公爵令嬢の願い⑪
人里離れた静寂の湖畔に身を置く聖女マリオン。
聖女を名乗れるシスターは稀で、十年に一度現れるかどうか――まさに天から落ちる一筋の光のような存在だと言われている。
今の聖女会至聖位・聖女シャロンも、マリオンが聖女として会を束ね始めてから十五年の歳月を経て、ようやくその才を花開かせた。
そして三年前、すべてをシャロンへ託し、マリオンは静かに聖女会を去った。
「マリオン様に……本当にお会いできるのかしら?」
セリアが、どこか期待と気品を混ぜた声音で問いかける。
「はい。 私がフェンイル様より賜ったご用命は、マリオン様から依頼された調査の報告書をお届けすることです。
そしてこの後、お迎えが参る手筈になっております」
「そうですのね……ミルシャを不安なまま放っておくのは、さすがにわたくしも心苦しいですわ」
セリアは軽くため息をつきながらも、背筋は貴族らしく凛としている。
「ですが、わたくしたちの本来の目的もまだ果たしておりませんでしょう?」
「特別な生地をお探しとのことでしたが……どのような品をお求めなのですか?」
「それはね――」
ミルシャは、まだ何の手がかりも掴めていない、希望する特徴を細かくパティへ説明した。
「筒状になった糸……でございますか。
私はこの町で裁縫師として数年学んで参りましたが、存じ上げる限り、そのような糸は一度も見たことがございません」
「そっか……うん、だよね。 あたしも見たことないし……」
ミルシャは肩を落とし、セリアがそっと寄り添う。
「ミルシャ様が筒状の糸をどのように扱われるのかは存じません。
ですが――方法がまったく無いわけではございません」
「ほ、ほんとにっ!?」
ミルシャの瞳がぱっと輝く。
「我がラングレイの市場には、領地産の野菜だけでなく、他国を経由した品も並びます。
その中に“カポック”という木の実が出品されることがございます。
その実の中には大量の綿が含まれており、その繊維が筒状になっていると聞いたことがございます。
本来は表地と裏地の間に詰めて暖を取るための素材で、糸の生成には向きません。
ですが――もし既存の生地の上に、薄く散りばめることができたなら……」
パティが言い終える前に、ミルシャの瞳は星のようにきらめいていた。
「パティさん! その実、すぐに手に入る!? 欲しい!」
「恩人たるミルシャ様のご要望とあらば、ギルドを介しラングレイ領全土から探し出してみせます!」
「やったぁ!!」
「ふふ、良かったではありませんの、ミルシャ」
「はいっ! お姉様!」
嬉しさが胸いっぱいに広がり、先ほどまでの沈んだ気持ちは風に溶けるように消えていった。
ミルシャのドレスは――ついに、完成へ向けて一筋の光を帯び始めた。
「これで心置きなく、マリオン様にお会いできますわ」
セリアが満足げに微笑んだ、その瞬間。
「お待ちください、お嬢様」
喜びの余韻を断ち切るように、ヨハンが静かに声を差し挟んだ。
「マリオン様は、船でなければ辿り着けぬ地にお住まいと聞きます。
今から向かいお話を頂くのであれば、夜までに戻るのは困難かと存じます」
「そう……ですわね」
そんな彼女へ、パティがそっと言葉を添える。
「マリオン様の館は、シスターの修練の場としても使われております。
一泊の宿をお願いすることも可能かと。 私は本日、その予定でございます」
「そうしたいところではありますけれど……」
セリアは小さく首を振り、気品あるため息を落とした。
「今のわたくしに、そこまでのわがままは許されませんのよ……」
「そうでしたか。 事情を知らず、失礼いたしました」
「いいえ、仕方ありませんわ。
パティさん、その船はまたこちらへ戻してくださるのかしら?」
「船は教会の所有物と聞いておりますので、こちらへ引き返してくるものと思います」
「ヨハン、マリオン様にお会いして、ご挨拶だけなら可能かしら?」
「それでしたら問題ないかと」
「わかりました――サリナ」
「はい」
「ミルシャが王都へ戻るまで、傍にいてお世話をなさい」
「かしこまりました」
「ええ!? 一人でも大丈夫です、お姉様!」
「い・け・ま・せ・ん!」
セリアはミルシャの鼻先に、自分の鼻が触れそうなほど顔を寄せ、高飛車な気品をそのまま圧として放つ。
「わたくしがミルシャを連れてきたのですもの。
せめてこのくらいは配慮させてくださいませ」
「は、はい……」
圧倒され、ミルシャは思わず背筋を伸ばして了承した。
しかし――今日帰る予定なのはセリアだけではなく、ミルシャ自身も同じだった。
親にそう告げてきたことを、ミルシャはすっかり忘れていた。
――マリオン邸
この館には“開かずの部屋”がある。
二階からさらに階段を上がった屋根裏の廊下、その最奥。
マリオンの傍使いであるネルフィーでさえ開けることを許されず、ましてマリオン自身も入ることは叶わない。
