公爵令嬢の願い㉒
――少し前。
セリアのきめ細やかな気配り、そして来賓ごとに異なるドレスを纏って登場するという華やかな演出は、祝宴の空気をまるで魔法のように彩っていた。
会場の視線は彼女が歩くたびに揺れ、光を受けてきらめくドレスの裾が、まるで星々の軌跡のように人々の心を奪っていく。
すべての挨拶を終えたセリアは、最後にミルシャのドレスを着て終幕の挨拶をするだけとなっていた。
ミルシャの到着を待つため、彼女はぎりぎりまで時間を引き延ばしていたが、料理は減り、沢山置かれていたワインも残り少なくなっている。
(これ以上は限界ですわね……)
セリアは静かに息を整えると、控室へ向かうため会場を後にした。
――その瞬間。
今まで何の濁りもなかった気の流れに、突如として“異物”が混じった。
胸の奥をほんの少しだけ焼くような、不快なざらつき。
気に留めなければ見過ごしてしまうほど微弱だが、それを良しとしない者が二人だけいた。
その一人が、ステファニー王女の側近――アメリアだった。
「ステファニー様」
アメリアはそっと耳元へ顔を寄せ、囁くように名を呼ぶ。
「何か?」
「外に不穏な気配を感じます。 少し離れてもよろしいでしょうか」
「わかりました。 私は大丈夫ですから、気を付けて行きなさい」
「はい」
アメリアは誰にも悟られぬよう、音もなく会場を抜け出した。
気配の流れを辿り、廊下を進む。
窓際に身を寄せ、外の闇へ視線を向けた。
「……あの祭服。 正教会の聖職者たちでしょうか」
学院の中庭に、三十名ほどの聖職者が集まっている。
月光に照らされた祭服が、白く冷たい光を返していた。
「その様だね」
「!?」
背後から声が落ちてきた瞬間、アメリアの身体は反射的に跳ねた。
床を滑るように前へ飛び、体を捻りながら振り返る。
そして、足に仕込んだ隠しナイフへ手を伸ばす。
「――驚かせてすまない。 だが、見事な動きだ。
背後の気配も同時に感じられれば、君は無敵になるぞ?」
「……フェンイル様」
そこにいたのはフェンイルとパティだった。
「ステファニー様の付き人の――アメリアさん、でよかったかな?
彼らを見ていたということは、さっきの不快な気に気付いたということだね?」
「………」
「私も長く鍛錬を積んできたが、あの様な気の流れは初めて感じた。
パティも感じたようだが、私が指摘しなければ意識しなかったという。
あれはいったい何だい?」
フェンイルの声は静かだが、核心を突く鋭さがあった。
アメリアは一度俯き、短く息を整えてから口を開く。
「あれは……エルフ族の持つ能力の一つ――索敵です」
「ほう、エルフ族……。
だが、あの中に杖を持っている者はいないようだが?」
「エルフは膨大な心力を内に秘めています。
浄化の神紋陣を唱え人を助けるには杖が必要ですが、心力を解き放つだけであれば杖は必要ありません」
「つまり、さっきのは心力を解き放ったと。
それで、どうやって索敵をするんだい?」
「先ほどの不快な気を受けた時、人は僅かに“威圧”を感じます。
その心の揺らぎを感じ取り、その範囲にいる人を確認できます」
「さっきの不快な気の流れは威圧だったのか。 勉強になるよ。
それで、エルフ族は心力を使って他にも何か出来るのかい?」
「………」
アメリアは視線を落とし、言葉を飲み込んだ。
「いや、すまない。 少し図々しい質問だったね」
「もう一つ……心力を使って幻覚を見せることができます」
「幻覚……。 そうか、話しにくいことを聞いてしまってすまなかったね」
「いえ……」
フェンイルは再び窓の外へ視線を向けた。
月光の下、聖職者たちの影がゆらりと揺れる。
その揺らぎは、まるで嵐の前触れのように不穏だった。
「今度は私の予測だが――あの者たちは恐らく教皇の護衛として来たのだろう。
だが、人数が多すぎる」
フェンイルは薄闇の中で目を細めた。
セリアが控室へ向かった瞬間、影のように動いた聖職者たち。
その気配は、ただの護衛とは思えないほど濃い。
「セリア様がお着替えに行かれた直後に索敵をしたということは……最後の挨拶の時、何か仕掛けてくるつもりなのだろう。
パティ、ルゥに伝えて注意を促してくれ」
「はい!」
「アメリアさんも、主人に伝えるといい」
「わかりました」
二人は緊張を抱えたまま、足音を忍ばせてその場を離れた。
フェンイルは一人残され、静かに息を吐く。
「アメリアか……興味深い女性だが、耳を覆うアクセサリーはそういう事か。
さて――教皇はいったい何を仕掛けてくる?
