公爵令嬢の願い⑭
――次の日。
雲ひとつない青が、まるで磨かれたガラスのように空を満たしていた。
ミルシャはアトリエの窓辺に頬杖をつき、ぼんやりと外の光景を眺めていた。
昼食を終えた人々が、職場という名の戦場へ戻っていく。
その足音が街道の石畳を軽やかに叩き、どこか遠い世界のざわめきのように聞こえる。
起きてから、まだ一時間ほどしか経っていない。
眠気眼のまま昼食を流し込み、ふらふらと浮遊霊のようにアトリエへ移動――そして今に至る。
「はぁぁぁ……」
窓枠から離れた瞬間、通行人に届きそうなほど大きなため息がこぼれた。
「なんで精霊術なんて使っちゃったかなぁ……あたし。
いや、あの状況じゃ仕方ないけどさぁ……夜の闇で体が光るの、絶対バレるし。 隠れて使うなんて無理だよ」
三人には、精霊使いであることは秘密にしてほしいと頼んだ。
ミルシャの願いに頷いてくれたものの――“精霊使いは悪しき者”という風評は、やはり重く、彼らの瞳に困惑の影が宿っていた。
そして、その後がまた地獄だった。
王太子との婚礼を控えた令嬢が襲われ、怪我を負って帰還。
しかも乗っていた馬車は盗賊のもの。
その瞬間、事態は一気に王都規模の騒ぎへと膨れ上がった。
王宮治療院への搬送、白騎士の出動、盗賊の捕縛――夜は長く、混乱は果てしなかった。
ミルシャも保護され、ゼルとレリーナが呼ばれ、事情聴取が行われた。
ヨハンは、ミルシャと自分で応戦し、なんとか生き延びたと語った。
その言葉の裏にある“精霊術”を、ミッシェル国王はすぐに悟った。
三人が口を閉ざしていることから、ミルシャが秘密にしてほしいと頼んだのだと理解したのだ。
朝の光が王都を染め始めたころ、ようやく解放されたミルシャは、王宮の馬車で帰宅し、そのまま倒れ込むように眠った。
「狙われたのはセリア様? それとも……あたし?
盗賊たち、あたしたちの素性知らなかったよね……。
お金で動いたなら、尋問しても誰が標的か分からないか……」
ミルシャは窓際から離れ、作業机に積み重なったデザインスケッチの束へ向かった。
一番上の紙を手に取り――。
「生誕会、予定通りやるのかな……。
それより……もう、あたしのドレス、要らないかもしれないよね」
スケッチを机に戻し、ふと視線がマネキンにかけられた一着のドレスに向く。
サリナが持ち帰ったため、今残っているのは先日着ていたその一着だけだ。
「形見のドレスって言ってたよね……誰のなんだろ」
馬車の中で、セリアとサリナが重々しい声で話していた。
ミルシャは目を覚ましていたが、あまりに深刻な内容に起きるタイミングを失い、寝たふりを続けてしまった。
「襲われた時のセリア様の言葉も……気になるんだよね」
――私を一人にしないで!
