公爵令嬢の願い⑲
ミルシャとルゥを乗せた馬車は、王都の中心へ向かってゆっくりと進んでいた。
朝の光が石畳を淡く照らし、王立学院へと続く道は静かで荘厳だ。
――王立学院。
王都の中央に広がる巨大な敷地は、普段から祭事や式典の舞台となる。
公爵家が個人で催す生誕会など滅多にない。
本来なら一般国民にも開放され、遠くから王太子の婚礼を控えたセリアのお披露目となるはずだった。
しかし、襲撃事件がすべてを変えてしまい、今回は貴族のみが参列を許される、閉ざされた生誕会となってしまった。
ミルシャはドレスの仕立てがあるため、午前中に学院へ入る必要があったが、ルゥにはその義務はない。
だが、貴族の馬車でなければ入場できないため、二人は同じ馬車で向かうことになった。
「馬車に乗せてもらえて助かったよ。 僕だけじゃ入れなかったからね」
「その時は忍び込んじゃえばいいのよ」
「ははは、今日は警備が厳しいから無理だと思うよ?」
ミルシャの軽口に、ルゥは肩をすくめて笑う。
「地下通路を通れば入れるわよ?」
「え? 地下通路?」
「うん。 この学院って地下に通路があるの。
前に精霊術の練習で地下水脈を調べた時、偶然空洞を見つけたの」
「そんなものが……何の通路なんだろう。 非常時の避難用かな?」
「ううん、魔法陣を形成するためのものなんだって」
「魔法陣? 何に使う魔法陣なんだい?」
「それはね――えっと……あれ? なんだっけ?」
ミルシャは言葉を探すように眉を寄せた。
霧がかかったように記憶がぼやけ、差しのべた指先からすり抜けていく。
「ん~……忘れちゃった」
「……そうか。 じゃ、思い出したら教えてほしい」
「うんっ!」
ルゥは微笑みながらも、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えていた。
四年前に学院で起きた怨霊事件。
詳細は誰にも知らされていないが、ミルシャに起きていることと関係しているのではないかという疑念が、静かに心の底で形を成し始めていた。
馬車は学院の坂を登り、正門前で止まる。
午前中に来賓が訪れることはない。
主催者であるヘイゲル公爵家を急かすことになるためだ。
この国では、下位貴族は二時間前、中位は一時間前、侯爵以上は開宴直前に来場するのが礼儀とされている。
まだ誰もいない学院の敷地に足を踏み入れ、ミルシャはヨハンの案内で控室へ向かった。
控室の扉を開くと、鏡の前に座るセリアがゆるやかに振り返った。
「ごきげんよう、ミルシャ。
そして――ルゥ様も、わたくしの生誕会にお越しくださり、とても光栄ですわ」
背後ではサリナがセリアの髪を整えながら、静かに一礼する。
セリアはゆっくりと立ち上がり二人へ歩み寄った。
「おはようございます、セリア様」
「この度は僕までご招待いただきまして、有難うございます」
「ルゥ様のお洋服、とてもお似合いですわよ。 まるで本日の主役のようですわ」
「有難うございます。 ミルシャが特別に仕立ててくれました」
「まあ、そうでしたのね――ところで、ミルシャ?」
「はい?」
セリアはゆっくりと視線を下へ滑らせた。
「そのドレス……わたくし、初めて拝見しますけれど?」
「えっ!?」
ミルシャの肩が跳ねる。
「そんな素敵なドレスを隠しておくなんて……わたくし、とても悲しいですわ」
セリアはくるりと背を向け、指先で目元を拭う“ふり”をした。
その演技は妙に堂に入っていて、周囲の空気が一瞬だけ凍りつく。
「こ、これは以前あたし用に作ったドレスで、自分の部屋にしまってあったからアトリエには置いてなくて……ごめんなさい!」
「しくしく……」
「あわわわ!」
ミルシャは慌てふためき、その場で右往左往してしまう。
「セリア様、冗談が過ぎます」
「あら? わたくしはただ、ドレスを褒めて差し上げているだけですのよ?」
「――え?」
サリナの注意を、セリアは涼しい顔で受け流した。
「そのドレス、ミルシャにとてもお似合いですわ。
貴族の舞踏会に出ても遜色ありませんことよ」
「あ、ありがとうございます……」
「うふふ」
セリアは満足げに微笑む。
「えっと、それであたし……私は、どちらで準備をすればいいですか?」
ミルシャは部屋を見渡すが、目的のドレスはどこにも見当たらない。
「他の方に見られてしまっては、折角の感動が薄れてしまいますもの。
来賓の控室に置いてありますわ」
「いいのですか?」
「今回、大司教様や上位爵家の方々がみえられますけれど、開会間際までお見えになりませんわ。 安心してお使いになって」
「わかりました」
「ヨハン、案内して差し上げて」
「はい。 それではミルシャ様、ルゥ様、どうぞこちらへ」
「ルゥ様、お時間までごゆるりとお寛ぎくださいませ」
「ありがとうございます」