くくく……不謹慎だが、気持ちが高ぶって仕方がない」
その笑みは、嵐の前の静けさを愉しむ獣のようだった。
大講堂の前方には、人の腰ほどの高さの舞台が広がっていた。
黒く磨かれた石が継ぎ目なく敷き詰められ、まるで夜空を閉じ込めたような光沢を放つ。
演劇もできるほどの広さを持つその舞台は、荘厳な空気を漂わせていた。
舞台の左側にはケイト王太子とステファニー第二王女。
右側には教皇が座り、その背後には二人の大司教が控えている。
高位の白い祭服が、彼らの存在をいやでも際立たせていた。
王族の背後にも側近が一人ずつ控えているが、アメリアが席を離れたことで、来賓から見えない幕の裏には白騎士が三人、静かに待機していた。
ステファニーはその白騎士に視線を送り、静かに告げる。
「セリア様のご様子を伺いにまいります」
「わかりました」
ステファニーが席を立つと、二人の白騎士が前後に立ち、彼女を守るように控室へと向かった。
「ここで待っていてください」
「はっ!」
白騎士が扉の前に立ち、ステファニーは軽く扉を叩いた。
「どちら様でしょうか?」
中からサリナの声。
「ステファニーです」
「どうぞ、お入りください」
扉が開き、サリナが深く頭を下げてステファニーを招き入れた。
控室には、既に着替えを終えたセリアが立っていた。
その姿は凛として美しいはずなのに、どこか不安の影が揺れている。
「素敵なドレスですね。 とても、お美しいです」
「ありがとう、ステファニー様」
「セリア様のことを想ってデザインしたミルシャの気持ちが、とても強く伝わってきます」
セリアはまだドレスを光らせていない。
その静かな布地は、まるで息を潜めて主の合図を待っているかのようだった。
「このままではありませんのよ?
ミルシャは、わたくしに相応しいドレスに仕上げてくれましたの」
「楽しみですわ」
「はい。 ――でも」
「ミルシャを待っているのですか?」
セリアは小さく唇を噛んだ。
「………」
「大丈夫。 きっとミルシャは“足元”まで来ていますわ。
だから今は、そのドレスを皆さんにご披露して、大きな喝采でミルシャを呼びましょう」
「……本当にステファニー様は、ミルシャに対して迷いが無いのですね」
「迷いというより、自由なミルシャを心配するのが無意味なだけですわ。
気付けば傍に居ますもの」
その言葉に、セリアはふっと笑いかけようとする――しかし、胸の奥の痛みがそれを遮った。
「……わたくしは駄目です。
ネリスを失ってから、姿が見えないと不安に押し潰されそうになってしまうのです……。
あの時のように、悲惨な姿になってしまうのではないかと……」
セリアは震える指で顔を覆い、涙をこぼした。
「ネリスにドレスを着せなければ、あんなことにならなかったのに……。
今回だって、ミルシャを教会に連れて行かなければ、聖女様に言葉を向けられることはありませんでした……」
サリナがそっと寄り添い、セリアの涙を拭った。
控室の空気は静かで、ただセリアの嗚咽だけが、胸を締め付けるように響いている。
「セリア様、折角のお化粧が落ちてしまいます。
――それでは、私と賭けをいたしましょう」
「……賭け?」
ステファニーは、濡れた頬を気にするセリアの手をそっと取った。
その仕草は妙に優雅で、しかしどこか悪戯っぽい。
「はい。 もし、ミルシャが戻って来なかったら、セリア様の勝ちとしまして、侍女は私が拝命いたしましょう」
「え?」
ステファニーは胸に手を当て、わざとらしくため息をつく。
「私、今の刺激の無い生活にうんざりしていましたの。
セリア様の侍女になって、波乱万丈の人生を送るのも楽しそうです!」
腰に手を当てて語るその姿は、どこか舞台女優のようであり、セリアは完全にペースを奪われていた。
「つまり、王太子妃になったわたくしの生活は、波乱に満ちているとおっしゃいますの?」
「違うのですか?」
「それは……そうかもしれませんわ」
「楽しみです!」
ステファニーの笑顔は、嵐を呼ぶ予兆のようにキラキラしている。
「では、貴方が勝って、ミルシャが戻ってきましたらどうなりますの?」
「私がミルシャを頂きます」
「嫌ですわ」
「賭けですから」
「どちらの結果になったとしても、ステファニー様が得するのではありませんの?」
「あら、気付かれてしまいました?」
セリアは眉をひそめ、じっとステファニーを見つめた。
「ステファニー様……貴方、アメリアに似てきていませんこと?」
「えっ!?」
本気で驚いたステファニーの肩が跳ねる。
その反応があまりにも素直で、セリアは思わず口元を緩めた。
「わ、私は――」
「心外です、セリア様」
「「きゃあ!」」
突然二人の間にアメリアが滑り込んできた。
まるで影から飛び出した猫のような俊敏さだ。
「私なら何も言わずミルシャを貰っていきます」
「……そうですわね。 貴方はそういう方でしたわ」