あの声は、震えていた。
胸の奥に刺さったまま、抜けない。
「あたしだって、ソラのことは話さないし……忘れよう。
でも……要らなくなっても、ドレスだけは仕上げよう。
パティさんも、必死に素材探してくれてるだろうし」
ミルシャは再びスケッチを手に取り、パターンメイキングを始めた。
型紙を作り、マネキンに貼り合わせ、不要な部分に線を入れて切り落とす。
最初はただのAライン。
そこから、自分のイメージへと形を変えていく――それがミルシャの作り方だった。
静かなアトリエに、紙を切る音だけが響く。
その音は、まるで彼女の迷いを少しずつ削り取っていくように、落ち着きを取り戻していった。
昼時の喧騒が引き潮のように遠ざかると、王都の通りには馬車の蹄が石畳を叩く乾いた音だけが残った。
煉瓦の壁に反響するそのリズムは、まるで街そのものが呼吸しているようで、ミルシャにとっては幼い頃から聞き慣れた子守歌のようなものだった。
だから、自分の店の前に馬車が止まっても気付かない。
ただ黙々と紙と布に向き合い続ける。
気がつけば、空はゆっくりと赤を滲ませ始めていた。
午後五時。
窓から吹き込んだ風がスケッチを舞い上げ、紙片がふわりと宙を踊る。
「……もう、こんな時間。 一息いれよう」
集中の糸が切れた瞬間、胸の奥に沈んでいた重さが、また浮かび上がってくる。
階段を降りながら、精霊術を見たセリアの、あの複雑な表情を思い出していた。
「おなかすいちゃった。 まだ、お菓子残ってたかな?」
「ありませんわよ?」
「そっか、じゃあ何か買ってこようか――なぁ!?」
「それは良いですわね。 サリナ、先日館で頂いたお菓子を買ってきてくださる?」
「かしこまりました」
ぽかんと口を開けたまま固まるミルシャの横を、サリナが丁寧に一礼して裏口から出ていく。
そして、窓辺にはこちらに頭を下げるヨハンの姿。
「え?え?――ええっ!?」
「なんですの?」
「どうして!? いつから!? え、えっ!?」
「裏口が開いておりましたわ。 不用心ですわよ?」
「え?――あ、あたしまた開けっぱなしに……いやいや、そうじゃなくて!」
「落ち着きなさい。 わたくし、ハーブティーを頂きたいですわ」
「………」
突然の来訪に心臓が跳ねる。
けれど、セリアは本を片手にソファで寛ぎ、まるでずっとここにいたかのような落ち着きぶりだった。
「少々お待ちください……」
「宜しくってよ」
ミルシャは深呼吸し、ハーブティーの準備を始めた。
お気に入りのカモミールをティーポットに入れ、ゆっくりと湯を注ぐ。
甘い香りがふわりと立ち上がり、張り詰めていた心がほどけていく。
蒸らす間、カップを温めるために少量のお湯を注ぐ。
静かな時間――耳に届くのは、セリアが本をめくる柔らかな音だけ。
やがて、温めたカップにハーブティーを注ぎ、トレーに乗せてセリアの前へ。
「セリア様、どうぞ」
「ありがとう」
セリアは本を閉じ、右手を伸ばした――その瞬間。
「……っ!」
「セリア様!?」
「……大丈夫よ」
何事もなかったように振る舞うが、右手はそっと引っ込められ、代わりに左手でカップを持ち上げた。
よく見ると、ロンググローブの右腕のあたりが僅かに膨らんでいる。
「セリア様……その腕」
「少し腫れているだけよ。 お気になさらないで」
「……はい」
馬車が横転したあの瞬間。
セリアは右腕を抱え、痛みに耐えていた。
普通の回復薬では治りきらない打撲――精霊術で作る回復薬なら治せる。
けれど、それを勧めることは……どうしても、できなかった。
ミルシャは、温かいカモミールの香りに包まれながら、胸の奥の痛みをそっと押し隠した。
ミルシャはヨハンのそばへ歩み寄り、トレーの上のハーブティーをそっと差し出した。
ヨハンは静かに礼を述べ、皿ごとカップを持ち上げる。
「ありがとうございます」
「いいえ。 ……座られてはいかがですか?」
「もう少しこちらで、夕陽を見ていたいと思います」
「……わかりました」
ヨハンの視線は、景色を眺めているというより――鋭く外を警戒していた。
昨日の襲撃を思えば当然だ。
ミルシャは自分のカップを手に取り、セリアの向かいの席へ腰を下ろした。
――ふぅ……。
三人がほぼ同時にカップを口に運び、静かに息を吐く。
