公爵令嬢の願い⑩
いくつもの丘を越えた先、馬車の窓にふわりと広がったのは――鏡のように静まり返ったセルーネ湖。
陽光を受けて淡く揺らめく水面は、まるで湖そのものが優雅さを誇っているかのようで、ミルシャは思わず息を呑んだ。
「サリナ。 ミルシャの髪を、わたくしと同じ形に整えてちょうだい」
「はい――失礼いたします、ミルシャ様」
到着まであとわずかというのに、セリアはふとそんなことを言い出した。
サリナは慣れた指先でミルシャの髪をすくい上げ、首元で柔らかくまとめる。
そして、セリアと同じ深紅のリボンをそっと結んだ。
ドレスの色合いも相まって、並んだ姿は誰が見ても姉妹そのものだった。
「セリア様、こんなにお揃いにしてしまっては……」
「よろしいではありませんの。 わたくし、ミルシャと並ぶのが楽しのですもの」
セリアは微笑む。 その笑みは、気品と可憐さを宿していた。
セルーネの町へと辿り着いた馬車は、湖面から銀の揺らぎを照らす広場へと滑り込んだ。
水辺には白亜の教会が佇み、朝光を受けて静かに輝いている。
この町には領主という存在がいない。
すべては聖女会が治め、国政に関わる務めは、その時代の聖女が王都へ赴き担っていた。
彼女たちの役割は、各地の教会へ派遣するシスターの選任――未来を育む教育の礎を築く尊き使命である。
ミルシャはセリアの後ろから、ヨハンに手を取られて馬車を降りた。
初めて訪れたセルーネの美しさに、胸がふわりと高鳴る。
ヘルパーの依頼で通り過ぎることはあっても、買い物で訪れる機会は一度もない。
どれほど品揃えの良い手芸店があっても、王都で事足りてしまうのが常なのだ。
それでも、この地を勧められたのだから、きっと特別な素材に出会える。
そんな予感が、ミルシャの心をそっと灯していた。
手芸の聖域とも呼ばれる町へ降り立ち、セリアが優雅に口を開く。
「これからのご相談ですけれど、闇雲に歩き回っても効率がよろしくありませんわね。
ヨハン、お店の選定は済んでおりますの?」
「はい。 セルーネで評判の手芸店を三つほど調べてございます。
ですが、お嬢様――」
「ええ、心得ておりますわ。
まずは教会に参り、旅路のご加護をお祈りいたしましょう」
セリアは、後ろで目を輝かせているミルシャの手を取り、仲の良い姉妹のように二人は教会へと歩き出す。
教会への訪問は、貴族としての挨拶を意味する。
本来ならお忍びの旅ゆえ挨拶は不要なのだが、もしヘイゲル公爵家の令嬢と知られてしまった場合、挨拶もなく町を巡るのは不敬となる。
もちろん、彼女が“お忍び”であることは配慮される。
特別な対応はせず、ただの知人として軽く挨拶を交わすだけ。
つまりは、“見て見ぬふり”をしてもらうのだ。
湖風がそっと二人の髪を揺らし、教会の鐘が優しく九時を告げる。
ミルシャはその音を胸に刻みながら、これから始まる素材探しの旅に、静かに期待を膨らませていた。
セルーネの町に寄り添う湖。
その静な湖面の上に、白亜の教会が気高くそびえていた。
長い橋が島へと伸び、まるで天へ続く道のように湖上を渡っている。
水鏡に映る教会は、風に揺れる光を纏い、神聖さをひときわ際立たせていた。
ミルシャたちは橋の入口へ向かい、来訪者を迎えるシスターと対面した。
彼女は門番というより、教会での作法を心得ているかを確かめる案内役である。
初めての者には簡単な説明があるが、そうでなければすぐに通される。
ミルシャは初訪問だったが、セリアが何度も訪れていることもあり、問題なく橋を渡る許可が下りた。
「お姉様」
「なぁに、ミルシャ?」
“お姉様”と呼ばれる響きが嬉しいのか、セリアはどこか上機嫌に微笑む。
「貴族であることを告げなかったのですね」
「こちらでは、所作で身分を量るのですわ。
装いだけで誤魔化そうとしても、すぐに露見いたしますもの。
それに、名乗るという行為は、教会に用事があるという意思表示にもなりますでしょう?
