公爵令嬢の願い㉓
床を這う炎は人々を飲み込み、その業火に尊き命が包まれていく――。
そう思われた、ほんの刹那。
しかし、炎はふわりと身体を撫でただけで、一瞬にして通り過ぎた。
熱さも痛みもない。 ただ、温もりだけが頬をかすめた。
蛇のようにうねり燃え広がる炎は、空気そのものを一瞬だけ燃やして見せた。
生き物のように蠢いて見えたのは、燃えた空気が走った軌跡にすぎなかった。
だが、カーテンに喰らいついた瞬間。
炎は幻を捨て、現実となる。
布を舐める赤が、音を立てて燃え上がった。
来賓たちは悲鳴を上げ、逃げようと手足を動かす。
けれど最初に浴びた“威圧”が体を縛りつけ、震える足は言うことを聞かない。
まるで麻痺毒を飲まされたかのように、床に転がりもがくしかなかった。
恐怖と混乱が満ちる大講堂。
サリナもまた蝋燭を手に侍女たちと並んでいた。
それでも、侍女長の名は伊達ではない。
震える足を必死に支え、舞台のセリアへと意識を向ける。
「セリア様を……お助けしなければ……!」
おぼつかない足を前へ。
階段を登りきったところで、力が抜けて倒れ込んだ。
「愚か者が!」
その瞬間、教皇が咄嗟に駆け出す。
セリアの身体を抱き寄せ、後方へ跳ぶように転がった。
直後――セリアが立っていた場所に、爆ぜるような炎柱が舞い上がる。
サリナの蝋燭の火が、何もないはずの石床を燃やし上げたのだ。
「セリア様!」「セリア!」
「教皇様!」
ステファニーとケイトの叫びが響く。
大司教たちも、炎に包まれた教皇へ悲鳴を上げた。
舞台の端に転がった二人の姿は、立ち上る炎に完全に隠されてしまう。
ステファニーは助けに向かおうと身を乗り出すが、背後の白騎士に腕を掴まれた。
「いけません!」
「放してください!」
振り払おうとしても、白騎士の手は離れない。
何より威圧の影響で、椅子から立ち上がることすらできなかった。
「セリア!」
ケイトは椅子から落ち、這って舞台へ向かおうとする。
しかし、二人の白騎士に押さえられ炎から遠ざけられた。
「放せ!」
「できません!」
炎に遮られ、セリアの姿が見えない。
絶望が二人の胸を締めつける。
「大司教! 私とセリア様は無事だ! だが火に囲まれて出られん!
急いで火を消せ!」
「は、はい!」
大司教は慌てて仲間の元へと走る。
その声に、ステファニーとケイトはわずかに安堵の息を漏らした。
「そ、そうだ――急いで水を持ってこい!」
「お前たちは動くな! 全て大司教たちに任せるのだ!」
「な、何故ですか!?」
「うるさい! 黙って従え!」
「……はい」
ケイトは教皇の言葉に反論できず、唇を噛む。
「チッ……これだから、あの者たちの策は……」
教皇は天井を仰ぎ、舌打ちした。
炎からは逃れているものの、周囲の幕は燃え移る寸前。
時間の猶予はほとんどなかった。
「ん……」
「起きたか?」
「教皇様……わたくし、一体……!?」
セリアは炎に囲まれた状況に気づき、蒼白になる。
「騒ぐな。 今、配下の者が火を消しに来る」
「助けてくださったのですか……?」
「まずかったか?」
「いえ……嫌われているのかと……。 ありがとうございます」
「無論、王政派は嫌いだ。
――だが、人が死ぬのを見るのはもっと嫌いなのでな」
その言葉は、炎の轟きの中で妙に静かに響いた。
幕は厚手の布で作られており、周囲のカーテンのように一気に燃え広がることはなかった。
それでも、端に移った火はじわじわと布を侵食し、二人の逃げ場を確実に削っていく。
「この程度の炎なら、飛び越えられませんか?」
「……炎に包まれたくなければやめておけ。
この火は水では消えん。 服に燃え移れば、一瞬で火に包まれる」
「そんなものが……!?」
「………」
教皇はそれ以上語ろうとせず、ただ炎の揺らめきを睨みつけていた。
視線を会場へ戻すと、フェンイルに伝えようとしていたアメリアは、闇に包まれたせいで彼に辿り着けずにいた。
仕方なくステファニーの元へ戻ろうとした、その瞬間――突如襲いかかった威圧が彼女の体を縛りつける。
「くっ……意識していれば防げたのに。 迂闊でした」
威圧は、索敵範囲を広げるほど威力が跳ね上がる。
