公爵令嬢の願い⑨
セリアが去り、喧騒の余韻だけを残しアトリエを後にしたミルシャは、夕食の席でルゥを交え、夕方の一連の出来事を語った。
レリーナもゼルもクスクスと笑っていたが、当の本人は明日の旅のことが頭から離れず、胸の奥がそわそわと落ち着かない。
「そういえば、お父さんのこと知っていたみたいだけど?」
ふと、セリアが“ゼル先生”と親しげに話していた場面が脳裏に浮かび、ミルシャは問いかけた。
「セリア様が幼い頃、酷い熱を出されたことがあってね。
その時に僕が診たんだよ。 それ以来、重い症状の時は呼ばれることがあるんだ」
「公爵家なんだから、専属医がいるでしょう?」
「まあ、いるんだけどね。 その時はたまたま不在で、ミッシェルが僕を名指ししたんだ」
「ああ、なるほど」
「それに、専属医がいたとしても、あの症状は治せなかったかもしれない。 普通の熱じゃなかったからね」
「そうだったんだ」
寝不足と疲労で、難しい病名を聞いても理解できる気がしない。
それでも、ミルシャは父とセリアの間にある静かな縁を、ようやく腑に落とした。
「セリア様、元気だった?」
「え? ルゥも知り合いなの?」
「学院で三年間一緒だったよ」
「えええっ!?」
「彼女、すごく明るい性格だからね。 学院でも人気者だったんだ」
「うんうん! それは分かる気がする!」
思わぬ話題に、食卓は一気に華やいだ。
食事が終わると、ルゥはすぐに席を立ち医院を後にした。
朝が早かったこともあり、ミルシャの身体を気遣っての配慮だ。
ミルシャはその背を見送り、風呂で身体の汚れを落とすと、まるで糸が切れたようにベッドへ沈み込んだ。
明日の心配はある――けれど、今のミルシャを眠りから引き戻せる力は、この世界のどこにもなかった。
――翌朝
夜の星々が姿を消し、水平線が淡い光を帯び始めるころ。
医院の前の道を、パッカパッカと馬車の音が近づいてきた。
この街では珍しくない朝のリズムで、慣れてしまえばむしろ眠りを深くする子守歌のようなものだ。
――コトコト、キィッ……コトコト……
いつもと違う、微妙に乱れた馬車の止まる音。
その違和感に、ミルシャはふっと目を開いた。
「ん……」
薄く開いた瞳に映る窓の外は、まだ夜と見分けがつかないほど暗い。
「夢……?」
耳を澄ませても、何の音もしない。
寝返りを打ち、再び夢の楽園へ戻ろうとした――その時。
――リーン…リーン…
遠くで聞き慣れた鈴の音がして、意識が現世へ引き戻される。
「……?」
――ト、ト、ト、ト……コンコン!
複数の足音が近づき、ミルシャの部屋の前で止まった。
指先で軽く叩く、丁寧なノックの音。
「ん……だれ~? お母さん~? どうぞ~……」
重い瞼を手の甲でこすり、寝ぼけたまま上半身を起こす。
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、深紅のワンピースに純白のエプロンをつけた侍女が三人。
真ん中に立つのは、先日セリアと共にいた侍女――サリナ。
その後ろには、ミルシャの母が控えていた。
朝の光がまだ届かぬ薄闇の中、ミルシャはぽかんと口を開けたまま、現実を理解できないでいる。
「お着替えをご用意いたしました。 ミルシャ様」
「……え、……ええええっ!?」
「失礼いたします」
その合図を待っていた侍女たちが、まるで風の精霊のようにベッドへと寄り添い、ふわりとブランケットを外しては、流れる水のような手つきで丁寧に畳んでいく。
その光景に見惚れる暇もなく、サリナがミルシャの両手をそっと持ち上げ――次の瞬間、ぱぱぱっとパジャマが脱がされていた。
「き、きゃあぁぁぁっ!」
あまりの鮮やかな手際に、ミルシャはただされるがまま。
「お立ちくださいませ」
サリナは柔らかな声で告げると、ミルシャの脇に腕を差し入れ、羽根のように軽々と立たせてしまう。
「え、え、えぇ~!?」
背後では、空になったベッドが瞬く間に整えられ、まるで今から眠る者を迎えるかのように美しく仕上げられていく。
「失礼いたします」
思考がぐるぐると渦巻くミルシャを置き去りに、侍女二人が大きな箱を抱えて入室する。
サリナは寝ぐせのついた髪に濡れ布を通し、ブラシでさらりと整えた。
気付けばミルシャは、侍女たちに腕を支えられ、足元に置かれた布へ足を通し――そのまま衣が滑るように上げられ袖が通されていく。
背中のファスナーが上がる音が、やけに優雅に響く。
そのままドレッサーへ誘導され、座らされた瞬間にはもうストッキングが足に通され、靴が履かされていた。
四人の侍女は、やり遂げた満足を湛えた笑みで一礼し、影のように静かに部屋を去っていく。
気付けば髪も整い、身支度は完璧だった。