女神さまのご加護を求める場では、貴族も平民も等しく祈りを捧げる場ですのよ」
「なるほど、知りませんでした」
ミルシャは、貴族の“お忍び”という概念を少しずつ理解しはじめていた。
「……ミルシャ様?」
「え?」
橋へ足を踏み出そうとした瞬間、後方から自分を呼ぶ声がした。
「……パティさん!?」
「やはりミルシャ様でございましたか! お会いできて、胸がいっぱいです!」
「どうしてここに!?」
ミルシャが目を丸くすると、パティは胸に手を添え丁寧に一礼した。
「フェンイル様のご用命を受け、こちらへ参りました。
ですが、その前に旅路の安全を祈り、教会へ寄進するのが習わしにございますので」
「習わしですって?」
セリアが瞳を細めて小さく息を漏らす。
パティの話は理にかなっている。 だが、習わしとなれば、それは通行料を取るのと相違なかった。
「そのようなお話、わたくし初耳ですわ」
「え? でも、お姉様、そういうご意向で来られたのではありませんの?」
「――お姉様?」
ミルシャの言葉遣いに、パティは首を傾げる。
「貴族として礼を重んじただけのことですわ。
寄進の習わしなど、わたくし存じ上げませんもの」
その言葉に、パティはようやくセリアの存在を正面から認識した。
気品を纏う佇まい――その一瞬で、セリアがヘイゲル公爵家の令嬢であると悟る。
本来なら膝をついて礼を取るべきところだが、ミルシャと同じ意匠の衣を纏っていることから、お忍びであると察し、控えめに深く頭を下げた。
「私はこれにて失礼いたします。
ミルシャ様、何か御用がございましたら、いつでもラングレイ領にてお待ちしております」
湖風に揺れる深緑の髪を整え、立ち去ろうとするパティ。
その背を、セリアの柔らかな声がそっと引き留めた。
「お待ちなさい。 パティさんとおっしゃるのね。
あなた、洋裁にはお詳しいのかしら?」
呼び止められたパティは、胸の前で手を揃え、恭しく答えようと顔を上げる。
「趣味程度でございます」
「もしお時間が許すのであれば、わたくしたちの買い物に付き合ってくださらない?
ミルシャが特別な生地を探しているの。 あなたのお知恵を頂けると嬉しくて」
「そのようなご用命であれば、喜んでお受けいたします」
「それでは、まず一緒に教会堂へ参りましょう」
「はい」
思わぬ同行者にミルシャはぱっと笑顔を咲かせ、パティの手を取った。
「よろしくお願いします、パティさん!」
「またご一緒できるなんて……本当に、感無量でございます」
こうして、パティを加えた五人は、湖上に浮かぶ聖域――セルーネ教会堂へと、静かに歩みを進めていった。
水面を渡る風が、薄衣の裾をそっと揺らす。
その瞬間、ミルシャは息を呑んだ。
「……大きい……」
遠くからは湖の広さに紛れ、小さく見えていた教会堂。
けれど、近づくほどにその姿は圧倒的な威容をあらわし、白亜の壁は陽光を受けて輝き、天へ伸びる尖塔はまるで祈りそのもののようだった。
ミルシャの瞳は、驚きと感嘆できらきらと揺れる。
「こちらの建物は、王都の正教会よりも大規模ですのよ。
先代の聖女マリオン様が、教皇様への“ささやかな当てつけ”として建築なさった――そんな逸話も残っておりますわ」
「マリオン様って、教皇様とは……」
「うふふ。 とても愉快なお話でしょう?」
セリアが上品に微笑み、教会堂の歴史を語りかけた――その刹那。
「――止まりなさい」
澄んだ声が、湖面に響く波紋ように空気を震わせた。
教会堂の入口にシスターたちが集まり、その中央に立つ一人の女性が、静かに、しかし絶対の権威をもってセリアたちを制した。
「どうされたのですか? 聖女シャロン様」
淡い桃色の髪が風に揺れ、深い緑の瞳が湖のように静かに光る。
白い法衣は金糸で縁取られ、薄いヴェールが光を受けて淡く輝く。
その姿はまさしく聖女――だが、その表情は厳しく、手にした神杖は真っ直ぐにミルシャへと向けられていた。
「その者の入堂は許可できません。 ――お引き取りください」
ミルシャは理由も分からず、ただ立ち尽くす。
「シャロン様、この者はわたくしの客人でございます。
決して怪しい者ではございません」
「そういう問題ではありません、セリア・リルス・ヘイゲル様」
「わたくしがヘイゲル公爵家の者と知ってなお、入堂を拒まれるのですか?」
「公爵家であることを考慮して、穏便にお引き取りを願っているのです。
もしこの者が一人であれば――即刻拘束いたします」
「な、なんという暴挙を!」
“拘束”という言葉に、普段は冷静なセリアの瞳に怒りの炎が宿る。
「これ以上は時間の無駄です――お引き取りを」
「理由をお示しくださいませ!」
場の空気が張り詰める。
セリアが一歩踏み出そうとした、その瞬間――ミルシャがそっと腕を取り、震える声で囁いた。
「お姉様――どうか、心を静めてください。 ……戻りましょう」
伏せられた横顔は、とても弱々しく、その表情を見たセリアは奥歯をきつく噛みしめた。
怒りを押し殺し、胸の奥で荒ぶる感情を必死に鎮める。
ミルシャは、自分が拒まれた理由を胸の内で巡らせる。
(聖女様は……あたしが精霊使いだって気付いてるんだわ。
だから、入ることを拒んで……)
これ以上争いを生まぬよう、ミルシャはセリアの腕をそっと引き、小さく、しかし確かな願いを伝えた。
「ミルシャが、そう言うのなら……」
「ありがとうございます……」
セリアはシャロンを鋭く睨みつけると、ミルシャの肩へ優しく手を添え、歩みを返そうとした――その時。
「何の騒ぎか?」
この教会では滅多に響かぬ、低く威厳ある男の声が空気を震わせた。
セリアたちの足が止まり、振り向いた瞬間――その姿を見て、セリアは息を呑む。
「教皇様……」
――!?