いや、正しくは”許されない”のではなく、”入れない”のだ。
その扉には取っ手がなく、外側からは決して開かぬ造りになっている。
開けられるのは、ただ中にいる者だけ。
――キィ……
その扉が、今、静かに開いた。
わずかに覗いた隙間から廊下を確かめる影がひとつ。
誰もいないと知ると、影はそっと外へ出て、音もなく扉を閉じた。
そして、屋根裏から二階へ続く階段へと歩みを落とす。
マリオン邸は部屋数が多く、まるで古き貴族の館のように威厳を湛えている。
さらに湖畔に建つその姿は、光を受けて水面に揺らぎ、聖なる館として崇められていた。
新人シスターたちの修練の場としても開放されており、彼女たちにとっては憧れの聖女から直接言葉を授かれる至高の場所――正教会よりも愛される理由は、まさにそこにあった。
――昼下がり
今日は新人たちの姿もなく、湖畔の風が静かに流れるテラスで、マリオンはネルフィーと二人、午後のハーブティーを楽しんでいた。
パティが持ってくる調査書を、心穏やかに待ちながら。
それは、あの日――解呪の際に集まった心力についての調査依頼。
なぜ、あれほど多くの心力が一斉に集まったのか。
民の心理状態を知ることができれば、今後の除霊や解呪に大きな助けとなる。
仮説はある。 だが確証が欲しい。
マリオンは湖風に髪を揺らしながら、背後から近づく気配に微笑みを向けた。
「お暇なのかしら?」
「暇ではない。
まして責務の放棄でもない。
配下の才覚を信じるがゆえの采配だ。
上に立つ者が全てを抱え込めば、組織は停滞する。
ゆえに我は必要な判断だけを行い、実務は信頼する者へ託す。
これは怠慢ではなく、王国を最大効率で動かすための統治術だ」
「そういうのを世では“丸投げ”と言うのよ?」
「実に心外だ」
「うふふ……」
「あっははは!」
ミッシェルとマリオンの、いつもの軽やかな冗談。
そのやり取りに、ミッシェルは胸のつかえがふっと消えるのを感じた。
「何よりだ……」
「心配させてしまったわね」
「………」
ネルフィーが椅子を引き、ミッシェルに深く一礼する。
ミッシェルが腰を下ろすと、ネルフィーは手際よくハーブティーを淹れ、音を立てぬよう静かに差し出した。
「それで、今日は何をしているのだ?」
「この後、パティさんが報告書を持ってきてくれるの」
「心力の件か」
「ええ。 女神信仰でなくとも心力が集まることは分かったわ。
でも今回は、私の“雑念”に反応して集まってきたの。
つまり――同じ願いならば、民の心は共鳴するのではないかしら」
「よくわからんが、聖女ならではの解釈だな」
「そうね。 教会堂の神紋陣では不可能よ。
あれは女神さまへの感謝の意を力に変えるもの。 自分の願望を力には変えられないの。
でも今回、ラングレイの民はフェンイル様の子息の回復を願っていた――これは“願望”よ。 その願望を心力として集められた。
とても興味深い現象だわ」
「パティの調査報告に、その切っ掛けが――と言っているうちに、船が来たようだな」
ミッシェルが言葉を紡いでいる最中、湖面の向こうで小舟が光を滑らせながらこちらへ向かってくるのが見えた。
残念な顔を見せるミッシェル。
「美味しい果実酒でも頂こうと思って来たが、今日はこれで戻るとしよう。
まだ病み上がりなのだから、あまり無理を――マリオン?」
立ち上がり、精霊術で帰ろうとしたミッシェルの動きが止まる。
マリオンの顔が、雪のように蒼白へと変わっていたからだ。
「おい、どうした!?」
「あの船に……魔族が乗っています……」
「何っ!?」
「赤い揺らぎが見えます……っ!
ネルフィー、急いで神杖を持ってきてください!」
「はいっ!」
マリオンは椅子を跳ね飛ばす勢いで立ち上がり、ネルフィーへ杖を持ってくるように命じる。
その鋭い声は、戦いの兆しを告げる鐘のように空気を震わせた。
「全員、魔族なのか!?」
「いいえ……恐らく一人だけ。
禍々しいほどの赤いオーラが見えるわ!」
「くっ……何も武器を持ってこなかった!
しかし、なぜこの国に魔族が? いや、つい最近カイたちが戦っていたな」
船はまだ遠い。
だが、静かな湖面が逆に不気味で、迫る影の気配だけが胸を締めつけた。
「マリオン様!」
全速力で戻ってきたネルフィーが、先日の解呪で使われた神杖を差し出す。
「ありがとう。 危険だから、あなたは館に隠れていなさい」
「で、ですが!」
「あなたには魔族が見えないでしょう? だったら戦えません」
「……はい」
ネルフィーは自分が足手まといになると悟り、悔しさを押し殺して走り去った。
「どうするのだ?」
「まずは魔法結界を試みます。
魔族相手に防御が成り立つとは思えませんが……」
マリオンは急ぎ足元へ神紋陣を描き始める。
複雑な紋様は時間を要し、焦りが指先を震わせる――その時。
『我は汝に仇名すものにあらず。 敵対心は無用』
(念話!?)