意識していれば耐えられるが、不意を突かれた威圧はほとんど金縛りに等しい。
それでもアメリアは必死に足を動かし、ステファニーの元へ向かった。
「火の回りが早い……まさか、さっき撒いていた水に何か仕掛けが!?」
気付いた時には遅く、それこそがカーテンを激しく燃やす原因となっていた。
「避難させないと……!」
学院の建物はほとんどが石造りであり、燃え落ちる心配はない。
だが、煙に巻かれれば動けない来賓たちは命を落とす。
――その時。
「正教会の者です! 今助けます!」
扉が勢いよく開き、聖職者たちが雪崩のように飛び込んできた。
三十名を超える彼らは、一人ひとりを担ぎ上げ、外へと急いで運び出していく。
そして救出のたびに「正教会です」と名乗り、来賓の記憶に刻みつける。
恐怖の中で救われた貴族たちは、女神の導きと涙を流しながら手を合わせた。
その光景を見たフェンイルは、教皇の企みを悟る。
「そういうことか……これで優勢だった王政派は大きく傾く。
誰かの命を狙っていたのではなく、地獄を演出し、そこから救い出すことで王政派を取り込むつもりだったのだな」
惨事の知らせを受けて、白騎士が到着するまでには時間がかかる。
そこまで計算し、聖職者を待機させていたのだ。
状況は最悪であり、王都の王政派貴族は全員ここに出席している。
「フェンイル様! 大変です!」
パティの叫び声が降ってきて、フェンイルは咄嗟に振り向いた。
その後ろにはルゥもいる。
二人とも動けてはいるが、いつもの俊敏さには程遠い。
「どうした!?」
「水をかけて火を消そうとしたのですが、ポットの水をかけたら……逆に火が燃え広がったのです!」
「なんだと!?」
フェンイルは壁際に置かれたポットを手に取り、蓋を開けて匂いを確かめる。
「……僅かだが酒臭い。 まさか、錬金術で作るという“燃える水”か!?
そうか、最初に炎が床を這ったのは、この”燃える水”が気化して地を這っていたからだ!」
「では、ここにある水は全部……」
「いや、全部ではない。 飲み水に混ぜればすぐバレる。
だが、この状況で”燃える水”との判別は難しい……火災を消せない!」
たとえ普通の水であっても、天井近くの高い窓に吊られたカーテンの火を消すのは困難だった。
さらに聖職者たちが背負って救出している貴族は、動けない者ばかりで時間がかかる。
このままでは、取り残された者たちが煙に飲まれてしまう。
「何か良い手はないか!?」
「僕も救出に行きます!」
「そうだな、今はそれしかない!」
駆け出した瞬間、フェンイルの顔に霧雨のような激しい水が降り注いだ。
その霧雨はみるみるうちにカーテンの炎を弱め、業火で赤く照らされていた大講堂を、瞬く間に暗い影へと沈めていく。
そして、カーテンの火が完全に消えたとき。
闇の中央に、青白い光を纏ったミルシャの姿が浮かび上がった。
「ミルシャ!」
「ルゥ! みんな無事なの!?」
霧雨を降らせ続けながら駆け寄るミルシャ。
その体は淡く水色に光り、暗くなった大講堂の唯一の灯火となっていた。
「来てくれて助かった!」
「全員逃げられた!?」
「まだだ、舞台が燃えているんだ!」
「舞台って……何で石の床が燃えてるの!?」
ルゥの言葉にミルシャは舞台を見つめる。
そこに燃え上がる炎は、霧雨を浴びてもまったく弱まる気配がない。
しかも、その炎の傍では――見知った顔が悲鳴を上げていた。
「炎の中に誰かいるの!?」
「多分、セリア様だ!」
その言葉を聞き終える前に、ミルシャは全速力で舞台へ走り出した。
フェンイルも慌ててその後を追う。
「何なの、あの炎は!? どうして消えないの!?」
「恐らく錬金術で作られた“燃える水”だ!」
「”燃える水”!?」
ミルシャは舞台に撒かれた水を精霊術で調べた。
それにより”燃える水”が、部屋のあちこちに置かれているのも分かった。
カーテンに掛けられた”燃える水”はすでに燃え尽き、霧雨で消火できていた。
だが、舞台の炎を大量の水で一気に散らせば、周囲に置かれた”燃える水”が流れ出し、再び大規模な火災を引き起こしかねない。
「フェンイル様! 舞台で大きな水球を作って火を消します!