二人はヨハンに案内され、控室を後にした。
扉が閉まると同時に、サリナはセリアの髪を整えながら、そっと問いかけた。
「宜しいのですか?」
「何がですの?」
「あのお部屋は、第二王女ステファニー様の控室ですが……」
「もちろん、承知しておりますわ」
セリアは鏡越しに自分の姿を見つめ、ふわりと微笑んだ。
その表情は、何か企みを成功させた子どものように楽しげだ。
「ステファニー様は正午には見えられると思いますが?」
「ええ、とても楽しみですわ。 三年ぶりの再会ですもの」
「セリア様……」
サリナは額に指を当て、困ったように首を振る。
だが、その仕草にはどこか呆れと愛情が混じっていた。
これがセリアの考えた、ミルシャへの“贈り物”だった。
特別な来賓であるミルシャとはいえ、会場で王女と話すことはできない。
王女の護衛が、周知の貴族以外は近づけさせないからだ。
だからこそ、セリアは王女の控室でドレスの仕立てをさせ、ヨハンを扉の前に立たせることで、二人に話す機会を作ろうとしていた。
もちろん、ステファニー王女には知らせてはいない。
驚く二人の顔を見ること――それがセリアの今日一番の楽しみだった。
「三年ぶりの再会ですもの。 喜んでいただけると嬉しいですわ」
「そう思います」
学院時代、仲が良かったという二人を合わせること。
それがセリアが用意した、心からの贈り物だった。
しかし、セリアはひとつだけ大きな思い違いをしていた。
アトリエでの作業時間から、ドレスの仕上げには数時間かかると思い込んでいたのだ。
確かにセリアのドレスは最も時間を要したが、他にも自分のドレスの手直しや、ルゥの衣装を別に作っていた。
精霊術で施す細工は、実際には数分で終わる程度のものだった。
ミルシャは慎重に、念入りに仕上げを施したにもかかわらず、僅か三十分で完成させてしまったのだ。
セリアの計画は、静かに、しかし確実にズレ始めていた。
「これで、よしっと!」
「完成したのかい?」
「うん。 あとは、お姉様に着ていただいて軽く叩けば、あの時みたいに光るはずだよ」
「そうか、楽しみだね」
「うん!」
ルゥが微笑むと、ミルシャは少し照れたように頬を緩めた。
しかし、ふとルゥが首をかしげる。
「それはそうと、どうして“お姉様”なんだい?」
「ん~、成り行きかな? 特別な理由はないと思うけど」
「そう……」
「どうしたの?」
「いや、大したことじゃないんだ。 ただ、そう呼ばれている時のセリア様、嬉しそうな顔をしていたからね」
「そうなんだ。 喜んでもらえるなら嬉しい」
ミルシャは仕上げたドレスに白布をそっと掛け、まるで宝物を扱うように丁寧に保護すると、軽やかに扉を開けて外へ出た。
その姿を見たヨハンは、目を丸くする。
「ミ、ミルシャ様!?」
「処置が終わりました。 あとはお任せしますので、セリア様にお伝えください」
「あ……は、はい。 あの、これからどちらへ?」
「時間もまだあるし、少し学院を見て歩こうと思います」
「そ、そうですか。 では昼食の準備もいたしますので、お昼過ぎにはこちらの控室へお戻りください」
「わかりました。 ――ルゥ、行こ!」
「ああ。 ヨハンさん、また後ほど」
「行ってらっしゃいませ」
ヨハンは二人を見送りながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
セリアの綿密な計画――それは、わずか三十分で音を立てて崩れ去ったのである。
学院の中央には鐘塔がそびえ、その真下には全校生徒が入れるほどの大聖堂が広がっている。
ここで大司教がセリアへ祝福を授け、女神へ祈りを捧げる儀式が行われる予定だ。
その後は場所を大講堂へ移し、生誕会の祝典が催される。
ミルシャとルゥはまず大聖堂へ向かったが、特別な飾り付けはなく、静寂だけが広がっていた。
続いて大講堂へ足を運ぶと、そこは一転して慌ただしい空気に満ちていた。
公爵家の侍女たちが数十人、白銀の幕を張り、白い円卓に色とりどりの花を飾り、磨き上げられたグラスを壁際に並べている。
午前中ゆえ料理はまだないが、準備の熱気だけで胸が高鳴るほどだった。
「ここ、今入ったら確実に蹴り飛ばされるわね……」
「うん、間違いなくね」
二人は苦笑しながら控室へ戻ることにした。
控室に戻ると、先ほどまであったドレスはすでに運び出されており、代わりに大きなテーブルと昼食の準備をする侍女たち、そしてヨハンが待っていた。
「まもなくセリア様もお見えになりますので、こちらに座ってお待ちください」
「ありがとう、ヨハンさん」
ヨハンは丁寧に椅子を引き、ミルシャをエスコートする。
続けてルゥにも席を勧め、二人は静かに腰を下ろした。
ほどなくして、セリアが優雅に入室する。
ヨハンが席へ案内すると、セリアは手の甲を口元に添え、ヨハンへ耳を寄せるよう示した。