「お食事のご用意も整っております。
そのまま馬車へご移動ください」
「………」
あまりの鮮やかさに、ミルシャは反応すらできない。
サリナにエスコートされ、夢のような馬車へと乗せられた。
「え、あの……セリア様は……」
「お食事処にてお待ちでございます」
「はぁ……そうですか……」
もはや反論の余地など、どこにもない。
馬車は暗がりの街道を、魔道具のランプに照らされながら城前広場へ向かって進む。
人影のない夜道を抜け、やがて広場へ到着する。
「こちらでございます」
「……っ!?」
案内された先を見た瞬間、ミルシャは息を呑んだ。
「こ、ここって……上流貴族様御用達の高級料亭じゃ……!?」
「はい。
奥にて、お嬢様がお待ちです。 どうぞ、そのままお進みくださいませ」
パンとハーブティー程度だと思っていたミルシャは、頭の中で食事の作法を必死に探る――が、当然何も思い浮かばない。
「あ、あの……あたし、マナーとか全然……」
「貸し切りでございますので、マナーを問う方はおりません。
安心してお入りください」
「うぅ……」
もはや帰るという選択肢は、どこにも残されていない。
ミルシャは深く息を吸い、背筋を正し、知る限りの所作を総動員して――高級料亭の入り口をそっと入った。
――コン、コン
まだ夜の影が残る静かな廊下を進み、サリナは指先で扉を叩く。
その音は、まるで薄氷をそっと揺らすように控えめだった。
「どうぞ」
内側から返る声は、凛として澄み切ったセリアのもの。
ミルシャは胸の奥で跳ねる鼓動を押さえながら、学院で習った礼儀作法を必死に思い返す。
この部屋にいるのがセリアだけとは限らない――公爵本人がいる可能性だってある。
視線を泳がせぬよう、そっと伏し目がちに部屋へ足を踏み入れ、右足を後ろへ引き、スカートの裾をつまみ、優雅に頭を垂れる。
「おはようございます、セリア様。
早朝よりのご招待、心より感謝申し上げます」
返答を待つ――しかし、静寂だけが返ってきた。
(あれ……? もしかして、誰もいない?)
早く来すぎたのかもしれない。
そう思ってほっと息をつき、顔を上げた瞬間――席についていたセリアが、目を丸くしてミルシャを見つめていた。
「……セリア様?」
声をかけると、セリアはハッとしたように立ち上がり、音もなく歩み寄ると、ふわりとミルシャを抱きしめた。
「セ、セリア様!?」
その抱擁はいつもの軽やかなものではなく、どこか切なさを含んでいる。
「大丈夫ですか? どこか具合が悪いのでは……?」
ミルシャの問いに、セリアは小さく首を振る。
「少しだけ……ほんの少しだけ、このままでいさせてくださいませ」
その声は、夜明け前の風のように弱く、儚かった。
理由を尋ねたいのに、震える腕がそれを許さない。
ミルシャはそっと腕を回し、静かに寄り添った。
やがて、セリアは「お化粧を直してまいりますわ」とだけ告げて部屋を出ていった。
案内された食卓で、ミルシャはサリナに尋ねたい気持ちを飲み込み、ただ静かに席へ腰を落とす。
戻ってきたセリアは、まるで別人のようだった。
アトリエで見せた無邪気な笑顔は影もなく、完璧な貴族の振る舞い――気品と威厳を纏った令嬢そのもの。
言葉も交わさず、淡く流れる朝食の時間。
それが終わると、二人は馬車へ乗り込み、セルーネへ向けて出発した。
王都を離れ、馬車が揺れ始めた頃――沈黙を破ったのは、セリアだった。
「人目があると、どうにも窮屈でいけませんわね。
そう思いませんこと? ミルシャさん」
「は、はいっ!」
突然ぴたりと寄り添われ、ミルシャは思わず背筋を伸ばす。
「あ、あの……セリア様? あまり寄り添われますと、ドレスが皺に……」
「わたくしのことは“お姉様”とお呼びになってくださいまし」
「えっ!?
そ、それは一体……それにお忍びと申されていたような?」
「ええ、そうですわよ? ヘイゲル公爵家の者というのは内緒です」
「それはお忍びとは言わないような……」
「今日からミルシャさんは、わたくしの妹でしてよ?
平民であることを気にされていたようですし、貴族として振る舞っていただきますわ。
その方が自然でしょう?」
「ええ……あの……」
「それに――わたくしが平民のように振る舞えると、本気で思われまして?」
胸を張り、誇らしげに言い放つセリア。
その高飛車な気品は、まさに令嬢の鏡。
「……わかりました。 お姉様」
「よろしくってよ、ミルシャ!」
セリアは嬉しさを隠しもせず、ミルシャの身体をさらにぎゅっと抱き寄せた。
(こ、このまま一日過ごすの……? あたし、ついていけるかなぁ……)
馬車の揺れに紛れ、セリアの身体が微かに震えていることに、ミルシャは気付いていなかった。