空気を遮断すれば炎は消えるはず!
あたしが火に飛び込んだら、周りの人を連れて離れて!」
「わかった! 気を付けろよ!」
「うん!」
ミルシャは階段を駆け上がり、泣き叫ぶステファニーの横をすり抜けた。
「ステファ、あたしに任せて!」
「ミ、ミルシャ! お願い、セリア様を助けて!」
「もちろん!」
ミルシャは自分に水を浴びせ、勢いよく炎の中へ飛び込んだ。
フェンイルはステファニーとケイトを抱え、半ば引きずるように舞台を駆け下りる。
”燃える水”を踏んだ靴底に炎が燃え移る。
腕で顔を庇いながら、ミルシャは炎の奔流を一気に駆け抜けた。
「ミルシャ!!」
そこには涙を浮かべたセリアが、両腕を差し伸べていた。
ミルシャはそのまま抱きしめられ、強く抱き返す。
「助けに来ました、セリア様! それから……え? 教皇様!?」
「な、何故お前がここに!?
その体は何だ、何故光って……まさか、精霊使いか!?」
「文句はあとで聞きます! 今は助けに来たんです!」
「なっ!?」
「この炎は水を掛けただけじゃ消えません!
だから舞台ごと水に沈めて、空気を奪って火を消します!」
「な、なんだと!?」
「数秒だけ水中に潜ります!
合図をしたら耳を塞いで息を止めてください!」
「ま、待て!」
「死にたくないでしょう!?」
「うぐ……」
教皇はミルシャの気迫に押され、黙り込んだ。
「セリア様――あたしと一緒に帰りましょう……」
耳元で囁くように優しく言うと、セリアは涙を浮かべながら頷き、ミルシャを強く抱きしめた。
ミルシャはセリアの頭を覆うように腕を回す。
「行きます!」
「わ、わかった……」
「三……二……一……息を止めて!」
号令と同時に、舞台全体を包む巨大な水が生成された。
前触れもなく水中へ落とされ、強烈な水圧が体を押し潰すように襲う。
意識していても、胸を押し込まれる圧力に息が漏れる。
ミルシャは周囲を見渡し、大講堂が完全な暗闇に沈んだのを確認すると、生成した水を一気に消滅させた。
「ゲホッ……ゲホッ!」
教皇が激しくむせていた。 どうやら水を飲んでしまったらしい。
「大丈夫ですか!?」
「……大丈夫だ、問題ない」
ミルシャは、セリアの顔を覆っていた腕をそっと解き、優しく声をかけた。
「セリア様――ただいま戻りました」
「う……うあ……うわぁぁぁ!」
張りつめていた感情の糸がぷつりと切れ、セリアはミルシャの胸に飛び込み、子どものように泣き出した。
「もう――大丈夫です」
ミルシャはその細い肩を抱き寄せ、震える心が静まるまで、ただ寄り添い続けた。
大講堂で動けなくなっていた者たちは、聖職者たちの手で無事に避難させられた。
しかし灯りを失った大講堂は、今やミルシャの身体から放たれる光だけが世界を照らしていた。
青白い輝きが天井を撫で、床に淡い影を落とし、まるで夜空に降る星々が室内を照らしているようだった。
「まずいことになったな……」
ミルシャを見つめていたフェンイルが、低く呟く。
周囲の者たちも、光を纏う彼女を前に、困惑と恐れを隠せずにいた。
「フェンイル様?」
ステファニーが、不安げにその横顔を見上げる。
「ミルシャが大勢の前で精霊術を使ってしまった。
あの輝きを見た者たちが、騒ぎ立てなければ良いのだが……」
「……ミルシャ……」
ステファニーの背筋に、冷たいものが走った。
――ドドドッ……
「セリア様!」
大勢の足音とともに、ヨハンが白騎士を従えて駆け込んできた。