「ステファニー様は、まだお見えになっておりませんの?」
「はい。 先日の夕刻に城にご到着され、大使としての報告に時間を取られているようでございます」
「そう、仕方ありませんわね」
セリアは軽くため息をつき、優雅に手を払った。
(昼食のあとに感動の再会をと考えておりましたのに。 思い通りにはいきませんわね)
「お姉様?」
「はい?」
「どうかされました? 何か心配事でも?」
「いえ、少し緊張しているのよ」
ミルシャは思わず瞬きをした。
「お姉様が?」
「あら? ミルシャはわたくしを、鉄の神経の持ち主とでも思っているのかしら?」
キラリと、刃物のように鋭い視線が走った。
その一瞬の光に、ミルシャは肩を跳ねさせる。
「い、いえ! そんな事はございません!
とても心優しい、繊細なオリハルコンのような心の持ち主です!」
「もっと硬くなっておりますわよ?」
「あ、いや、そういう意味ではなくて!?」
わたわたと両手を振るミルシャ。
その慌てぶりが可笑しかったのか、セリアはふっと微笑んだ。
「うふふ、冗談ですわ。
来場されているお客様の確認をしていただけですの」
「はぁ……」
ミルシャは胸をなでおろした。
テーブルの上には温かな料理の香りが漂い、三人は束の間の安らぎを味わう。
――暫くの後。
開いた窓から午後の柔らかな風が流れ込み、遠くから馬の蹄が石畳を叩く乾いた音が響き始めた。
その音は、まるで催しの幕開けを告げる合図のようだった。
「お客様がお見えになられたようね」
セリアは静かに言葉を落とす。
「男爵様はこういった催しを大切になさいますから、わたくしも控室に戻らなければなりませんわね」
「ご挨拶に来られるのですか?」
「ええ、もちろんですわ」
――コンコン。
乾いたノックが、二人の会話を切り裂いた。
「どうぞ」
セリアは胸の奥で高鳴る鼓動を抑えきれなかった。
王女の来訪、その瞬間がついに訪れたのだと。
(お二人はどんな顔をされるのかしら。
喜んでくださるでしょうか……)
サリナが扉を開く。
期待がふくらみ、胸が熱くなる――だが。
「失礼いたします。 こちらに、ミルシャ様はおられますでしょうか?」
現れたのは王女ではなく、サリナと同じ侍女服を着た女性だった。
「え? 私ですか?」
「はい。 ミルシャ様にお客様がお見えです」
「ここに? 誰だろう……」
「パティ様とお聞きしております」
「!!」
ミルシャの顔がぱっと花開いたように明るくなる。
「あら、パティさんならここにお通ししても宜しいのに」
「流石にそれは無理というものですな」
ヨハンが穏やかに言葉を返す。
「ミルシャ様のアトリエでしたらまだしも、主催たる公爵家御令嬢の控える部屋に、貴族の侍女とはいえ入室はできません」
「それもそうですわね」
「もしかしたら、フェンイル様が同伴されているのかもしれないよ」
「あ!」
ルゥの言葉に、ミルシャは椅子から跳ね上がった。
胸の奥で、抑えきれない期待が弾ける。
「お待ちなさい、ミルシャ」
「は、はい!」
「貴方には少しお願いしたいこともありますから、今はご挨拶だけして、すぐに戻ってくるのよ」
「わかりました、すぐに戻りますね!」
「僕も一緒に行くよ」
「うん!」
二人は侍女に案内され、廊下へと駆けていった。
「全く……上手くいかないものですわね」
セリアは深いため息をつく。
「焦らずとも、まだ時間に余裕がございます」
「そうですけれど……ちゃんと会えるのかしら」
「そこは強引にでも私が引き合わせましょう」
「自然に合わせたいのだけど……その時はお願いするわ」
「お任せを」
――その頃。
ミルシャは侍女に連れられ、育苗栽培室へと向かっていた。
薬草の香りが満ちるその場所は、彼女が手作りクッキーの材料を生成するために訪れる、馴染み深い空間。
鉢植えの葉が揺れ、光が緑の影を落とす。
まるで森の息吹が閉じ込められたような、静かで優しい世界。
呪い騒動以来、フェンイルに会っていなかったミルシャは、胸の鼓動を抑えられず、侍女を急かして小走りになっていた。
「フェンイル様、元気かな!」
「まだ、フェンイル様がいるとは限らないけどね」
「絶対いるよ! でなきゃパティさん一人で栽培室で待ってないでしょう?」
「そうだね」
ミルシャの弾む声に、ルゥはふわりと微笑みを返した。
「ねぇねぇ、えっと……」
「ヘイゲル公爵家侍女のベルーナと申します」
「ベルーナさん、パティさんって一人じゃなかったでしょ?」
「はい。 男の方が御一緒にお待ちです」
「ほらぁ!」
「なら何故、フェンイル様の名で呼ばないのかな」
「それは、セリア様とのご挨拶を済まされていないからだと思います」
「ああ、そうか。 貴族としての挨拶は大切だから」
「なんでもいいよ! 話しができるなら――」
――ドンッ!
