公爵令嬢の願い㉑
ミルシャが学院へ戻ろうとしていたその頃、学院の中心では荘厳な空気をまといながら、生誕会の祝福の儀が幕を開けようとしていた。
祝福の儀とは、女神に一年の健康を感謝し、来る一年の守護を授かるための神聖な儀式。
祝福を受ける者は、一年間大切にしてきたものを捧げ、その“心力”を女神へと捧げる。
大聖堂の中央、白銀の光が差し込む中、セリアは王太子ケイトにエスコートされ、ゆるやかに講壇へと歩み出た。
その姿はまるで絵画の一場面のようで、来賓たちの視線が自然と吸い寄せられていく。
セリアは、ずっと大切にしてきた一冊の本を講壇にそっと置き、ケイトと共に膝をついて祈りを捧げた。
本来ならばエスコートなど無い儀式だが、今回は特別に一般公開されており、婚礼の儀に参加できない平民にも二人の姿を見せるための配慮だった。
しかし、先の事件で折角のお披露目が消えてしまう。
来賓たちが同じように祈りを捧げると、控えていた教皇がゆっくりと姿を現す。
その瞬間、大聖堂の空気がわずかに震えたように感じられた。
本来、祝福の儀に教皇が立つことはない。
女神の教えでは「人に格差は存在しない」とされているが、女神の使徒と崇められる教皇は別格だ。
当初の予定でも、大司教が言葉を贈るはずだった。
セリアは、教皇が“神の言葉”と称して余計なことを言い出さないかと内心ひどく心配していた。
しかし、いざ儀式が始まると、その不安は静かに溶けていった。
教皇は礼を重んじ、丁寧な所作で講壇の本に手を当てると、柔らかな声で“聖句”を唱え始めた。
その言葉はまるで春風のように優しく、参列者の胸へと染み渡っていく。
儀式は粛々と進み、三十分ほどで全ての工程が終わった。
大聖堂の後方で警戒していたフェンイルやルゥも、怪しい人物や不穏な気配が無いことを確認し、まずは胸をなでおろす。
教皇が退堂し、セリアが控室へ戻ると、場にいた全員が大講堂へと移動を始めた。
そこには祝宴の場が整えられており、学院は一気に華やかな空気へと変わっていく。
フェンイルとパティは会場内を巡回し、ルゥは出入り口やカーテンの影など、潜みやすい場所を丁寧に見て回る。
祝宴の裏側では、静かな緊張がまだ続いていた。
――その頃。
学院に到着したミルシャは、息を切らしながら階段を駆け上がり、二つの塀を抜けて学院の入り口へと戻ってきていた。
しかし、そこで門番に制止されてしまう。
「さっき、私が出て行くの見ていたでしょう!? 入れてください!」
焦りと不安が混じった声で訴えるミルシャ。
だが門番は首を横に振る。
「それは分かっているが、一度出た者を許可なく入れることは出来ない」
「なんで!? 急いでるの!」
「気持ちは分かるが決まりなんだ」
ミルシャは唇を噛みしめ、次の手を探すように言葉を重ねた。
「じゃあ、ヘイゲル公爵家の侍女長サリナさんかヨハンさんに、ミルシャが戻ったって伝えてください!」
「それも難しい。 祝宴が始まってしまったからな」
「そんな……なんとかなりませんか!?」
門番は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまんな。 お嬢さんが外に出たことで、武器を持って再来場しないとも限らん。
かといって、我らが淑女の身体を触って調べるわけにもいかん」
「触ってもらっても――!?」
その言葉に、ミルシャの心臓が跳ねた。
まさに門番の言う通りであり、今のミルシャは武器を身に着けて戻ってきてしまっている。
もし身体検査をされたら、言い逃れはできない。
「……わかった」
ミルシャは肩を落とし、門番の言葉を受け入れるしかなかった。
「祝宴は二時間ほどだろう。 全てが終わったら取り次いでやるから、それでよければまた来い」
「うん……ありがとう」
階段を降りながら、ミルシャの足取りは重かった。
胸の奥に焦りが渦巻き、落ち着いていられない。
