公爵令嬢の願い⑱
ミルシャが裁縫に没頭する時の生活リズムは、いつも決まっていた。
昼前にゆっくりと目を覚まし、軽い昼食を済ませてからアトリエへ向かう。
好きなお菓子や飲み物を抱えて作業に没頭し、翌日の空が白み始める頃に帰宅。
そして、朝日を浴びながら入浴し、そのまま眠りへ落ちる――そんな、少し変わった歯車だ。
三階にある住居の浴室は、ちょうど日の出の方角に位置している。
室内でありながら、朝の光が湯面を照らすその景色は、まるで極上の露天風呂のようだった。
ミルシャがこの生活リズムを手放さない理由は、まさにその“朝の楽園”を味わうためでもある。
だが今は、アトリエにセリアが泊まっている。
流石のミルシャも、二の鐘が鳴る朝九時にはアトリエへ入るようにしていた。
外へ出て、清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ミルシャは背伸びをする。
すると、いつもの黒塗りの馬車が道端に止められているのが目に入った。
「ん? 今日は医院の前に止めてるんだ。
ヘイゲル公爵家の家紋だから、セリア様の馬車だと思うけど」
普段ならアトリエの前に止められているはずの馬車が、今日は医院の前。
御者が馬の手入れをしているのを見て、ミルシャは小さく首をかしげた。
裏口からアトリエに入ると、すぐに帷で仕切られたキッチンと二階へ続く階段がある。
キッチンの脇には、サリナが夜に眠るための、背もたれのない横長の椅子。
今はサリナがキッチンで洗い物をしており、朝食の片づけをしているところだった。
ミルシャが扉を開けると、サリナが気付き、手を止めて丁寧に頭を下げる。
「おはようございます、ミルシャ様」
「おはようございます」
セリアにも挨拶しようと、ミルシャは帷の布幕に手をかけた――その瞬間。
「まあ、ルゥ様ったら! 何のご趣味もお持ちでないなんて、本当でございますの!?」
セリアの高い声が響き、ミルシャは驚いて手を止めた。
そして、呼ばれた名前にさらに驚く。
ミルシャは布幕に手をかけたまま、サリナへ顔を向けた。
「ルゥ様がいらしております」
「そうなの?」
今日は医院の休診日ではない。
朝九時から開院しているはずなのに、ルゥがここにいるのは不思議だった。
そっと布幕を開けると、ソファにはセリアとルゥが並んで座っていた。
ヨハンは入口付近で、いつものように外を警戒している。
「孤児院ではあまり勉強できなかったので、学院に入るのも大変だったんです。
それでも医師になりたくて必死に勉強していたら、気づいたら……何もできない人間になっていました」
「まあ……でも、精霊使いになるのも大変だと伺っておりますわ」
「そうですね。 でも僕の場合は、知らぬ間に覚醒していて……最後の後押しをゼル先生にしていただいたんです」
「何か、見せていただけませんこと?」
「見せる?」
「精霊術を、ですわ。 どのようなものでも構いませんの」
「そうですね……、それでは――」
ルゥは静かに目を閉じ、右手をセリアの前へ差し出した。
掌の上で、小さな火の妖精がふわりと形を成す。
炎が舞い、揺れ、まるで本物の妖精が踊っているかのようだった。
妖精はセリアに向かって優雅にお辞儀し、軽やかに舞い始める。
その光景にセリアは息を呑み、吸い込まれるように見入ってしまった。
「まあ……なんて素晴らしいのでしょう!」
「そうですか? 誉められたのは初めてです」
「精霊使いが堂々と世に出られます日を、心より願っておりますわ!」
「ありがとう」
二人の穏やかなやり取りを見て、ミルシャはそっと布幕を閉じた。
そして階段へ足をかけた――が、ふと医院のことが頭をよぎる。
