表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/45

純真の毒薬、無欠の浸透



大公邸の最奥に位置する執務室は、厳選されたマホガニーの重厚な机と、歴代の主が蒐集(しゅうしゅう)した静謐な美術品に彩られていた。


 しかし今、その部屋の主であるアルシード・フォン・ベルンシュタインは、机の上に広げられた極上の羊皮紙を前に、美しい微笑みを絶やさぬまま、心中で激しく頭を抱えていた。


(何故だ……! 何故落ちない……!?)


 それは、社交界で百戦錬磨と謳われてきた彼にとって、天変地異にも等しい絶望的な問いだった。かつて彼の一瞥だけで恋の熱病に倒れた令嬢は数知れず、その大人の余裕は帝国の最高峰と評されてきたはずなのである。


 政争回避のための偽装から始まった婚約関係とはいえ、この三ヶ月間、アルシードは持てる技術のすべてを注ぎ込んでメリッサをエスコートし、至高の求愛を重ねてきたはずだった。洗練された言葉を紡ぎ、数多の令嬢を落涙させてきた情熱の視線を向け、時にはその白い手首にそっと己の指先を重ねた。


 普通の令嬢であれば、一度のデートで間違いなく恋の熱病に浮かされるはずの完璧な布陣である。


(私の洗練されたアプローチの何が、彼女の琴線を外しているというのだ。いや、むしろ彼女の反応は可憐そのものだ。顔を赤らめ、恥じらい、恋する乙女の照れ顔を見せる。……なのに、何故だ!)


あの完璧な照れ顔の裏側に、どのような巨大な迷宮が隠されているというのか。


 アルシードの脳裏に、これまでのデートで検知した「致命的な違和感」が次々と蘇る。 


甘い囁きをユーモアで流した無垢な微笑み。顔を真っ赤にしながらも、風ひとつない湖面のように恐ろしく凪いでいた呼吸の深さ。至近距離に引き寄せられても、ドレスの裾を1ミリも乱さず、一切の揺らぎもなく収まった重心移動の手応え。


(私の何が不満なのだ……!? あれほど美しい顔をして、何故生物学的な乱れが微塵もないのだ……!)


 疑問を通り越してもはや焦燥感へと変わった苦悩に、アルシードは美しい笑みを浮かべたまま、一瞬、遠い目をした。意識の旅先は、はるか世界の果てである。現実逃避をしなければ、知性が崩壊しそうだった。


「──ああ、閣下。なんと痛ましくも美しいお姿でしょう……」


 静寂を破ったのは、部屋の隅に控えていた筆頭秘書官ハンスの、震えるような感嘆の声だった。


 ハンスは胸元で硬く両手を握りしめ、その熱い両眸に狂おしいほどのロマンスの光を宿して、主人を見つめていた。


「メリッサ様と最後にお会いされてから、僅か四日。その短い日々すら、閣下にとっては果てなき砂漠を歩むような苦行の連続だったのですね。愛する方を想うあまり、これほどまでに深く苦悩されるとは……。なんと清らかな純愛でしょうか……! 私は今、真実の愛の奇跡を目撃しております!これほど熱く尊い初恋に、このハンス、一生ついていく所存でございます……!」


「……ハンス」


 アルシードは遠い目から辛うじて意識を現世へと引き戻し、 至高の笑みを崩さぬまま、静かに声を紡いだ。心中では『違う、そういうことではない。私はただ男の矜持をだな』と叫んでいたが、自らの立場がそれを口にすることを許さない。


「私はただ、少し……婚約者としての義務について、思索を巡らせていただけだよ」


「お隠しにならなくとも結構です、閣下! その燃え上がる情熱を秘めた漆黒の瞳、そして愛の重圧に耐えかねて時折宇宙を見つめるかのようなあの切なげな横顔!すべてが物語っております!」


 ハンスはハンカチで目元を拭いながら、力強く頷いた。


「このハンス、閣下の忠実なる側近として、このまま手をこまねいているわけにはまいりません! 閣下のこの張り裂けんばかりの想いを、即座にオルブライト伯爵家へお伝えせねば!幸い、先方からも『婚約者としての義務』の履行、すなわち次なるおデートの打診が来ております。すぐに公式訪問の手配をいたします!」


「待て、ハンス。あそこは──」


 アルシードの脳裏に、公式公務や休暇を全力で私物化し、冷ややかな笑顔で自分を完全包囲してくるオルブライト家の男たちの姿が過った。あそこは家ではない。国家最高峰の武力と知略が詰まった、一歩間違えれば大公家ごと歴史から抹消されかねない魔窟である。


「──あそこは、少々、予定を調整してからの方が……」


「ご遠慮は無用です! 愛の前に障害などありません!すぐさま先方へ早馬を出させます!」


 ハンスは光の速さで執務室を飛び出していった。その仕事ぶりは完璧にして迅速、まさに筆頭秘書官としての有能さを無駄遣いした、見事なまでの自爆特攻アプローチであった。


 静まり返った部屋で、アルシードは優雅な佇まいを保ったまま、そっと自分の胃のあたりを押さえた。まだ訪問すら決まってない段階だというのに、彼の胃壁は早くもキリキリと、確かな悲鳴を上げ始めていた。


──かくして、忠臣の完璧すぎる暴走によって、最強の地雷原へと強制的に特攻させられる羽目になった若き大公の夜は、静かに、そして絶望的に更けていくのであった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