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硝子の楽園、薔薇の迷宮



 大公邸の敷地内に佇む、全面ガラス張りの広大な夜間植物園(温室)。


 無数のランプや蝋燭の灯りに照らされた園内には、海外から集められた珍しい熱帯植物や、大人の夜にしか開かない夜咲きの花々が、甘く幻想的な香りを放っていた。


(ああ……生き返る。胃の痛みが、引いていくようだ……)


 アルシードは心からの安堵とともに、いつになくリラックスした微笑みを浮かべていた。


 ここは大公邸の絶対の安全圏。いかに全方位型過保護集団の男たちとて、公式な権限を乱用して大公邸の私有地にまで防衛線を敷くことはできない。三ヶ月の間、四六時中浴びせられ続けてきたあの恐ろしすぎる無言の圧から、今だけは完全に解放されているのだ。──そう、このガラスの城壁に守られている限り、我が胃壁の平穏は約束されている。


「私のプライベートな世界へようこそ、メリッサ嬢。夜の植物たちの本当の美しさは、静寂に満ちた夜の光の中でしか愉しめないものなのだよ」


「まぁ、素晴らしいですわ、閣下。まるで、星々が地上に舞い降りて、緑の葉の上で眠っているかのようですこと。このような美しい光景を拝見できて、まことに光栄ですわ」


 白銀の髪にブルーの瞳をきらめかせ、メリッサはうっとりと周囲を見渡しながら、深窓の令嬢としての賛辞を口にする。そのあまりにも絵になる可憐な佇まいは、月光に照らされた一輪の儚げな薔薇そのものであった。


 表向きはどこまでも優雅でロマンチックな、婚約者同士の普通の会話。


しかし、アルシードはプレイボーイとしてのプライドを未だ捨ててはいなかった。オルブライト家の男たちという障害のない今こそ、この三ヶ月間、一度も手応えのなかった彼女の心を大人の余裕で揺さぶる絶好の機会である。


「喜んでもらえて何よりだ。……だが、どれほど珍しい異国の花を集めようとも、私の目には、君のその美しい髪や、清らかな瞳の輝きに勝るものはひとつもないように思えるのだがね」


 アルシードは洗練された仕草で、メリッサの細く白い手を取った。そして、熱を孕んだ漆黒の瞳で見つめながら、そっと自分の方へと彼女を引き寄せた。


「まぁ、閣下……」


 その瞬間、メリッサはパッと美しい頬を薔薇色に染めた。 恥ずかしそうに視線を伏せ、引き寄せられるままに、トトッと小さなステップを踏んで、アルシードのすぐ目の前まで身を寄せてくる。普通の男なら間違いなく理性が飛ぶほど可憐な、完璧な恋する乙女の反応そのものだった。


(今度こそ、落ち──いや、待て)


 引き寄せた彼女の手を握ったまま、アルシードの脳裏に、プレイボーイとして培ってきた一流の経験値がけたたましい音を立てて警報を鳴らした。それは、数々の浮名を流してきた大人の男だからこそ察知できる、およそロマンスとは無縁の不穏な違和感であった。


 通常の令嬢であれば、大人の男性に急に手を引かれ、至近距離に引き寄せられれば、ドレスの裾を踏みそうになってほんの少しバランスを崩したり、驚きのあまり大公の胸へとふわりとぶつかるように身を委ねてくるのが道理である。


 しかし、メリッサの足運びは、あまりにも違っていた。


 重厚なドレスの裾を1ミリも乱すことなく、お上品なトトッというステップのまま、あまりにも滑らかな安定感でピタッと完璧な位置に収まったのだ。引き寄せたアルシードの手に伝わってきたのは、一切の『ぐらつき』も『油断』もない、非の打ち所がない美しい重心移動の手応え。それはまるで、激しい嵐の中でも一歩も揺るがぬ、大樹の根のような絶対的な体幹であった。


(なぜだ……!? 顔を赤らめ、可憐に照れて、恥ずかしそうに身を寄せてきたはずの少女だ。通常の令嬢であれば、ほんの微かにでも足元が泳ぎ、私の胸へふわりとぶつかるように重心を預けてくるもの。……なのに、なぜ彼女の足元には、1ミリのよろめきもないのだ……!? あまりにも無駄のない、完璧な身のこなし……。いや、私の気のせいか……?)