(今ここにルゥが居るってことは、お父さんに許可をもらって来てるはずよね。
でも……ちょっと様子を見ておこうかな)
ミルシャは階段から足を下ろし、裏口から外へ出て医院へ向かった。
混雑しているか確かめようと、表へ回って入口の前に立つ。
「あれ? さっきの馬車がいない。 帰ったのかな?」
ヘイゲル公爵家の家紋の馬車は跡形もなく消えていた。
通りには、ただ数人の通行人が行き来しているだけだった。
「診察は大丈夫か……なっ!?」
ミルシャが医院の受付を見た瞬間、思わず声を上げた。
そこには母レリーナと並んで、見知らぬ女性が患者の対応をしている。
「五番の方――お待たせいたしました。 こちらへどうぞ」
「!?」
診察室の扉が開き、さらに別の女性が患者を案内している。
どちらも白衣をまとい、所作は洗練されていて、まるで宮廷治療院のような雰囲気だ。
呆然と立ち尽くすミルシャに気づいたレリーナが、受付の女性に一言告げてから歩み寄ってきた。
「おはよう、ミルシャ」
「おはよう……って、なにこれ」
「なんかね、セリア様がルゥ君とお話したいとかで、医師を四人も連れてきたのよ」
「はぁ……え? 四人!?」
「そう。他にも男性医師が二人、調薬室でお薬を作ってくださっているわ」
「うわぁ……」
ミルシャは思わず肩を落とす。
レリーナは苦笑しながら続けた。
「全員、公爵家お抱えの医師らしくてね。 とにかく手際が良いの。
お父さんが指示を出す前に先読みして、必要な道具を揃えて背後で待っているのよ。
その後、指示を出すのが辛そうだったわ」
「あはは……あたしがお父さんに指示出すようなものだもんね」
「うふふ、そうなの」
「でもまあ、これなら手伝いは不要かな。 あたし、アトリエに行くね」
「貴方も大変な依頼を受けているのでしょう? 頑張ってね」
「うんっ!」
ミルシャは振り返り、アトリエへ向かう道へと足を踏み出した。
「さっきの馬車は、お医者様連れて来たんだ。
いくらルゥが優秀でも、こんなに医師がいたら、公爵家の専属医にはなれなかったんじゃないかな?」
ぽつりと呟きながら、ミルシャは自分の使命――ドレス制作のため、アトリエへ戻っていった。
――そして数日後、生誕会は明後日に迫る。
連日、ルゥがセリアの話し相手になってくれていたおかげで、ミルシャはドレス制作に集中できていた。
ルゥもまた、セリアの相手をすることでミルシャの助けになると考え、迷惑だと思うことは一度もなかった。
そして、ついにドレスが完成。
夕食後、ミルシャは帷のキッチン側に皆を集め、セリアを部屋側へ案内すると、サリナと二人で完成したドレスを着せた。
部屋の灯りを落とし、静寂が満ちる。
ルゥとヨハンが帷を留める紐をそっと緩めると、ステージの幕が下りるように、セリアの姿が闇の中に浮かび上がった。
誰も声を出せなかった。
息を呑む音だけが、部屋の空気を震わせる。
夜空の星々を思わせる煌めき。
そして、天の川のように流れる刺繍の光。
それは、今まで見たどのドレスとも違う、幻想そのものの輝きだった。
「……素晴らしいですな」
最初に声を漏らしたのはヨハンだった。
「美しい……」
ルゥもようやく言葉を絞り出した一言だった。
「ありがとうございます、ルゥ様」
セリアは優雅に微笑み、深く礼をした。
その仕草は、公爵令嬢としての気品に満ちている。
「ラングレイに戻らず、待っていた甲斐がありました。
ミルシャ様、これは……どのような仕組みで光っているのですか?」
パティが興味津々に刺繍を覗き込む。
「糸に樹脂で包んだカポック繊維を絡めて、刺繍糸にしてるの。
