公爵令嬢の願い⑯
――翌朝
夜の星々が姿を消し、水平線が淡い光を帯び始めるころ。
医院の前の道を、パッカパッカと馬車の音が近づいてきた。
この街では珍しくない朝のリズムで、慣れてしまえばむしろ眠りを深くする子守歌のようなものだ。
――コトコト、キィッ……コトコト……
いつもと違う、微妙に乱れた複数の馬車が止まる音。
その違和感に、ミルシャはふっと目を開いた。
「ん……」
薄く開いた瞳に映る窓の外は、まだ夜と見分けがつかないほど暗い。
「夢……?」
耳を澄ませても、何の音もしない。
寝返りを打ち、再び夢の楽園へ戻ろうとした――その時。
――リーン…リーン…
遠くで聞き慣れた鈴の音がして、意識が現世へ引き戻される。
「……?」
――ト、ト、ト、ト……コンコン!
複数の足音が近づき、ミルシャの部屋の前で止まった。
指先で軽く叩く、丁寧なノックの音。
「ん……だれ~? お母さん~? どうぞ~……」
重い瞼を手の甲でこすり、寝ぼけたまま上半身を起こす。
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、深紅のワンピースに純白のエプロンをつけた侍女が三人、滑るように入ってきてベッドを囲むように立った。
「……前にも同じことあったような……っていうか、近いっ!」
「早朝に申し訳ありません、ミルシャ様」
「な、何か予定入ってました!?」
「いえ、本日はお願いがございまして」
「お願い……?」
「はい。ミルシャ様のアトリエ一階を、しばらくの間セリア様にお貸しいただけませんでしょうか?」
ミルシャは寝癖を手ぐしで整えながら、サリナの言葉を追った。
「一階を?」
「はい。 セリア様が寛げるよう、少し家具を置かせていただきたく思います」
(ソファとかかな?)
「いいですよ。 並べるドレスはありませんし、作業は二階なので」
「ありがとうございます」
三人は深々と頭を下げ、氷の上を滑るような足取りで退室した。
廊下にはレリーナが微笑みながら立っている。
「……ねぇ、お母さん。 公爵家って起きるのこんなに早いの?」
「さぁ、どうかしらね。 ミルシャはまた寝る?」
「ううん、アトリエの鍵開けないと……」
「そ、じゃあ食事の支度するわね」
「ありがとう」
レリーナは軽く手を振り、台所へと消えていった。
「まあ、館で働く人は早いよね……」
ミルシャはひとり頷き、お気に入りの作業服へ着替えるとアトリエへ向かった。
まだ薄暗い早朝の空気は、寝起きの肌には冷たく、背伸びをすると肺の奥まで澄んだ空気が流れ込む。
ミルシャは裏口から入り、中から店の入口を開けた――その瞬間。
「――ええっ!?」
目の前に広がった光景に、声が裏返る。
店の前には二台の人を運ぶ馬車と、さらに三台の荷馬車。
黒塗りの車体に小さな家紋が刻まれ、とても“少しの家具”とは思えない存在感を放っていた。
「な、何を運び入れるんだろう……」
四人乗りの小柄な馬車が二台。
先ほどの侍女三人が一台に乗ってきて、もう一台の扉の前では、サリナが中の者と話をしている。
荷馬車にかけられた白いシートは異様に膨らみ、どう見ても椅子だけの量ではない。
ミルシャが扉を開けたのに気づいたサリナが、小走りで近づいてきた。
「ありがとうございます」
「いえ……あの、荷物――多くないですか?」
「お嬢様が普段お部屋で使われる家具と同じものを、一式持参いたしました。
ドレス制作の邪魔にならぬよう、静かに作業いたしますのでご安心ください。
何かございましたら、いつでもお声掛けください」
「わかりました……」
サリナは深く一礼し、再び馬車の中の者と話し始めた。
「まあ……いっか」
ミルシャは肩をすくめ、まだ少し眠気の残る足取りで自宅へ戻った。
