公爵令嬢の願い⑰
パティが城へ向かい、遅めの昼食を終えたミルシャは、胸の奥にふわりと灯る創作の火を頼りに、再びアトリエへ戻ってきた。
裏口の扉を押し開けると、そこには帷を張り巡らせる侍女たちの姿があった。
夕暮れの光を吸い込むような深い紺の布が部屋との境に垂れ、厚手の生地が空気のざわめきさえ閉じ込めていく。
その一角には、出入口を仕切る二枚の布幕が揺れ、まるで秘密の部屋へ続く扉のように静かに佇む。
ミルシャに気付いたサリナが、優雅に一礼する。
ミルシャも軽く頭を下げながら、視線をそっと室内へ走らせた。
(セリア様、一緒に来るって言ってたけど……?)
どこを見渡しても、セリアの姿はない。
(用事が長引いてしまったのかな……)
胸の奥で小さく呟き、ミルシャは階段を上がった。
「ごきげんよう、ミルシャ」
「こんにちは、お姉……様っ!?」
二階へ足を踏み入れた瞬間、製作途中のマネキンの影から声が降ってきた。
振り向けば、そこには一人掛けの椅子を持ち込み、本を片手に微笑むセリアの姿。
「な、何故二階に!?
折角一階を模様替えされたのに、ここでは寛げないのでは!?」
「あら、わたくし一人で下に居るのは寂しいですもの。
お邪魔はいたしませんので、こちらに居させてくださいませんこと?」
「それは……あたしも話し相手が居て嬉しいですけど……」
「では、決まりですわね」
言い切るセリアの声は、どこか嬉しそうで、どこか拗ねたようでもあった。
ミルシャは二階の散らかりを指摘しようとしたが――その必要はなかった。
糸くずも紙片も跡形もなく、床は磨かれた鏡のように光を返している。
(こんな短時間に……サリナさん、凄いわ)
昼食に出ていたのはたった一時間。
侍女三人とはいえ、この手際は職人技と呼ぶほかない。
「この状態では、完成形が思い浮かびませんわ。
ドレスの分かるスケッチはありませんの?」
セリアは立ち上がり、紙と布を貼り合わせただけのマネキンを興味深そうに眺めながら、くるりと回った。
「完成イメージは私の頭の中だけになりまして……最初に何枚も描いたラフはありますけど……」
「拝見させていただけます?」
「えっと……」
床に散らばって――と言おうとした瞬間、すでにサリナの手によって机の上へ整然と積まれていた。
ミルシャはその束を手に取り、一枚一枚めくっていく。
そして――目的のラフを見つけた瞬間、固まった。
(こ、これ……セリア様に見せていいのかな……)
その絵は、裁縫師のラフ画というにはあまりに幼く、どう見ても”幼児が描いた王女様”だった。
衣装デザインというより、気持ちだけが先走った落書きに近い。
「どうされましたの? 見せてくださいませ」
促され、ミルシャは冷や汗を垂らしながら、視線を逸らして絵を差し出した。
「………」
「………」
沈黙がやけに長く感じられた。
「……ミルシャ?」
「は、はいっ!」
背筋を伸ばし、ミルシャはセリアの前に立つ。
「この絵――頂いてもよろしくて?」
「え? あ、はい。
ドレスのイメージは頭にありますので、それでよろしければ……」
「ありがとう。 大切にいたしますわ」
「でも、その絵ではますます完成形が分からないのでは……」
「これはミルシャが、初めてわたくしのために描いてくださった絵なのでしょう?