頭の奥へ直接響く声に、マリオンの手が止まった。
「マリオン!?」
『我はただ、依り代に住まうだけの存在。 何も出来ぬ』
『それを信じろというのですか!? それほどの魔気を纏っているのに!』
『ほう……念話を使うか。 見事な人間族だ。
だが、我の意思では漏れる魔気を抑えられぬのだ』
『意味の分からないことを!』
「どうしたんだ、マリオン!」
ミッシェルの声が届いても、マリオンは微動だにしない。
険しい表情が、ただ事ではないと告げていた。
『戦意を消せとは言わぬ。
だが――今は静観を願う』
『………』
『――静観を願う』
マリオンは大きく息を吸い、震える心を押しとどめるように呼吸を整えた。
その姿勢を了承と受け取ったのか、念話はふっと途切れる。
「マリオン?」
ミッシェルがそっと問いかける。
「敵意は……無いわ」
「だが魔族なのだろう!?」
「どうやら、あの船に乗っている誰かが――魔族……いえ、魔人族に憑依されているのよ」
「そんなことが起こりうるのか!?」
「どうしてそうなったのかは分からない。 でも、事実よ」
船はゆっくりと近づいてくる。
その甲板で、ひとりの少女が笑顔いっぱいに手を振っていた。
「あの手を振る少女は……!!
どうしてミルシャがあの船に乗っている!?」
――カタンッ!
ミッシェルの言葉に、マリオンは手にしていた神杖を落とした。
「い、今……なんて?」
「そういえば、先日の解呪の時も会っていなかったな。
幼い頃から会っていなかったのだろうが、あの少女こそゼルの娘――ミルシャだ」
マリオンは言葉を失い、膝から崩れ落ちた。
ミッシェルが慌てて支える。
「大丈夫か!?」
「そんな……魔人族が憑依しているのは……ミルシャちゃんよ……」
「な、なんだと!?」
マリオンの瞳から涙が溢れ、止まらなくなった。
「あの子は……どれほど不幸を背負えば、心穏やかに暮らせる日が来るの……?」
マリオンはその場に崩れ落ち、涙が湖風に揺れた。
ミッシェルは離れることもできず、館の方へ視線を向ける。
出入り口から心配そうに覗くネルフィーを見つけ、手を振って呼んだ。
「どうされたのですか!?」
「説明は後だ! すまない、我が着られるフード付きのローブを持ってきてくれ!」
「は、はいっ!」
ネルフィーは再び館へ駆け戻っていく。
「今は落ち着くんだ。
お前が俯いていたら、ミルシャに悟られてしまう。
ミルシャは何も知らないんだ」
その言葉に、マリオンはミッシェルへ縋りつく。
「……何か知っているのね!?」
「ああ。 だが今は説明している時間がない。
その涙は、ミルシャと再会できた“歓喜の涙”にしてほしい」
「……わかったわ」
マリオンは震える膝を押さえながら立ち上がり、近づいてくる船を見つめた。
ミッシェルはネルフィーが持ってきたローブを羽織り、深くフードを被って顔を隠す。
ほどなくして船は船着き場に寄せられ、パティを先頭に五人がマリオンの前へ歩み寄ってきた。
マリオンは必死に心を静め、平静を保とうとする。
だが、目の前のミルシャを見た瞬間、手の震えが止まらなかった。
赤く揺らめく禍々しい魔気。
それを背負わされている少女の生い立ちを思うだけで、胸が締め付けられる。
「お待たせして申し訳ありません、マリオン様」
「いいえ、時間通りです。 依頼を受けてくださり感謝いたします」
「もったいないお言葉です」
「それで、そちらの方々は?」
パティが横へ控え、セリアを筆頭に紹介を始めた。
セリアは一歩前へ出て、優雅に頭を下げる。
「聖女マリオン様――お初にお目にかかります。
わたくし、ルドルク・リルス・ヘイゲルの娘、セリアと申します。
お約束もなく参上いたしましたこと、さぞご迷惑かと存じます。
聖女様のご助力を頂けるならば、この上ない栄誉でございます」
「初めてではありませんよ、セリア様。
あなたがご生誕されたとき、祝福を授けに参りましたから――うふふ。
それと、あなたもです――ミルシャ・マリンベルさん」
マリオンはミルシャへ歩み寄り、そっと抱き寄せた。
「え……?」
「先日の解呪の時はお会いできませんでしたが、こうして会えたのは、きっと女神さまのお導きです。
よく頑張りましたね」
ミルシャは優しい腕に包まれ、胸の奥の苦しみが少しずつほどけていく。
だが――ふと気づく。
(……マリオン様、震えてる?)
必死に隠そうとしているが、震えは止まらない。
ミルシャは心配そうに顔を覗き込む。
「もしかして、どこか体調を崩されているのですか?
宜しければ、あたしが診させていただきますが……」
ミルシャの優しさに触れた瞬間、マリオンの涙はもう止められなかった。
「マリオン様!?」
「大丈夫です……ただ……ゼルの娘に会えて……嬉しいだけですから……」
それは、今のマリオンが絞り出せる、精一杯の言葉だった。