学院を囲む一つ目の塀まで戻ると、ミルシャは立ち止まり、ぽつりと呟いた。
「二時間なんて待てないよ……仕方ないなぁ」
目の前にそびえる塀を見上げ、周囲を確認する。
誰もいない――風の音だけが耳に触れる。
ミルシャは高い塀の影へと近づき、そのまま影に溶けるように姿を消した。
祝宴の間では、煌びやかな光が天井の照明から降り注ぎ、丸いテーブルには色鮮やかな料理が所狭しと並べられていた。
珍しいワインの瓶が宝石のように輝き、香りだけで酔ってしまいそうなほどだ。
その中心でセリアは、まるで舞台の主役のように次々とドレスを着替え、来賓の前へと姿を見せていた。
淡い桜色、深い瑠璃、金糸を散らした白……。
彼女が歩くたび、ドレスの裾が光を掬い、祝宴の空気をさらに華やかにしていく。
来賓の数だけお色直しをし、上位爵位の貴族から順に挨拶をして回るセリア。
この祝宴は、貴族の若者たちが相方を探す場としても重宝されており、会場のあちこちで視線が交錯していた。
時間が過ぎ、挨拶の順番が男爵位まで下がってくると、セリアは迷いなくフェンイルの前へと歩み寄った。
「ごきげんよう、フェンイル男爵――本日はお越しいただきありがとうございます」
その声は、上から目線の気品を保ちながらも、どこか柔らかい。
セリアらしい、お嬢様の余裕が滲んでいた。
「おめでとうございます、セリア様。
この度は素晴らしい祝宴にご招待いただき、とても楽しく過ごさせていただいております」
「それはなによりです。
美味しいワインをお探しではありませんか?」
セリアは真剣な眼差しで問いかける。
その視線は、ただの社交辞令ではなく、状況の確認という裏の意味を含んでいた。
「いやいや、あまりに美味しいワインばかりで、何が一番なのか全く分からなくなっておりますよ」
フェンイルは言葉を合わせながら、さりげなく現状を報告する。
そのやり取りは、周囲から見ればただの貴族同士の会話にしか見えない。
「ふふふ、ご謙遜を……。
それでは、御用がありましたら何なりとお申し付けください」
「有難うございます」
セリアは小さく頷き、次の来賓へと歩み去った。
「辺りを隈なく調べてみましたが、特に危険な物は見つかりません。
貴族の方々が同伴されている側近にも、気になる行動の人はいませんでした」
「そうか……」
フェンイルは祝宴の喧騒を眺めながら、静かに息を吐いた。
「だが、君を気にしている御令嬢はいるみたいだよ?」
「はい?」
ルゥは首を傾げる。
悪意や殺気には敏感な彼でも、好意の視線にはまるで気づいていないらしい。
フェンイルが視線を向けると、少し離れた場所で二人の令嬢が跳ねるように喜んでいた。
ルゥが振り向いた瞬間、彼女たちは小さく悲鳴を上げて顔を赤らめる。
「前から気になっていたのだが、ルゥの所作はとても綺麗だね。
何処で習ったんだい?」
「孤児の時は聖女会の方々にお世話になり、マナーは学院に入ってから教えていただきました」
「……そうなんだね。
まあ、聖女会と関りがあったのなら、女性に好意を持たれるのも頷ける」
「僕がですか?」
「ふふふ、自覚が無いかね? それではミルシャも大変だ。
いや――ミルシャも同じなら、お似合いの二人だな」
「えっと、それはどういう……」
ルゥが戸惑うのを見て、フェンイルはクスクスと笑いながら話題をそらした。
「パティの方はどうだった?」
「以前の調査から照らし合わせたのですが、党首自らが出席されている方々は、全て王政派でした」
「やはりか……。 顔ぶれを見ても、そう判断できる。
まあ、それは当然の事ではあるのだがね」
「特におかしくはないということですか?」
「国王陛下が出席されるわけではないからね。
次の婚礼の儀では、今日来ていない者たちも集まるだろう」
「それなら、このまま何もなく終わるのでしょうか」
「それはどうだろうな。