朝食を終え、ドレスの完成図を胸の内でふわりと描きながら階段を上がる。
一階はソファとテーブルが消えているだけで、まだ大きな変化はない。
ただ、侍女たちが床だけでなく、壁、窓、さらには天井まで磨いている姿が目に入った。
「天井まで拭くなんて……流石にやったことないわね」
ミルシャは感心しつつ二階へ。
作業台の上には昨日の続きの紙片が散らばり、彼女の手を待っていた。
大雑把に削った切れ端を一枚ずつ丁寧に整え、マネキンに貼り合わせる。
形が膨らむたび、胸の奥で“もっとこうしたい”という欲が膨らんでいく。
紙では再現できない布の自然なたわみ。
ドレープが欲しい部分には布を使い始め、指先が布の柔らかさを確かめるたび、心が少しずつ熱を帯びていく。
――気づけば昼を過ぎていた。
普段なら日をまたぐほど集中してしまうミルシャが、昼に気づいたという事実。
それはつまり、どこかで一階の改装が気になって仕方なかった証拠だった。
窓から街道を覗くと、朝方に並んでいた馬車は一台だけになっている。
三人の侍女たちが乗ってきたと思われる馬車だ。
一階へ何度か降りてみたが、キッチンと階段以外は厚い布で覆われ、音も光も遮られていた。
「もう終わったのかな……」
そう呟いた瞬間、裏口の扉がノックされた。
――コンコン!
「はぁ~い!」
ミルシャは階段を駆け降り、扉をそっと開ける。
「やあ、ミルシャ。 こんにちは」
「ルゥ――と、パティさん!?」
扉の前にはルゥ、そしてその後ろにパティが柔らかく微笑んで立っていた。
「こんにちは」
「いらっしゃい、パティさん! どうぞどうぞ!」
「失礼します」
ミルシャは嬉しさのあまり、パティを勢いよく招き入れた――が。
「あ……中、改装中だった。 ん~、自宅にしよっか」
「あ、いえ。私は例の物を届けに来ただけですので」
「それでも、ハーブティーくらい飲んでいって!」
笑顔で自宅へ案内しようとした、その時――
一階のカーテンの向こうから、サリナの声がした。
「ミルシャ様。 一階の準備が整いましたので、セリア様が来られるまでどうぞお使いください」
「え? いいの?」
「はい」
サリナが侍女たちへ指示を出すと、カーテンがサッと開いた。
――えっ……!
ミルシャとルゥは息を呑み、パティでさえ目を丸くした。
「こ、これって……セリア様の部屋!?」
「はい。 本日より数日間、こちらに寝泊まりされます」
「寝泊まり!? き、危険では……?」
「その辺りの対策も万全に」
ミルシャが想像していた“座り心地の良い椅子”などという次元ではなかった。
天蓋の紺布は金細工の柱に揺れ、床の絨毯は夕陽のように赤く輝き、壁が見えなくなるほどの重厚なカーテンと装飾品の数々が、まるで小さな宮殿のように空間を満たしていた。
「後ほど帷を立て、キッチン側を私の控室といたします。
今はどうぞこのままお使いください」
「はぁ……ありがとうございます」
部屋を貸しているはずなのに、なぜか“貴重な部屋を借りた側”の気分になるミルシャ。
「それでは、一時間ほどでセリア様と共に戻って参ります」
「はい……」
サリナは深く一礼し、侍女たちと共に馬車で去っていった。
「凄いことになっているのですね……」
「あはは……」
驚きに目を丸くするパティに、ミルシャはどこか引きつった笑みを返した。
その笑みは、豪奢すぎる部屋の空気に押されているようにも見える。
「それじゃ、僕は医院に戻るよ」
「あ、うん。 ありがとう、ルゥ」
「ではパティさん、ごゆっくり」
「はい。 案内ありがとうございました」
ルゥが去っていくと、静寂がふわりと落ちた。
ミルシャはパティを連れて、まるで王族の居室のような部屋へと足を踏み入れる。
「パティさんは、そちらのソファに……座っててください。
今、お茶を淹れますね」
「ありがとうございます」
