落花の黒薔薇
「……まぁ、でも」
ふと、メリッサが枝の上で小さく顎に手を当てて、少しだけ声音を和らげた。
「ジュリアン殿下が不躾に迫ってきたときに、堂々と間に入って殿下を圧倒した姿は……その、少しだけ、格好いいと思ったけど。あ、でも……」
(──今度はなんだ! まだ、まだこれ以上に俺の心を抉る言葉が続くというのか……!)
僅かな褒め言葉の後に続くであろう、次なる容赦のない本音。それを察したアルシードは、もはやこれ以上、己の至高のプライドが引き裂かれる恐怖に耐えることができなかった。
「──っ、ゴホンッ!」
アルシードは美しい微笑みを顔面に張り付かせたまま、しかし明確に、庭園の静寂を破る鋭い咳払いをした。己の存在を、これ以上ない形でアピールするために。
その瞬間、木の上の空気が劇的に凍りついた。
「え……?」
メリッサが恐る恐る真下へと視線を向ける。
石畳の真ん中で、極上の貴族的な微笑みを浮かべながら自分を見上げている婚約者と、ばっちりと目が合った。
「や、やば……っ!」
完璧な深窓の令嬢からはおよそかけ離れた、あまりにも素直な焦りの声がメリッサの口から漏れた。慌てて体勢を崩した彼女の足が、木の枝から不自然に滑る。
「お嬢様ーーーーーっ!!」
ばあやの悲痛な絶叫が再び響き渡るなか、白銀の髪とドレスのフリルが、重力に従って宙を真っ逆さまに落ちてきた。
アルシードの身体は、思考よりも先に動いていた。彼は日頃から厳しく鍛え上げてきたその強靭な肉体を以て、落下してくる婚約者をしっかりと受け止めるべく、両腕を差し出した。
「─────っ!!」
ドサッ、という鈍い衝撃が、アルシードの全身を貫いた。
いくら華奢で軽いメリッサとはいえ、二階の高さに近い木の上から落ちてきた人間をまともに受け止めるとなれば、その物理的な衝撃は凄まじい。
アルシードの逞しい腕と体幹はしっかりと彼女をホールドしたものの、凄絶な衝撃は足の爪先から頭の天辺まで、ビリビリとしびれるような痛みを走らせた。心臓が、まるで警鐘のように激しい動悸を刻み始める。
アルシードの腕にすっぽりと収まったメリッサは、怪我一つない様子で、しかしものすごく気まずそうに、引きつった冷や汗顔のまま、じっと彼を見上げた。
そして、彼の胸元に触れている己の手のひらから、あまりにも激しく波打つ拍動を感じ取り、蚊の鳴くような声で言った。
「あ、あの~……閣下。脈拍、すごく乱れてますよ……?」
かつて薔薇園で、自分が熟睡時より穏やかな鋼鉄の脈拍で彼を敗北させたことなど、完全に棚に上げたお気楽な指摘だった。
百戦錬磨のプレイボーイとしての尊厳、大公としての知性、そして積もり積もった三ヶ月間の胃痛のすべてが、その瞬間に限界突破を迎えた。
「うるさいっ!! おまえのせいだろうが!!」
アルシードはついに、生涯で初めて美しい微笑みの仮面をかなぐり捨て、ただの、余裕をなくした一人の男として、至近距離の婚約者に向けて全力で怒鳴りつけた。
静かなオルブライト邸の庭園に、大公閣下の人生最大にして、あまりにも人間味に溢れた絶叫が、虚しく木霊するのだった。