 嘘をついているようには見えない。悪意も演技も感じられない。純粋に恥じらっているように見えるのに、その身のこなしだけが、凪いだ海のように完璧にコントロールされている。この致命的な違和感。 せっかく休まっていた大公の知性が、再びパニックの嵐に揉まれ始める。恐怖と混乱で頭痛が始まり、アルシードは笑顔のまま、一瞬遠い目をした。


「……閣下? どうかされましたか?」


 アルシードの意識が遠のいたのを察し、メリッサが心配そうに小首をかしげ、純真な瞳で彼を覗き込んできた。アルシードは、激しい頭痛を必死にエレガントな微笑みの裏に隠し、格調高く応じる。


「……いや、何でもないよ、メリッサ嬢。君のあまりの美しさに、一瞬、魂を奪われてしまっていたようだ」


「まぁ、閣下ったら。そのような大層な冗談を、まるで真実のようにまじめなお顔でおっしゃるのですから、本当に罪深いお方ですわ」


 メリッサはくすくすと可憐に微笑み、何事もなかったかのように再び美しい花々へと視線を戻す。


 男たちの圧からは完全に解放され、胃壁への攻撃は止まったはずだった。しかし、目の前で可憐に佇む婚約者の、底知れない完璧さという新たなバグに直面し、アルシードは品格を保ったまま、心の中でそっと天を仰ぐのだった。外敵のない安全圏にいるはずが、その内側から静かに忍び寄る「未知のパニック」に、若き大公の知性は早くも限界を迎えようとしていた。


   * * * 


 夜間植物園での、どこまでも優雅で、どこか底の知れないデートを終え、アルシードはメリッサをオルブライト伯爵邸へと送り届けた。


 送り届ける際、伯爵邸の門の周囲に、あからさまに配置が増やされていた近衛騎士たちの冷ややかな視線を再び浴びる羽目になったが、今のアルシードの脳内を占めていたのは、オルブライト家の男たちへの恐怖よりも、彼女自身の「完璧すぎる身のこなし」への底知れぬ困惑だった。──実家が放つ目に見える武力よりも、婚約者が秘める目に見えぬ違和感の方が、若き大公の知性を激しく蝕んでいたのである。


 ──そして、再び大公家の執務室。


 深夜、大公邸に戻ったアルシードは、上着を脱ぎ捨てる気力すらなく、豪奢なソファへと静かに身を沈めていた。


 いつもなら完璧に整えられているはずの黒髪が微かに乱れ、その長い指先でそっと、粉々になった上腹部を押さえている。笑顔のまま一瞬遠い目をする癖は、今や完全に、彼が現実の限界を迎えているサインであった。


「お戻りになられましたか、閣下。夜遅くまで、まことにお疲れ様でございます」


 極上の夜食と、主の健康を気遣うためのハーブティーを携えて現れた筆頭秘書官ハンスは、ソファでぐったりと天を仰いでいる主の姿を見て、胸の奥で再び熱い感動の涙を流していた。


(ああ、なんと痛々しくも、美しいお姿だろう……!)


 ハンスの脳内ロマンスフィルターは、深夜になっても1ミリも衰えていなかった。主のその悲惨な胃痛のポーズすら、ハンスの濁りなき瞳には「愛しき人を想い、胸を焦がして身悶えする高貴な恋煩い」にしか見えていないのである。


 過密な政務を終えたその足でメリッサ嬢の元へ駆けつけ、別れを惜しむように深夜までエスコートを続けられた我が主。今、こうして疲れ果てて天を仰いでいるのは、愛しい婚約者と離れ離れになってしまった寂しさと、彼女を恋い焦がれる情熱に身を灼かれているからに違いない。──これほどまでに純粋で、これほどまでに一途な愛が、かつて帝国の歴史にあっただろうか。


「閣下……。メリッサ様と離れがたいお気持ちは痛いほど分かりますが、どうかお気を確かに。また来週には、お美しいメリッサ様にお会いできるのですから。本日はどうか、愛しいお方の夢を見ながらお休みください」


 忠実な側近の、どこまでも優しく、どこまでもズレきった慰めの言葉が、静かな執務室に響く。


 アルシードはソファに深く背を預けたまま、もはやツッコミを入れる気力すらなく、ただただ心中で絶望を深めていた。


(来週も、またあの『1ミリもよろめかない完璧な令嬢』と対峙せねばならないというのか。……ハンス、お前が今見ている私の涙は、恋の切なさなどではない。私の知性と胃壁が、同時に限界を迎えている涙だ……!)


「……ああ、そうだね、ハンス。彼女は本当に……完璧すぎて、底が知れないよ……」


 アルシードは、もはや恐怖を通り越した強烈な関心を抱きながら、力なく微笑んで、そっと目を閉じた。


  主が恋の病で深く苦悩していると信じて疑わないハンスは、静かにハンカチで涙を拭い、そっと部屋の明かりを落とすのだった。 その表情は、尊き純愛を命がけでサポートせんとする、一人の忠臣の崇高なる輝きに満ちていた。


大いなるすれ違いの喜劇に包まれた、大公家の三ヶ月目の夜が、静かに更けていく。



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