細工の施されたソファは、まるで王が腰掛けるために作られたかのような威厳を放っていた。
ミルシャはその豪奢さに少し気後れしながらも、丁寧にパティを導く。
二人掛けのソファが二つ、中央には円卓。
卓上には、花畑の一角を切り取ったかのような色彩と甘い香りが満ちている。
高価な花瓶に飾られた花々は、部屋の空気を支配するほど濃密だった。
(う~ん……花の香りにハーブティーが負けちゃいそう)
アトリエが良い香りで満たされるのは嬉しい。
けれど、お茶の香りを楽しむには少し強すぎる。
(この香りに埋もれないとなると……ペパーミントがいいかな)
ミルシャはキャニスターの中からペパーミントを選び、少し多めにティーポットへ。
湯気が立ちのぼると、爽やかな香りが花の甘さをすり抜けて広がった。
出来上がったハーブティーをパティに差し出し、自分もソファへ腰を下ろす。
ふわりと沈むような柔らかさが、足先まで優しく包み込んだ。
(片付けるとき、このソファ置いてってくれないかな……)
セリアならきっと「よろしくってよ!」と言ってくれるだろう。
けれど、少し図々しい気もして、胸の奥で遠慮が芽生える。
ミルシャは最高のソファで、最高のハーブティーを口に運び、ほっと息をついた。
「カイラ君の御容態はいかがですか?」
「当初はかなり衰弱しておられましたが、それでも子供は回復が早く、今は散歩程度に外を歩けるようになりました」
「それはなによりです。 フェンイル様も一安心ですね」
「はい」
「それで、来てもらえたという事は……」
「はい、ご要望の品を確保できましたので、急いで持ってまいりました」
パティは手にしていた大きな袋から、丁寧に包まれた品をテーブルに置いた。
「で、でも、冒険者ギルドに依頼して送ってもらっても良かったのですが?」
「それでは日数もかかります。
それに、陛下にお渡しするお手紙もフェンイル様よりお預かりしていますから」
「お手紙のついでに持ってきていただけて、とても嬉しいです!」
「いいえ、“手紙が”ついでです」
「え?」
「私は側近とはいえ侍女長ですから、本来そういった所要には侍従長が別におります」
(常にパティさんを傍に置いている気がするけど……侍従長さんいたんだ)
「ま、まあ、とても助かりました。 よく見つかりましたね」
「普通の方が探しても、恐らくは見つからなかったでしょう。
こういう荷は直接取引先に送られることが多く、集荷場を経由しないのがほとんどなのです。
ですが、領地を通過する荷物は農業ギルドに申告しなければならず、それを辿れば目的の物に辿り着けるというわけです」
「お手数をおかけしました。 それでお幾らになりますか?」
「無料です」
「いや、そういう訳には……」
「いえ、そのままの意味です。 タダで頂きました。
少量ですし、何よりフェンイル様がご自分で探されましたから」
「ええっ!?」
「領主に名が売れるとなれば、相手も喜ばれていることと思います」
「なんだか多大なご迷惑を……」
「とんでもございません。
フェンイル様は、ミルシャ様に少しでも恩が返せると大喜びでした」
「あはは……」
ミルシャは木の実を受け取り、割り方やカポック繊維について詳しく教わった。
「最初は生地の表面に貼ってみようかと思ったけど……」
「接着剤が生地の表面を汚して、見栄えが悪くなりそうですね」
「そっか……なら、糸に繊維を絡めて刺繍糸にするのはどうかな?」
「良いと思います。 その方が仕上がりが美しいでしょう」
「うん、それでやってみる!」
「私も裁縫師として、ミルシャ様の作るドレスにとても興味があります」
「ありがとう!」
ドレスの完成が現実味を帯びてきて、ミルシャは胸の奥からじんわりと感動が湧き上がった。
「パティさんは、このあとどうされるのですか?