舞台にセリアの姿を見つけると、すぐさま駆け寄る。
そして光を纏うミルシャを目にし、息を呑んだ。
「ミルシャ様、そのお姿……」
盗賊に襲われた時と同じ光景――事態の重大さを悟るには十分だった。
「ヨハンさん、セリア様と教皇様をお願いします!」
「はい!」
「私は大丈夫だ。 怪我などしておらん」
教皇は淡々と告げるが、その瞳はミルシャを見つめていた。
「……ふぅ。 ひとまず助けてくれたことには感謝する。
礼として、お前に一言忠告してやろう――王都を去れ」
「……え?」
「王都に……いや、この国にお前の安住の地はない」
「それはどういう意味ですか!?」
「……今に分かる」
それだけ言い残し、教皇は大講堂を後にした。
残された空気は、言葉より重い不吉さを孕んでいた。
「ひとまず、セリア様を控室にお連れします」
「お願いします、ヨハンさん」
「ミルシャも来て……」
「火が消えていることを確認したら、すぐ向かいます」
「……うん」
強く握っていた手をそっと離し、ミルシャはセリアをヨハンに託した。
セリアは抱きかかえられ、サリナと共に控室へ向かっていく。
「教皇様の言葉も気になるけど……今はこの水の出所を探さないと」
ミルシャは再び精霊術を唱え、可能な限り広範囲で“燃える水”を探した。
成分が分かれば、その所在を知ることができる。
学院全体を隈なく探す――しかし、大講堂以外には見つからない。
「もっと広範囲なら……そうだわ!」
ミルシャは、精霊の加護のことを思い出した。
「ルゥは、明確に想像して、ただ強く念じるだけって言ってたよね……」
深く息を吸い、王都全体を見通すように強く念じる。
その瞬間――光る水の霧が爆ぜるように広がり、渦を巻いて学院を包み込み、さらに王都全体へと溢れ出した。
「加護を使っては駄目だ、ミルシャ!」
遠く離れていたルゥの叫びは、ミルシャの元まで届かない。
ミルシャは異様な光の中に立ち、目を閉じたまま必死に探索を続けていた。
「どこかに……同じ水があるはず……!?
あった! これは……どこ?」
水属性の物体しか映らない探索――建物の形は分からない。
だが、方角と距離から、おおよその場所が浮かび上がる。
「ここから遠くない……大きな建物……方角からして――教会!?」
――ズキッ!
「あっ!?」
鋭い痛みが頭を貫き、意識が揺らぐ。
「い、いけない……守護の……限界……」
全身の力が抜け、身体が傾く。
腕が動かず、石床へと倒れ込む。
――ドサッ!
だが、落下寸前で二つの影が滑り込んだ。
ステファニーとアメリアだ。
ステファニーはミルシャを抱き寄せ、震える声で呼びかける。
「ミルシャ! ミルシャ! 目を開けて! ミルシャ!!」
ゆっくりと瞼が開く。
鼻や耳から血が滲み、目は真っ赤に染まっていた。
それでもミルシャは二人を見て、かすかに笑った。
「ひさしぶり……ステファ……アメリア……元気だった?
あたしは……元気いっぱい……だよ」
「元気には見えないわよ……」
「あはは……二人とも会えて……嬉しい……」
そのまま、静かに意識を手放した。
ステファニーは涙をこぼしながら、ミルシャを抱きしめる。
「私も……ずっと……ずっと会いたかった……」
ミルシャが倒れたことで、生成されていた水は淡い光を放ちながら消えていく。
蛍の群れのように舞い上がり、天へと還っていった。
まるで女神が祝福を降らせたかのように――。




