破滅の魔法陣①
白銀にきらめく霧の中で、ミルシャはゆっくりと瞬きをした。
ふと、意識が繋がったとき、自分が目を開いていたことに気づく。
それに気づいた瞬間、胸の奥がひどく静まり返る。
視界を満たす霧は、ただ立ち尽くしているだけなら暗闇と変わらない。
輪郭も、道筋も、誰かの気配すらもない。
世界そのものが息を潜め、彼女をひとり閉じ込めていた。
ミルシャはそっと膝を抱え、冷たい地面に座り込む。
霧の中で唯一はっきり見えるのは――自分の身体だけ。
それが、今の彼女を辛うじて支える“存在”だった。
耳を澄ませば、衣を揺らす呼吸の音がかすかに響く。
その微かな音だけが、霧の世界に沈みきらないよう彼女を繋ぎ止めていた。
「あはは! また、あたしの勝ちぃ!」
突然、霧が震えた。
笑い声が弾けるように響き、白銀の世界に色が差す。
ミルシャは驚く心を持たず、ただ静かに視線を向けた。
霧の中に、ふわりと三人の少女の姿が浮かび上がる。
「き、今日は少し調子が悪いのですわっ!」
「ステファ……“今日も”かな」
「うぐっ! ほ、ほら、ミルシャにも”優越感”というものを体験させて差し上げたいという、私の優しさです!」
「へっ? ゆうえつかん?」
「ステファ……おそらく、ミルシャに一番必要ない言葉だと思う」
どこかの部屋の一室。
三人は机を囲み、ゲームで遊んでいるらしい。
「あはは! 二人が居れば何も必要ないもんっ!」
「こ、こら、抱きついてはいけません!」
「私もその一人なの……」
「ステファ! アメリア! だぁ~い好き!」
ミルシャはその光景に、小さく笑みをこぼした。
胸の奥が温かくなる学院の思い出。 懐かしい――あの日々。
だが、思い出はふっと息をかけた蝋燭のように消え、霧が揺れる。
次に現れたのは、重厚な部屋で話す二人の男性だった。
「学院の試験に、九歳の子供が申請してきた?」
「はい。 学院長より、陛下にお伺いを立てたいと申しております」
「問題はあるまい。 入学時の年齢制限はなかったはずだ。
入学できる実力があり、推薦人が確かであれば問題なかろう」
「では、その様に――」
「しかし、我が娘と同じ年で入学申請か……可能なのか?」
「ステファニー王女殿下でしたら、何の問題もないかと」
「ふむ……、申請してきた子供は何処の貴族だ?」
「それが、家名を許された平民でございます。
名前は――ミルシャ・マリンベル」
「なにっ!?」
「父の名はゼル・マリンベル。 王都で薬医師を開院しております」
「あいつ、何の相談もなく!」
「はい?」
「い、いや、なんでもない。
そうか……そうか、そうかっ! それは面白い!」
「陛下?」
「ステファニーを呼べ!」
「かしこまりました」
王の声はどこか弾んでいた。
そして、場面がぼやけ別の場所に入れ替わる。
まだ幼さの残る少女――ステファニーが現れた。
「お父様、ステファニー只今参りました」
「うむ。 お前を王立学院に入学させようと思うのだが、どうだ?」
「王族が学院に入学しても宜しいのですか?」
「決まりはない。 我も少しの間通っておったからな。
直ぐに辞めてしまったがな! ははは!」
「お笑いになるお話とも思えないのですが……。
それに、学院は十二歳からとお聞きしております」
「入学に年齢の制限はない。
ただ、卒業が成人の儀を考え十五歳と決まっておるから、そう思われがちなだけだ。
今回、九歳で入学申請した娘がおってな、お前と同じ年齢なのだ」
「それと、私が入学することと、何かご関係があるのですか?」
「話を聞いた我の思い付きだ!」
「……お父様?」
「なんだ?」
「何か――お隠しになっておりませんか?」
「い、いや、何もないぞ! 全く何もない!
学を身につけるのに早いという事もなかろう?」
「それは、そうなのですが……分かりました。
お父様に勧めて頂けるのでしたら、喜んで受けさせていただきます」
「そうか! うむ、それがいい! 無事入学できることを楽しみにしておるぞ!」
「おまかせください」
ミルシャは懐かしさを胸に覚えた。
これは、ステファが話してくれた入学前の話だった。
『ふふふ、あたしのこと内緒にして、ステファを学院に入学させた時の話。
ステファ、随分怒りながら話していたわね』
さらに霧が揺れ、別の記憶が浮かぶ。
また二人の男性の姿が現れる。
「キールよ、今年入学する貴族の娘はおるか?」
「はい。 近衛隊長の二女が十二歳と聞いております」
「人柄はどうだ?」
「物静かながら、文武ともに優秀と聞いております」
「そうか、ではその娘にステファニーの世話役を与えよ」
「お言葉ですが、ステファニー様はそういった傍使いは断られるかと」
「なに、別に護衛をというわけではない。
年齢差で生じる不和に手を貸してほしいだけだ」
「では、その様にお話を通しておきます」
「うむ、頼んだぞ」
「はい」
『もう一人……ああ、リーリアのことかな……。
ミッシェル様にお願いされたって言ってた。
ふふふ、毎日登校しながらの技比べ楽しかったなぁ……』
ミルシャの胸に、ぽつりと影が落ちる。
『……楽しかった……?
なんだろう……何かがおかしい……。
あたし、リーリアと仲良かったっけ?
学院の魔法陣……あれは何? なんで、あたし知ってるの?
お父さんの言ってた、あたしに起こったことを教えてくれた人って、たぶんステファとアメリアだ……。
あたしは、何を忘れているの?』
霧が深く沈む。 胸の奥がざわつく。
『お願い……あたしの知らないあたしを……教えて……』
その願いが霧に溶けた瞬間――。
『ならば――深き夢の中で、閉ざした記憶を辿るがいい』
謎の声が響き、霧が渦を巻く。
ミルシャの身体がふわりと浮かび、白銀の世界が遠ざかっていく。
彼女は六年前の過去へ――
閉ざされた記憶の深淵へと、静かに旅立っていった。