もし予定通り、正教会の大司教が来ていたのなら、何も起きずに終わるかもしれない。
だが、教皇が来ている以上、別の意図があると考えていい」
「もしや、ここに居る全員が狙われているのですか?」
「あり得ないことではない。 ――が、その場合にも教皇の存在は不自然。
ここに居たのでは危険を伴うからだ」
フェンイルの言葉に、ルゥとパティはわずかに息を呑んだ。
そのとき、フェンイルの視線の先で、侍女がそっとカーテンに何かをかけているのが見えた。
よく見ると、同じ作業をしている侍女は一人ではなく、数名の侍女がカーテンを湿らせるような動きをしている。
「パティ――あれは何をしている?」
「どちらですか?」
「さっきから、カーテンに何かをかけている侍女が数名いるが?」
フェンイルが指差すと、パティはすぐに察したように頷いた。
「あれは会場内の乾燥を防ぐ処置かと思います」
「乾燥?」
「はい。 これほど大勢が集まりますと、空気が乾きやすくなりますので。
葉の大きな植物を置いたり、水槽を設置したりと方法は多岐にわたります」
「初めて聞いたな」
「実は執務室でも乾燥を防ぐために、侍女のエプロンやスカートを濡らすことがあります。
侍女服は乾きやすい生地ですので、人の動きで揺れれば効率的なのです」
「そんな努力をしていたとは……」
フェンイルは、来賓に気付かれぬよう淡々と処置を続ける侍女たちに、静かな感心を覚えた。
「僕は部屋の外を見て回ります」
「頼むよ、ルゥ」
「はい」
ルゥはフェンイルから離れ、好意を寄せる令嬢を伴いながら廊下へと姿を消した。
「フェンイル様……」
「少なくとも、この会場に敵意を持った者は一人もいない。
セリア様の様子を見ても、穏やかな対話を続けている。 意に反する話を持ち込む貴族はいないだろう。
教皇にしても、ミルシャを追い出した件以外は、セリア様との対話は穏やかだ。 ……教皇の狙いが全く読めない」
フェンイルは腕を組み、霧の中に立たされているような不安に眉を寄せた。
――誰もいない大聖堂。
――ガタッ……ゴトゴト……。
木が擦れるような音が、祝福の儀が終わったばかりの静かな大聖堂に響いた。
「ふぅ~……」
深呼吸とともに、講壇の下からミルシャが姿を現す。
よく見れば、講壇の真下の床がせり上がり、急な階段が隠されていた。
ミルシャはその階段をよじ登り、最後に床板を押し上げて大聖堂へと出てきた。
――パタパタ……
誰もいないことを確認すると、ドレスについた埃を叩き落とし、精霊術で水を生み出して顔と手を洗う。
「まさか、通路があちこち崩れているとは思わなかったわ」
地下通路は複雑に入り組み、どの道も最終的にはこの大聖堂へ通じていた。
だが崩落が多く、迂回を重ねてようやく辿り着いたのだ。
「ホルフさんの発光玉がなかったら、暗くて通ることは出来なかったわ」
前にアイリスの使ったものと同じであり、水晶に魔力を込めて割ると、その魔力量に応じて光を放つ。
ミルシャは、水晶を肩に掛けていたケープに包み、壁に叩きつけて割ることで即席のランプを作り出した。
「結構時間かかっちゃったな。
何も起きてないといいけど……ん?」
講壇に手を置いたとき、そこに置かれた一冊の本が目に入った。
「これって……いつもセリア様が読んでた本?」
祝福の儀でセリアが捧げた本――ミルシャは何気なく開く。
「見覚えがあると思ったら、学院時代に読んだ“女神の聖句”だったんだ」
聖母が辿った旅を主観で綴った教本。
尊い言葉が並ぶが、ミルシャには眠気を誘う代物だった。
「こういうの読むと眠くなるから、試験勉強ほんと苦労したなぁ……懐かしい……あれ?」
頁をめくっていくと、最後の数頁が開かない。
紙が貼り付いているようでもなく、鍵があるわけでもない。
ミルシャはそっと指を滑らせた。
「これ、本の中に……違う本が入ってる?」
ミルシャは思わず息を呑んだ。