もしお時間があるなら、一緒に食事でもいかがでしょうか?」
「折角のお誘いでございますが、この後、陛下との謁見が控えておりまして。
もう少ししましたら王城へ向かわねばなりません」
「そうなんですね……。 おばあちゃんのお話、もっと聞きたかったのに……」
ミルシャは肩を落とし、冷めてしまったハーブティーを口に含んだ。
香りはまだ残っているのに、温度だけが寂しく心に触れる。
「それと、もうひとつ――
ミルシャ様にお伝えしなければならないことがございます」
「え?」
「フェンイル様から、ミルシャ様に必ず伝えるようにと言われてまいりました。
王都に迫る“災厄”についてです」
「……っ!?」
パティの表情が、柔らかな侍女のそれから一瞬で変わった。
まるで部屋の空気がひやりと沈むように、真剣な光が瞳に宿る。
「まず初めに、フェンイル様のもとへ訪れた貴族についてお話いたします」
「貴族……?」
「はい。 その者はフェンイル様に、王国への不満はないかと問いかけてきたのです」
「それって……」
「反王国派からの誘惑でございます」
パティの声は静かだが、言葉の端々に鋭さがあった。
「ラングレイ領は町としては潤っておりますが、領主様の取り分は非常に少なく……フェンイル様は、あの館と働く者たちを維持するだけしか受け取られません」
「フェンイル様らしいと言えば、らしいですけど……」
「はい。 そのおかげで領民の貢献度は高く、皆がフェンイル様を慕っております。
ですが、それを知らぬ他領主は、フェンイル様が贅沢もできぬほど貧しいと誤解し、反王国派に取り入れようと近付いてきたのです」
「フェンイル様なら……」
「ええ。 即座にお帰り願いました」
パティは一度息を整え、続けた。
「捉えた盗賊の中に、村長と会っていた貴族を見た者が数名おりました。
その証言と、ラングレイ領に来た貴族の容姿が一致したのです」
「そいつが……カイラ君を!」
「はい。 そして、その貴族の身元が判明いたしました」
ミルシャの喉がひゅっと鳴る。
「ルーファス王国北西、レルゼルブ領に属する子爵でございます」
レルゼルブ――バーンズ帝国に最も近い監視の町。
国の支援のみで成り立ち、領民の多くは戦に籍を置く者たち。
その地の貴族が、密かに反王国派と繋がっている。
「そこまで分かっているなら、捕らえて――」
「残念ながら、似ているというだけで証拠がございません」
「う……」
「さらに、フェンイル様より爵位が上の子爵。
下手に指摘すれば、事実無根として返されかねません」
「これだから貴族って……」
「お怒りはごもっともです。
こちらも密偵を送り監視しておりますが、成果は出ておりません。
何も起きなければ良いのですが……」
ミルシャの胸に、教皇の言葉が冷たい棘のように刺さる。
「パティさん……もし、生誕会が襲われて……
セリア様が怪我をされたり、最悪――命を落とされたら、何が起こると思いますか?」
パティは静かに目を伏せた。
「反乱という意味合いでなら……王都は混乱に呑まれるやもしれません」
「え……?」
「人は、敬愛する方が傷ついたとき、理性より先に心が荒れ狂うことがございます。
あるいは、敵の重要人物が倒れた――その事実だけで、群衆は“勝てる”と錯覚し、冷静な判断を失ってしまうのです」
パティの声は淡々としているのに、言葉は重く胸に落ちた。
「それが戦であれば参謀が鎮めます。
ですが……ミルシャ様のお話を伺う限り、今回はその混乱を抑える者がいない」
「そんな……それじゃ、セリア様は……」
「生誕会で狙われるのがセリア様とは限りません。
来賓には、王都の均衡を支える要人も多くおいででしょう。
誰か一人でも倒れれば、その波紋は王国の隅々まで広がります」
ミルシャの脳裏に、最悪の光景が渦を巻く。
祝宴の灯りが血に染まり、歓声が悲鳴へと変わる――そんな未来が。
「もちろん、これは私の例えに過ぎません。
心が乱れても、簡単に人を手にかけることはできません。
ですが……すでに誰かが手をかけていたとしたら――」
言葉の続きを、ミルシャは想像するしかなかった。
「ミルシャ様。 そのお話、フェンイル様にお伝えいたします。
きっと力になってくださるでしょう」
「……ありがとうございます」
ミルシャは深く息を吐いた。
今はただ、セリアの計らいで生誕会に出席できることで、傍で守れるという事だけが、ミルシャの心を支えていた。




