在進行形なのだが……)


「……ところで、メリッサ嬢。あなたほどの驚異的な身体能力とサバサバした気質がありながら、なぜそこまで徹底的に『深窓の令嬢』を装う必要があったのです?」



 アルシードの至極真っ当な疑問に対し、メリッサは焼き菓子を飲み込むと、地声のまま少しだけ視線を落として肩をすくめた。



「決まっているじゃないですか。我が家は帝国を支える軍閥の名門。大好きな祖父や父、お兄様方が、私のせいで社交界から後ろ指を指されたり、家門の歴史に泥を塗るような真似は断じてしたくないのです。……ですから、家族はありのままでいて良いと包み込んでくれていますけれど……これでも私なりに、オルブライト家の令嬢としての品格を、必死で維持しているつもりなのです」


「……木から落ちておきながら、よく言えますね」


「それは本当に、その……面目次第もございません」


 へへ、と恥ずかしそうに頬を掻く婚約者を前に、アルシードは思わず唖然とした。



(……なるほど。あの大真面目で狂気じみた溺愛を見せる男たちのために、彼女は彼女なりに、健気な家族愛から『理想の令嬢』の仮面を被っていたというわけか。普段は完璧な淑女を気取ってはいても、中身はまだ、二十二歳のうら若き乙女に過ぎない。大好きな家族を想うがゆえに、必死で背伸びをして家門の品格を守ろうとしていたのだな……)


 これまでただの恐怖の対象でしかなかったオルブライト家の、不器用ながらも温かい家族の絆。その一端に触れ、アルシードの胸の奥にほんの微かな温もりが宿りかけた、まさにその時であった。


邸内に、地響きのような重厚で豪快な足音が響き渡った。



「ただいま帰ったーー!!」



 地を震わせるような祖父───大将軍ガルフォードの声が轟いた瞬間、焼き菓子を食べている最中だったメリッサの目の色が変わった。まるで、大好きな主人の足音を察知して耳をピーンと立てた従順な犬のように喜び、彼女は菓子を持ったまま、応接室をものすごい勢いで飛び出して行ってしまったのである。先ほどまで健気に語っていた『令嬢の品格』が、音を立てて霧散した瞬間であった。


 取り残されたアルシードも、ジゼルと共に慌てて玄関ホールへと向かった。そこで大公が目撃したのは、社交界の人間が見れば一瞬で卒倒しかねない、国家最高峰の武人たちの威厳崩壊の光景であった。



「お祖父様!お帰りなさい!」


「おお、メイ、いい子にしておったか~!」



 戦場では鬼神と恐れられる大将軍ガルフォードが、孫娘を抱きしめて目尻を下げ、およそ帝国最高指揮官とは思えぬ締まりのない好々爺の笑みを浮かべている。



「お帰りなさい、お父様」


「ただいま、メイ。寂しかったかい?」



続く将軍ゲラルトも、普段の厳格さをどこへ置き忘れたのか、蕩とろけたような笑顔で愛娘を抱擁する。さらにメリッサは、次男のヴィンセントへと向き直った。



「お兄様」


「ただいま、メイ。……何か食べていたね? 汚れているよ」



 普段は冷徹極まる宰相補佐として知られる堅物の青年が、とろけるように優しい表情を浮かべ、メリッサの頬についた菓子のカスを指先でそっと拭ってやっている。メリッサは「今日はお母様のお手製のお菓子があるのよ!」と、実に嬉しそうに報告していた。最後に進み出たのは、長男のシグルド近衛騎士隊長である。



「お兄様、お帰りなさい」


「ああ、ただいま、メイ。……おや、甘い匂いがするね。俺たちの分はとっておいてくれたのかい?」



 そう言ってメリッサをぎゅっと抱きしめる近衛騎士隊長の眼差しには、世界で最も壊れやすく尊い宝物を、傷つけぬよう心から愛おしんでいる純粋な慈愛だけが満ちていた。


 あまりに真っ直ぐで無垢な過保護だからこそ、その優しさは尋常ではない迫力となって周囲を圧倒している。この「我が家の天使を愛でる聖なる儀式」を特等席で見せつけられたアルシードは、静かに戦慄していた。



(なるほど。これほどまでに常軌を逸した熱量で、至高の宝物として盲愛されているのであればメリッサ嬢に接近する男に対して、あのような親の仇のごとき敵意を向けるのも至極当然のことだ……。……待て。かく言う私も以前、ジゼル夫人から夜遊びの禁令を突きつけられた際、内心で『ならばメリッサ嬢をその気にさせてお相手願えばいい』などという、あまりにも不埒で浅はかな奸計を企ててはいなかったか……?)



 アルシードの背中に、冷たい汗がドッと噴き出す。男たちが初対面から自分を蛇蝎のごとく嫌っていたのは、「あの好色家め、確実にメリッサに不浄な手を伸ばす気だ」と完璧に見抜いていたからに他ならない。



(思い止まって……あの鋼鉄の脈拍に畏怖し、手を触れなくて本当に良かった。もしあの不埒な下心を一ミリでも行動に移していたら、私は今頃この世に存在していなかった。私はなんて運が良い男なんだ……!)



自身の過去の浅はかさを猛省すると共に、首の皮一枚で繋がった強運に本気で胸をなでおろしていると、ひとしきりメイを愛でて満足した男たちの視線が、ふと動いた。ガルフォードがアルシードの気配を察知し、途端にその太い眉を深くひそめ、鋭い眼光を向ける。



「……ところで。何故、ベルンシュタイン大公が我が家にいるのだ?」



一瞬にして男たちの笑顔が消え、玄関ホールに鋭い殺気が戻る。過去の罪悪感から青ざめているアルシードには、その重圧がいつも以上に突き刺さったが、そこにジゼルがニコニコと微笑みながら割って入った。



「ああ、今夜の晩餐にお呼びしたのよ」



男たちの一同が、同時に(なんだと……!?)と驚愕と不満の入り混じった表情を浮かべる。しかし、家庭内の絶対権力者であるジゼルが誘ったと言われては、誰も言葉を返すことができない。沈黙のなか、ヴィンセントが眼鏡の位置をスッと直し、アルシードに向けてビジネス用の、完璧に引きつった笑顔を向けた。



「……ほう、それは……歓迎いたしますよ、大公閣下。我が家の料理長の腕は本当に良いですから、閣下もきっとお気に召すでしょう……」



声音にはバチバチとした明確な牽制が籠もっていたが、うわべだけは貴族らしく取り繕ってみせる。


 そうして一行は、視線だけで大公をなぶり殺しにせんと完全包囲した護送状態のまま、食堂の席へと着くことになった。──こうして、一輪の哀れな黒薔薇は、逃げ場のない「茨の晩餐会」へと流れるように強制連行されていくのであった。



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