「きゃあ!」
突然の衝撃。
ミルシャの細い肩が弾かれ、視界が揺れ、床が迫る。
着慣れないドレスの裾が絡み、高いヒールに足を取られ、彼女はその場に倒れ込んでしまった。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて起き上がろうとするが、思うように体を動かせない。
「いや、僕も不注意だった。 すまなかったね」
ぶつかった男性が振り返り、すぐに手を差し伸べてくれた。
その仕草は洗練されていて、身なりも上等。
今日の来賓――貴族であることは一目でわかる。
周囲には色とりどりの衣装をまとった貴族たちが輪を作り、その中心にいる人物の話に熱心に耳を傾けていた。
「いや、つい教皇様のお話に夢中になってしまってね。
君に気が付かなかった僕が悪かったんだよ」
――え?
ミルシャの心臓が、ひとつ跳ねた。
「大丈夫かい? ミルシャ」
ルゥが心配して覗き込むが、ミルシャに声は届かない。
「教皇……様?」
「ああ、今日の祝いのお言葉を授けに、お見えになられたそうだ」
「……そんな」
国王が出席しないのに、教皇が来る――それはあまりにも不自然で、そして危険だった。
ヘイゲル公爵家が国王を招かず教皇だけを迎えたように見えてしまう。
常識知らずと非難されかねない。
「ん? お前は――」
――ゾクッ。
その声を聞いた瞬間、ミルシャの背筋が凍りついた。
忘れようとしても忘れられない、あの教会での声。
「確かセルーネの教会で、聖女シャロンに“異な者”と追い出された娘ではないか?」
――!?
空気が一瞬で変わった。
周囲の視線が、冷たい刃のようにミルシャへ向けられる。
先ほど助けてくれた貴族でさえ、驚いて数歩後ずさった。
ミルシャは俯いたまま、何も言えなかった。
胸の奥がきゅっと縮み、呼吸が浅くなる。
「娘よ、お前はセリア嬢の近親者なのか?」
「……いいえ、私は……ただの裁縫師です」
「ふむ。 なら何故セルーネに居た?」
「セリア様のご好意で、生地の店を案内していただきました」
「つまり、今回の生誕会の仕立屋ということか?」
「はい……」
「そうか。 ならば即刻立ち去れ」
「お待ちください、それは――」
侍女ベルーナが声を上げようとしたが、ミルシャがそっと手で制した。
「丁度、今……納品が終わり戻るところです」
「そうか、ならさっさと帰れ。 異な者が居て良い場所ではないのだぞ」
「はい、直ぐに……」
教皇は薄く笑い、背を向けて歩き去った。
「ミルシャ……」
「ルゥ、フェンイル様と会って話をして欲しいの――パティさんが全てを知っているわ。
それからベルーナさんには、教皇様がいらしていることと……私が帰ったと伝えてください」
「それは承りますが……ミルシャ様、本当に帰られるのですか?」
「ええ。 教皇様のお話は本当で、私は聖女シャロン様に“異な者”として敵意を向けられたの」
「そんなことが……」
「大勢の貴族方々に知られてしまっては、ここに居ることはできないわ……。
ルゥ、ベルーナさん……セリア様をお願い……」
「……わかった」「はい」
ミルシャはそれ以上言葉を紡げず、静かに学院の外へ歩き出した。