聖句より一回り小さな本が、まるで宝物を守るように頁をくり抜かれ、ぴたりと収まっていたのだ。
そっと小さな本を取り出した瞬間、二枚の絵がひらりと床へ舞い落ちた。
「先日描いたあたしの絵と……もう一枚は?」
拾い上げた絵には、幼い子が描いたと思われる、セリアをモデルにしたお姫様がいた。
「ううむ……明らかにあたしより上手いわ」
苦笑しながらも、ミルシャはその絵に吸い寄せられるように見入る。
そして、綺麗に収まっていた本に目を移し、そっと頁を開いた。
「――これ、日記?」
手書きの文字が並び、一日の出来事が短く綴られている。
「セリア様の日記だろうから、読むのはまずいよね……でも」
気になってしまった。
どうしても、セリアが自分をどう思っていたのか知りたかった。
後ろ髪を引かれるように、ミルシャは頁を開いてしまう。
――母が亡くなってひと月が過ぎた。
でも、私の居場所はここにはない。
孤児院に連れていかれそうになったけど、お姉様が助けてくれた。
とっても嬉しかった。
お姉様から勧められて、今日から日記をつけることにした。
ページをめくる指が震える。
ミルシャは息を呑み、次の頁へと吸い寄せられるように読み進めた。
――私はお父様と一緒に食事をしたことが無い。
”お父様”と呼ぶことも禁じられている。
私はお屋敷で侍女見習いとして働き始めた。
けど、侍女が“お姉様”と呼ぶことはできない。
とっても悲しい。
――剣術の稽古は好き。
悲しいことを忘れられるから。
強くなりたいな。 お姉様を守れるから。
――侍女の先輩にいじめられた。
“お前は何故ここに居られるの?”って。
悲しい……消えたい。
――落ち込んでいたら、お姉様が気付いてくれた。
励ましてくれて、とても嬉しかった。
そうだ、私はここに居る理由がある。
頑張らなくちゃ。
――侍女長のサリナさんが、お姉様に提案してくれた。
私がもっと強くなったら、王太子妃の侍女として推薦すべきだって。
嬉しい! 初めて目標ができた。
力が沸いてくる。
最高の侍女になる!
ミルシャの鼓動が速くなる。
「これって……さらわれた人の……日記?」
――今日も侍女見習いのお仕事大変だった。
でも、お姉様に仕えるために絶対必要なことだから頑張る!
明日はお姉様と楽しいお出かけ。
お母さまが生きていた頃は、よくお揃いのドレスでお出かけしてた。
お姉様は、お忍びだからとドレスを用意してくれた。
明日くらいは甘えてもいいよね、お姉様!
その後の頁は白紙だった。
途切れた日記が心に重くのしかかる。
「う、う、う……」
堪えきれない涙が頬を伝い落ちる。
日記を抱きしめ、膝をついたミルシャは、胸の奥が締め付けられて呼吸さえ苦しくなった。
「あたし、何もわかってなかった……セリア様のこと。
なんで、ここから出て行ってしまったんだろう……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ゆっくりと時間が流れる――その時。
鼻を刺す焦げた匂いが、空気を切り裂いた。
白い煙が、霧のように立ち込め始める。
「え、なに? ……火事!?」
涙を拭い、ミルシャは跳ねるように立ち上がった。
煙の出ている方向を探すと――。
「これって、大講堂の方からだわ! セリア様!」
抱きしめていた日記を戻すため、慌てて講壇の本に入れようとした。
だが、日記の最後と思っていた白い頁に、ミルシャにすがるように綴られた文字が書かれていた。
――お姉様を助けて
「任せて!」
それを読んだミルシャは、何の違和感も持たず返事をする。
そして、急いで日記を戻し、女神の聖句を講壇に戻した。
「直ぐに行かなくちゃ!」
大講堂へ向かって走り去るミルシャの背中を、煙の中で淡く光る影が見守っていた。
胸の前で手を合わせ、祈るような姿で――。
ミルシャが見えなくなると、影は安心したようにそっと消えた。