その後、精霊術で光るキノコの二つの成分を、繊維の中に封入して混ぜる。
酸素に触れていないから普段は光らないけど、衝撃を与えると樹脂が割れて、中の成分が空気に触れて光る仕組み」
「よく思いつかれましたね……」
「まあ、精霊術が必要だから、生誕会だけの特別ドレスになるけど」
「それでも……わたくし、とても嬉しいですわ!」
セリアは胸元を押さえ、感激を隠しきれない様子だった。
「光ってる時間は一時間くらい。
うっかり光らないように、当日控室で処理します」
「よろしくお願いいたしますわ!」
セリアの瞳は、ドレスの輝き以上にきらきらと輝いていた。
「それではセリア様、お召し替えをいたします」
「えぇ……もうですの?」
サリナの言葉に、セリアは名残惜しそうに唇を尖らせる。
「生誕会で最高のセリア様を皆様にご披露するためにも、今はどうぞご容赦くださいませ」
「……そうですわね。 分かりましたわ」
セリアは小さくため息をつき、ゆっくり頷いた。
その仕草を合図にしたかのように、ルゥとヨハンが帷の紐を引く。
ふわりと布が昇り、再び部屋が二つに分かれる。
閉ざされた空間で、ミルシャとサリナによるセリアの着替えが始まった。
「そうですわ。 わたくし、今日がここに泊まれる最後の夜ですの」
「えっ!?」
あまりに突然の言葉に、ミルシャは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「そんな悲しい顔をなさらないで」
優しく微笑むセリアの声はとても柔らかい。
数日とはいえ、毎日隣にいた人がいなくなる――その寂しさは、ミルシャの胸に静かに沈んでいく。
「明日の朝には戻らなければなりませんの。
館の者が全て整えてくれるとはいえ、衣装合わせや、会場となる学院の下見は欠かせませんもの」
「そうですね……」
「――それで、ミルシャ。 今日、ここにお泊まりなさい」
「……え!? あ、あたしが?」
「わたくしも、一度“女子会”なるものをしてみたいのです」
「女子会って……二人ですけど……」
「お嫌ですの?」
「もちろん、喜んで参加させていただきます、お姉様!」
「ふふっ。 良かったですわ」
帷の向こうでは、ルゥたちがそっと微笑む気配がした。
ヨハンは静かに裏口を開け、他の四人は言葉を交わさず帰っていく。
――その夜。
就寝の支度を終えた二人は、同じベッドに入り、向かい合って小さな声で語り合っていた。
ランプの灯りが揺れ、影がゆっくりと壁を滑る。
まるで時間が二人のためだけに流れているようだった。
「ミルシャは、いずれわたくしの侍女になるのですけれど、暫くの間は侍女の勉強をしていただきますわ」
「……うまくできるかなぁ」
「問題ありませんわ。
多少の所作と、わたくし以外の者への言葉遣い、礼儀を覚えていただくだけですもの。
その他は、すでにミルシャが持っておりますわ」
「……頑張ります」
「急ぎになりますけれど、生誕会の翌日に館へ来てくださらない?」
「えっ!? 翌日に?」
「侍女としての心得を、サリナから学んでいただきたいのです」
「てっきり、王宮に入ってからかと思って……」
「それでは暫くの間、他の者がわたくしの侍女になってしまいますわ。
わたくし、それは嫌ですの」
「あ……なるほど。 わかりました」
「サリナとは、婚礼の儀の後……わたくしの侍女から離れてしまいますの」
「………」
帷の向こうで、サリナが息を呑む気配がした。
セリアの声は、ほんの少しだけ陰を帯びていて、ミルシャは二人の絆の深さを悟る。
「ミルシャ様が侍女になってくださるのでしたら……これ以上ないほど嬉しく、安心してお任せできます」
帷越しに届くサリナの声は、震えていた。