「お褒め頂きまして――」
「褒めていませんわ」
「残念です」
アメリアは肩をすくめるが、どこか楽しそうだ。
「……フフ……あはは!」
セリアが突然笑い出した。
その笑いは、張り詰めていた空気を一瞬で溶かし、三人の表情に柔らかな光を灯す。
「……貴方たちを見ていますと、悩んでいるわたくしが馬鹿みたいですわ。
サリナ、お化粧直しをお願いします」
「はい」
「もう大丈夫よ、二人とも……ありがとう」
ステファニーは笑顔で頷き、アメリアと共に部屋を出ていった。
大講堂へ戻る途中、ステファニーは白騎士たちを前後に従えながら歩いていた。
「どうでしたか?」
「フェンイル様が申されるには、謝辞の場で何か起こるのではないかと」
「最後の御挨拶の時ですか……具体的には何か?」
「いいえ。 ですが、幻覚には注意が必要かと」
「そういう方がいらっしゃるのですね。 分かりました」
舞台上へ戻ると、ステファニーは席に座ろうとした――その瞬間。
黒い床に水を撒く侍女の姿が目に入った。
「あれは何をなさっているのですか?」
「聞いてみます」
アメリアが軽やかに駆け寄り、すぐ戻ってきて耳元で囁く。
「セリア様が先ほど身に着けておられましたドレスは、光る仕掛けになっているらしく、この黒い床に水を撒いて光を反射させるとの事です」
「セリア様の言った“相応しい”という部分ですね」
「はい」
侍女たちは、セリアが立つ位置を中心に水を円形に撒き、モップで薄く伸ばしていく。
濡れた床はゆっくりと光を帯び、まるで鏡のように舞台を変貌させていった。
その時、ステファニーの視線は、前方に座る教皇へと吸い寄せられた。
「……見て、アメリア。 教皇様の表情」
「?」
促されてアメリアが教皇を見ると、彼の顔はまるで水を撒かれた床鏡に、何か恐ろしいものが映っているのを見た人間のように蒼白だった。
そして、後ろに控える大司教へ怒鳴りつけるように言葉を投げている。
「どういうことでしょう?」
「何か……予想外の事態になったとみるべきでしょう」
「つまり、水を撒かれると都合が悪い……と?」
「はい」
「直ぐに、フェンイル様に伝えてください」
「かしこまりました」
アメリアは静かに下がり、フェンイルへと急いだ。
ステファニーは教皇に気付かれぬよう、その挙動を監視し続ける。
すると、教皇は座っていた椅子とテーブルを、まるで何かから逃げるように後方へ引かせた。
「…危険……どうす…中止……早く…!」
慌てふためく声が聞こえるが、祝宴のざわめきにかき消されて内容は掴めない。
(今、確かに“危険”と言った……!
舞台に何か仕掛けを? ……いえ、大聖堂とは違い、この床は石造り。罠を仕掛けるのは難しいはず。
では――何が危険なの!? とにかくセリア様に伝えて、少し時間を――)
控室へ向かおうとした瞬間だった。
――フッ……。
時すでに遅く、照明が一斉に落ち、大講堂は闇に沈んだ。
しかし完全な暗闇ではない。
規則正しく並んだ侍女たちの手に、小さな蝋燭の灯りがふわりと浮かび上がる。
来賓たちは驚きこそしたが、これまでのセリアのもてなしを思えば、次に訪れる“幻想”を期待して息を呑む。
だが、蝋燭の灯りだけでは歩くことは難しい。
教皇の命を受けた大司教でさえ、足をもつれさせ、満足に前へ進めなかった。
その中、サリナの声が静かに響く。
「ご来賓の紳士淑女の皆々様――」
祝宴の締めくくりを告げる言葉が続き、ついに最後の幕が上がる。
ステファニーの願いも虚しく、もう誰にも止められない。
カーテンが上がり、セリアが静かに前へ歩み出た。
闇に沈む舞台へふわりと現れた瞬間――空気が震えを失い、世界が息を止めた。
足音は響かない。
けれど、彼女が歩むたび、刺繍に宿る光が淡く波をつくり、夜空が彼女のために形を変えて寄り添っているかのようだった。
深い青の裾が流れ、星座のように連なる光点が静かに明滅する。
その輝きは、見ている者の胸の奥にひそやかな高揚を灯した。
セリアが立ち止まると、広間の暗がりは一瞬だけ夜明け前の空へと変わる。
光る刺繍が風に触れ、星の瞬きが零れ落ちるように床の水鏡へ映り込む。
まるで、夜の静けさが形を得て歩き出したかのようだった。
誰も声を発せず、ただその登場を受け止める。
光と影の境界に立つ彼女は、星々の物語を纏って――そこに佇んだ。
セリアが言葉を発しようとした――その瞬間。
全てを飲み込むかのような威圧が会場を襲い、来賓たちは心を打ち砕かれ膝をつく。
精神をえぐるような恐慌が走り、蝋燭を持った侍女たちも例外ではない。
威圧に耐える者もいたが、あまりの負担に数人が気を失い倒れた。
落ちた蝋燭が床を跳ねた瞬間、信じられない光景が広がる。
蝋燭の火が床を這い、蛇のようにうねりながら広がっていく。
炎は大講堂を駆け巡り、全てのカーテンへと食らいついた。