その名が落ちた瞬間、ミルシャはもちろん、パティやサリナ、ヨハンまでも、雷に打たれたように目を見開いた。
三人は慌てて膝をつき、礼を取る。
ミルシャも咄嗟に同じ所作をしようとするが、セリアが手をかざして制し、目線で自分と同じ礼を求めた。
セリアはスカートの裾をつまみ、気品そのものの優雅な所作で深く頭を垂れる。
遅れてミルシャも、できる限り同じように礼を取った。
「教皇様におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。
わたくしは、ルドルク・リルス・ヘイゲルが娘、セリアと申します」
教皇の顔を知ってはいた――だが、こうして真正面から言葉を交わすのは初めてとなる。
「ヘイゲル公爵家か……たしか、王太子殿下との婚礼の儀が差し迫っていたと記憶しているが、そんな時分に遊んで歩くなど、ヘイゲル家の躾はどうなっておるのやら」
礼に対して礼を重んじるわけでもなく、悪意の籠った言葉を返す教皇。
不満はあれど、王族と対等の立場を持つ教皇に対して、異を唱えることはしてはならない。
「して、いったい何があったのだ?」
「……はい。 そこにおりますヘイゲル家の客人に、異な者の気配を感じましたので、お引き取りを願っていたところです」
「ふむ……」
教皇は静かに歩み寄り、ミルシャの前に立つと、その瞳を覗き込んだ。
僅かな沈黙が落ち、やがて教皇は何も告げぬまま背を向ける。
「我には何も感じぬが……シャロンが言うのであれば、そうなのだろう。
――即刻、立ち去れ」
「……はい」
セリアはそっとミルシャの肩を支え、歩き出そうとする。
「そういえば――近く王都の学院で、生誕祭を催すのだったな」
「はい」
「くく……ヘイゲル公爵家として最後の祝い。 ”無事”に執り行われることを祈っておるよ」
その言葉を残し、教皇は教会堂の奥へと消えていった。
セリアは振り返らず、ただ真っすぐに広場へ戻る。
しかし、パティだけは教皇の最後の一言が胸に刺さり、ミルシャを見つめ続けるシャロンの視線を追っていた。
「……胸騒ぎがいたします」
パティは小さく呟き、ミルシャのあとを追う。
五人は気持ちを整えるため、広場に面した食事処へ入った。
ヨハンの計らいで個室へ案内され、軽い食事を注文する。
「ごめんなさいね、ミルシャ。
不愉快な思いをさせてしまって……」
「気になさらないでください、お姉様。 きっと何かの間違いです」
その言葉に、セリアはぱっと花が咲くように微笑み、ミルシャをぎゅっと抱き寄せた。
「こんなに可愛らしい方を捕まえて、異な者の気配だなんて……本当に失礼ですわ!」
「あはは……」
庇ってくれるセリアに、ミルシャは照れながらも嬉しそうに笑う。
だが、ふと視線を向けた先――パティもまたミルシャを見つめていた。
精霊使いと疑われたことを、互いに確かめ合うように。
「セリア様――少し宜しいでしょうか」
「なんです? パティさん」
控えていたパティが、静かに口を開いた。
「聖女シャロン様のお言葉について、あるお方にご意見を頂きたいと存じます。
もしお時間が許されるのであれば、そのお方に面会されてはいかがでしょうか」
「どなたですの?」
「前聖女会至聖位――聖女マリオン様でございます」




