落飾の白薔薇
翌朝、大公邸の豪奢なベッドで目覚めたアルシードは、前日の己の行動を深く恥じていた。 大人の分別を持つ者として、また一国の社交界を牽引する大公として、昨日の逃亡劇はあまりに情けない醜態であったと言わざるを得ない。
そもそも、メリッサを政争の道具として巻き込んだのは他ならぬ自分だ。そのせいで皇太子に目を付けられ、オルブライト家に多大な心労をかけているのもまた事実であった。
(逃げてどうする。私が誠意を持って、盾の義務を果たさねば。今日こそは逃げずに、彼女と、そしてあの家族と向き合うのだ)
アルシードは強い決意を胸に、あえて事前の約束を入れず、誠意を示すための電撃的な訪問を敢行した。再びあの魔窟へ足を踏み入れる恐怖で胃壁は微かに鳴いていたが、それを大公の矜持でねじ伏せる。
だが、オルブライト伯爵邸の重厚な鉄門をくぐり、正面玄関へと続く美しい石畳のアプローチを進んでいた、まさにその時だった。
「おっ、お嬢様ーー! いい加減になさいませぇーー!!」
静謐な庭園を引き裂いたのは、屋敷の二階の窓から響き渡った、老齢な侍女の悲痛な絶叫だった。
何事か。アルシードが怪訝に思い、歩みを止めて窓を見上げた、まさにその瞬間だった。
開け放たれた二階の窓から、眩い白銀の髪がひらりと舞った。
あろうことか、上質なドレスの裾を大胆にたくしあげ、信じられないほど軽やかな躍動感で、宙へと飛び出してくる人影があった。帝国一の美女と謳われる、彼の婚約者メリッサその人である。
「おっ……」
アルシードの喉から、一流の貴族としては決して出すはずのない、奇妙な割れた声が漏れた。 あまりの光景に声もなくギョッとするアルシードの目の前で、メリッサはまるで重力そのものを欺くかのような滑らかな重心移動のまま、アプローチにせり出した大木の太い枝へと、吸い込まれるように飛び乗った。
これまでのデートでアルシードを戦慄させたあの完璧な重心移動は、あろうことか「木登り」という野生の極致に挑むために研ぎ澄まされた、驚異の体幹能力だったのだ。 ドレスの裾を片手で器用に押さえ、枝の上でリズミカルにバランスを取りながら、メリッサは楽しげに鈴を転がすような声で笑った。
「うふふっ! ごめんなさい、ばあや! でも、お裁縫って退屈なんだもの!」
「そんな事を仰って! 大公様に笑われてしまいますよ!?」
窓から身を乗り出して息を切らせるばあやの叱責に、メリッサは枝の上でドレスの裾をひらひらと揺らしながら、快活に言い放った。
「構わないわよ! あの大公閣下、今日はどうせ来ないもの!」
その真下に、まさにその「あの大公閣下」が直立不動で佇んでいることなど、木の上の令嬢は夢にも思っていない。
アルシードは声をかけるタイミングを完全に失ったまま、美しい微笑みを顔面に張り付かせ、ただ見上げるしかなかった。
(……なんだ? 私の目の前で、一体何が起きている……?)
アルシードの格式高い知性が、一瞬にして音を立てて完全崩壊した。
ドレスを着て、二階の窓から飛び出して、今、彼女は木の上に立っている。深窓の令嬢とは、平日の昼下がりにこれほど自然な足取りで木に登る生き物だっただろうか。いや、淑女の嗜みに木登りなどという項目は建国以来存在しない。
「それに、閣下に連れて行かれる場所って、どこもかしこも本当に退屈なんだから。昨日のお茶会だってそうよ。お上品な薔薇の交配について延々と語られても、私、聞いていて欠伸を噛み殺すのに必死だったわ!」
(──た、退屈だっただと!? この私が、知性とユーモアを尽くして語った薔薇の歓談を……欠伸を噛み殺しながら聞いていただと……!?)
アルシードの脳内で、至高のプライドがガラガラと崩れ落ちる音が響いた。初デートの薔薇園での『鋼鉄の脈拍』の真相は、ときめきではなく、ただの『猛烈な退屈』との死闘だったのだ。
「大体、あのキザな台詞!『君の美しい髪や、清らかな瞳の輝きに勝るものはひとつもない』だなんて、よくもまあ恥ずかしげもなく言えるものよね。聞いてるこっちの方が恥ずかしくて、顔が熱くなっちゃうわ!」
(……な、何ということだ。あれは私への恋心に胸を詰まらせた照れ顔ではなく、私の台詞があまりにも正視に耐えなくて、共感性羞恥で顔を真っ赤にしていただけだったのか……!?)
脳裏に浮かぶ、愛らしく頬を染めていたメリッサの残像が、今や最大の精神的凶器となってアルシードの胸に突き刺さる。
「極めつけはあの、急に手を引いて至近距離に引き寄せてくるやつよ! あんな風に乱暴に引っ張られたら、ドレスの裾を踏んで転ばないように、必死で体勢を整えるしかないじゃない。本当に人騒がせなお方なんだから」
(あれは私に身を委ねまいとする、純粋な物理的自己防衛だったというのか──!!)
かつて大公邸の植物園で彼を恐怖させた「1ミリのよろめきもない完璧な足さばき」の、あまりにも残酷な答え合わせだった。彼女の驚異的な体幹は、アルシードの求愛によって転ばされないためだけに全力で機能していたのだ。
「まったく、世の女性がすべて自分のものになるとでも思っているのかしら。お顔と身分だけは無駄に良いから、余計に性質が悪くて……。私、毎回あのおすまし顔を崩さないようにするだけで、本当に一苦労なんだから」
ズラズラと吐き出される、容赦のないショッキングな本音の雨あられ。
1個悪口が飛び出すたびに、アルシードの知性とプレイボーイとしての尊厳は、物理的な衝撃を伴ってボロ雑巾のように引き裂かれていった。
すべての違和感の真相。
(演技でも、悪意でもない。……彼女の中身は、あれは……あれは、ただのじゃじゃ馬だっ……!!)
己の至高の口説きを『欠伸を噛み殺してスルー』し、お上品な仮面の下で『キザすぎて聞いていられない』と毒づく、ただの、恐るべきじゃじゃ馬であった。
アルシードは、もはや涙すら出ないほどの深い絶望のなか、エレガントな微笑みを顔面に張り付かせたまま、カチコチに凍りついた。
それから、かつてないほど長い、宇宙の真理を探求するかのような深すぎる遠い目をして、脳内で静かに天を仰ぐのだった。