その震えは、悲しみと、安堵と、感謝が混ざった複雑な色をしていた。
「大丈夫! あたしに任せてください!」
「あら、“あたし”はダメですわよ?」
「あっ!」
「ふふふ」
「気を付けます、お姉様!」
ふたりは時間を忘れて語り続け、やがて静かな眠りに落ちていった。
――生誕会の日。
王都は、夜の名残を薄く抱いたまま、静かな朝の光にゆっくりと染まっていく。
ミルシャは支度を整え、アトリエの窓辺で迎えの馬車を待っていた。
生誕会は夕刻三時から――けれど、その前にセリアのドレスを最終調整しなければならない。
だから馬車は、まだ朝の冷気が残る時間に迎えに来る手筈になっていた。
一階のアトリエは、かつてセリアの部屋だった面影をほとんど残していない。
床も壁も、眩しいほどに磨かれ、その輝きは祭りの後の寂しさを心に与えていた。
ただ――ソファだけは、ぽつんとそのまま残されている。
ミルシャが頼んだわけではない。
――ミルシャと過ごした日々を、少しだけ残しておきたいのですわ。
セリアが残した言葉の余韻がまだ部屋に漂っている気がして、ミルシャはそっとソファに視線を落とした。
――カッポ、カッポ……キィー。
馬車の止まる音が、朝の空気を震わせる。
――リーン……
ドアベルが柔らかく鳴り、続いてルゥの声がミルシャの背に届いた。
「ミルシャ、迎えの馬車が到着したよ」
「うん」
振り返ったミルシャを見て、ルゥは目を細めた。
「綺麗だね、ミルシャ」
今日のミルシャは、青を基調としたフリルドレス。
肩を出したオフショルダーのラインが、朝の光を受けて淡く輝く。
胸元のリボンから多層のスカートへと流れるグラデーションは、青から白へ――星屑が散り、裾へ溶けていくようだった。
「ありがとう、ルゥ!
ルゥも、とってもカッコイイ! サイズは大丈夫? きつくない?」
ルゥは、ミルシャと同じ青のテイルコートに、白のシャツとスラックス。
そして、首元のクラバットが、彼の雰囲気を少し大人びたものにしている。
「ピッタリだよ。 さすがミルシャの仕立てた服だ」
「そっか、よかった!」
ルゥは軽く息を整え、恭しく手を差し出した。
「それでは、お嬢様――お手をどうぞ」
「はい、お願いいたしますわ」
二人はくすりと笑い合い、軽くお辞儀を交わす。
ミルシャは差し出された手を取り、アトリエの扉をくぐった。
外では、迎えの馬車の前にヨハンが深く頭を下げていた。
「今日はお願いします、ヨハンさん」
「こちらこそ。 ミルシャ様のご助力あってこそ、最高の生誕会が開けます」
「無事終わりますことを祈っておりますわ」
「ありがとうございます」
ミルシャが馬車へ足をかけようとした――その瞬間。
誰に呼ばれたわけでもないのに、ふと後ろを振り返った。
アトリエと医院。
自分を育て、包み、支えてくれた場所。
「どうしたんだい?」
ルゥがそっと尋ねる。
「なんか……今日が終わりで、始まりなんだなって気がして……」
「深い言葉だね」
「うん。
あたしが王宮に勤めるなんて思ってもみなかったから……
今まであたしを包んでくれたこの場所を、ちゃんと見ておきたくなったの」
ルゥも同じようにアトリエと医院を見上げる。
そのとき医院の扉が開き、ゼルとレリーナが出てきて手を振ってくれた。
「行ってきます!」
「ああ」「いってらっしゃい!」
二人の声が背中を押すように響く。
ミルシャは笑顔で馬車に乗り込んだが、続くルゥの表情には、ほんのわずか影が落ちていた。
その理由は――ルゥ自身にもわからない。
ヨハンはゼルとレリーナに一礼し、御者席へ。
馬車はゆっくりと動き出し、学院へ向けて走り始めた。