これほど嬉しいものは他にありませんわ。
ドレスだけでなく、わたくしの顔まで描いてくださったのですもの。
これは、わたくしの肖像画ですわ」
「ええ!? そんな大層な絵では――」
言いかけたミルシャは、セリアの表情を見て言葉を失った。
その顔は、優しさに満ちているのにどこか寂しげ。
まるで、長い間誰にも触れられなかった心の奥を、そっと撫でられたかのような表情だった。
ミルシャは胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「セリア様?」
「お姉様ですわ」
「お、お姉様!」
そのやり取りは、まるで二人だけの秘密の合図のように、階上の空気に柔らかく溶けていった。
「……そろそろ、一階の準備も整いましたわね。
少し書き物がございますので、後ほどお食事の時にでもご一緒してくださいませ」
「はい、喜んで……」
セリアは絵をそっと本に挟み、まるで宝物を隠すように閉じると、静かな足取りで階段を降りていった。
その背中が帷の向こうへ消える瞬間、ミルシャの胸に小さな違和感が触れていったが、それを深追いすることなく再びドレスへ向かい合い、針と糸の世界へ没頭した。
それから夕刻まで、セリアが二階へ来ることはなかった。
一度だけサリナが様子を見に来たが、集中しているミルシャを見て声を掛けずに戻っていった。
やがて外は群青色に染まり、蝋燭のランプが揺らめくころ。
再びサリナが階段を上がり、食事の支度が整ったことを告げて丁寧に頭を下げた。
気付けば、アトリエには香草と肉の芳しい香りが満ちている。
ミルシャは素直に返事をし、制作途中のドレスをそのままにサリナの後を追った。
(セリア様、いつまでここに泊まるんだろう。
生誕会の準備もあるはずなのに……)
そんな疑問を胸に抱きながら、帷で仕切られた部屋へ足を踏み入れた。
「え?」
ミルシャは固まった。
豪奢なカーテンは閉ざされ、ランプの灯りが柔らかく反射し、外からは中の様子が伺えない。
その中心で、セリアが椅子に腰掛け、微笑みながらミルシャを迎えていた。
だがミルシャが驚いたのは、その椅子とテーブル。
そして、並べられた豪華な料理だった。
昼間のソファと小さなテーブルではない。
どうやって運び込んだのか分からないほど大きく、重厚な木製のテーブル。
そしてその上には、高級料亭の料理が整然と並び、湯気と香りが優雅に漂っている。
ミルシャは思わず、帷の外にある簡素なキッチンへ視線を向けた。
(こ、これ、どうやって? 調理師さん、ここに来ていたの?)
「さあ、ミルシャ。冷めないうちにいただきましょう」
「………」
言葉を失ったミルシャの前方で、ヨハンが静かに椅子を引いた。
その所作は、まるで王城の晩餐会で鍛えられた執事のように洗練されている。
「あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして」
ぎこちなく座るミルシャ。
貴族御用達の料亭など行ったことのない彼女にとって、これは人生最大級の緊張だった。
(な、なんか……最近もこんなことがあったような……)
頭の中で必死にテーブルマナーを思い出していると、サリナがワインボトルを手に近づいてきた。
「ミルシャはワインをたしなまれるのかしら?」
「飲まないわけではありませんが……すぐ眠くなってしまうので……」
「そうですのね。
ではサリナ、料理に合う飲み物をお出して差し上げて」
「はい、セリア様」
サリナは一度部屋を出て、すぐに戻ってくると、ミルシャのグラスに鮮やかな果実のジュースを注いだ。
「ありがとうございます」
ミルシャが礼を言うと、サリナは柔らかく微笑んだ。
続けて最初に見せていたワインを、セリアのグラスへと静かに注ぐ。
「それではいただきましょう」
セリアはグラスを軽く差し出した。
ミルシャも慌ててジュースのグラスを持ち、そっと重ねる。
――チンッ……
澄んだ音が、帷に囲まれた小さな世界を満たした。
二人は一口飲み、ナイフとフォークを手に取る。
(変な音を立てないように……優雅に……美味しそうに……)
必死にマナーと戦うミルシャは、味がまったく分からなかった。
その様子を察したセリアが、穏やかな世間話を振り、ミルシャの緊張を少しずつほどいていく。
やがて食事が終わり、食後のハーブティーが二人の前に置かれると、ヨハンとサリナは静かに部屋を後にした。
「凄くおいしかったです、お姉様!」
その純粋な笑顔に、セリアは優雅に微笑む。
「そう。 それは何よりですわ」
「こんな素晴らしい料理、誰が作ってくださったのですか?」
「先ほどまで、館の料理長が居りましたの。
外出先でもおもてなしができるように、調理設備を備えた馬車もございますのよ」
「えっ……そんなものまで……! すごい……」
アトリエの簡素なキッチンでは到底作れない品々。
ミルシャは、ようやく全てに納得した。
「ねぇ、ミルシャ」
「はい?」
セリアの声は、いつもより少しだけ緊張しているように聞こえた。
「わたくし、ミルシャにお願いしたいことがありますの」
「お願い? 良いですよ、何でも言ってください!」
「来年からになると思いますけれど……
わたくしの専属の侍女になってくださいません?」
「そんなことで良いのでしたら、もちろん喜んで受けさせていただきます!