その沈黙は、狭い店内をさらに狭く感じさせた。
「あ、あの……襲撃の翌日ですし……ここは危険なのでは?」
「危険ですので、ここに来たのですわ」
「――え?」
「ご安心なさってよろしいですわ。 お店の周りには、私服の白騎士が警戒しておりますの」
「――え!? し、白騎士が……?」
「とっても安全ですわ」
「そ、それは……そうかもしれませんが、公爵家の御館におられた方が……」
「館には二百人以上の者が働いておりますの。
その中に敵が紛れていたとしても、確認のしようがありませんわ。
今回のように、神に仕える神父様が手を引いていたとなれば、信用できる者は限られてしまいますの」
「そうなのですね……」
「それに、ここを推薦なさったのはミッシェル陛下ですのよ?」
「――えぇ!? 陛下が……?」
「信頼がおけて、ゼル先生とミルシャがAランク冒険者で、しかもお医者様。
これ以上信頼のおける場所が他にありまして?」
「……信頼してくださるのですか?」
ミルシャの問いに、セリアはそっとカップを置き、本を閉じた。
「精霊使いであることを気にされているのですわね」
「………」
「ミッシェル陛下から、すべてお聞きいたしましたわ」
「!? ……全部……?」
「ヨハンもAランク冒険者の出ですので、それなりに強いのですが――盗賊八人を相手にできるほどではありませんの。
まして、矢を放つ相手に勝てるわけがありません。
それなのに、誰も命を落とさず戻ってきた。
精霊使いを知る者なら、容易に想像できますわ」
「……はい」
「そして――ミルシャが精霊使いとして覚醒した生い立ちも、お聞きしました」
「………」
「おかげで、精霊使いへの忌避は、深い親愛へと変わりましたわ」
「セリア様……」
「わたくしだけではありませんのよ? ヨハンもサリナも、同じ気持ちですわ」
ヨハンは優しい笑みを浮かべ、静かに頷いた。
その瞬間、ミルシャの頬を一筋の涙が伝う。
セリアは席を立ち、ミルシャの前に座り直すと、そっと手を取った。
「きっと、もうすぐ――精霊使いを隠さなくてもいい時代が来ますわ」
「……はい……はい……」
ミルシャは堪えきれず、セリアに抱き寄せられながら泣き続けた。
――コンコン。
その時、裏口の扉を叩く音が静かな空気を震わせた。
ミルシャは慌てて涙を拭い、セリアは何事もなかったようにソファへ戻り本を開く。
「どうぞ」
「ただいま戻りました」
サリナが大きな袋を抱えて戻ってきた。
歩き方は少しぎこちなく、足を庇っているのが痛々しい。
「ミルシャ様、お皿をお借りしても宜しいでしょうか?」
「あ、はい。 どうぞ」
「ありがとうございます」
サリナは棚へ向かい、丁寧に皿を取り出す。
「お待たせいたしました。 どうぞ、ご賞味ください」
「ミルシャの作る甘いお菓子ではないのだけれど、とても風味の良い焼き菓子ですのよ」
セリアが微笑みながら言葉を添える。
「美味しそう! ありがとう、セリア様!」
「お姉様、ですわよ?」
「え? あ、はい……お姉様!」
「よろしくってよ」
「いただきますっ! ――美味しい!」
「お口に合いまして、なによりですわ」
甘酸っぱい香りと笑い声が、ようやくアトリエに温かさを取り戻していく。
外はすっかり夜の帳が降り、星々が瞬き始めていた。
暫くの談笑の後――セリアの瞳が、ふと真剣な色を帯びた。
「実は、今回の件で報告がありますの。 ……ヨハン」
「はい」
「報告?」
「ミルシャ様が撃退した盗賊たちですが――白騎士の精鋭部隊が身柄確保のため即座に派遣されました」
「あたし、気絶させただけだから……起きて逃げちゃったんじゃないですか?」
「私もそう伝えたのですが、確認のためにと向かわれました。
そして、現場に到着してみると、盗賊は逃げてはおらず……。
全員が剣で斬られ、絶命していたと報告を受けました」
「そんなっ!」
「恐らく、返り討ちに遭った盗賊を見て、足がつくのを恐れた黒幕が始末したのでしょう」
「神父……」
「はい」
「……そうですか」
ミルシャは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
アイリスが言っていた“災厄”が、ゆっくりと自分へ近づいてきている気がした。