――ん?」
「まあ! とても嬉しいですわ!」
即答した自分に、ミルシャは一拍遅れて疑問符が飛び交った。
「ちょ、ちょっと待ってください……それって、王太子妃の……王宮の侍女という事ですか!?」
「そうですわよ?」
「ええぇぇぇぇ!?」
「断られると思っておりましたから、本当に嬉しいですわ!」
「あ、え、う……」
「ありがとう、ミルシャ!」
満面の笑みを向けられ、ミルシャはもう逃げ道を失った。
頭が真っ白になり、引きつった笑みを浮かべるしかない。
「あたしなんかが務まるのかな……」
「あら、ミルシャほどの適任者が他に居りまして?」
「そ、そうでしょうか……」
「お医者様で裁縫師で、護衛としても申し分ないAランク冒険者。
何より――人の為になれる精霊使い。
最高の侍女ですわ」
「……人の為になれる精霊使い」
その言葉は、ミルシャの胸の奥にそっと灯をともした。
「でも、ミッシェル様が許してくださるかどうか……」
「許可はいただけましたわ」
「え?」
「公務で外交も多いのが王族。 ミルシャには世界を見せてやってくれと、申されておりましたわ」
「……ミッシェル様らしいわね」
「よろしくお願いしますわ、ミルシャ」
「はい……お姉様」
冷静に考えれば悪い話ではない。
むしろ、今までの努力が認められた結果だと気付く。
(王宮勤めなら……ステファとも話せるし……嬉しいかも)
ミルシャは胸の奥でそっと微笑んだ。
その後も二人は、王宮での生活を想像して盛り上がり、気付けば就寝時間まで話し込んでしまっていた。
ミルシャはセリアに手を振り、ヨハンとサリナに一礼して帰宅する。
ヨハンは白騎士と合流し、交代で外の警戒へ。
サリナはセリアの就寝の支度を整えていた。
「セリア様。 本日はミルシャ様とご一緒に就寝されると伺っておりましたが?」
「ええ……でも、今夜はやめますわ。
一緒に寝てしまうと――涙が止まらなくなりそうですもの」
「……承知いたしました」
サリナは静かに帷の外へと下がった。
セリアはソファに腰を下ろし、そっと本を開く。
そして、ミルシャの描いた絵の入った頁を開き、それとは別の頁に挟まっている紙を引き抜いて、ミルシャの絵と並べて本の上に乗せた。
「うふふ……見て。 ミルシャの描いてくれたわたくしの絵。
貴方と同じ、とても優しい絵でしょう?」
紙に描かれたもう一人の少女へ、セリアは指先を添える。
「貴方がなるはずだった、わたくしの侍女は……ミルシャが快く受けてくれましたわ。
でも、貴方は怒るかしら……。
どうか、わたくしたちを導いて……ネリス」
一筋の涙が静かに頬を伝い、本の頁へと落ちた。




