公爵令嬢の願い⑧
徒歩で帰るはずだったミルシャたち四人は、幸運にも王都行きの乗合馬車に乗ることができ、午後三時を少し過ぎたころには王都へと帰還していた。
本来なら夕刻、陽が落ちるころの到着予定――その後に夕食を共にし、ゆるやかに解散するはずだった。
しかし思いがけず早く戻れたことで、今回はその場での即時解散となった。
とはいえ、この場で別れるのはアイリスだけ。
他の三人は医院へ戻り、採取した薬草を選別し、地下保存庫へ収める作業が残っている。
三人はアイリスへ手を振り、午後の色を帯び始めた街路を歩き出した。
その背を、アイリスはいつまでも目で追い続ける。
まるで、遠ざかる未来を見つめるように。
「魔人族の魔王様……未来から来た旅人ルゥ……魔王様の依り代となるミルシャ。
パーティ解散……そして今、この国で何かが動き始めている。
私のわがままも……終わりの時なのかもしれませんね……」
小さく呟き、アイリスは人の波へと静かに溶けていった。
別れて医院へ向かう三人は、夕食の買い物をしたいというレリーナに付き添い、家へ戻るころには空の端が朱に染まり始めていた。
医院の前に着くと、ルゥは薬草の選別のため院内へ、レリーナは三階の自宅へ夕食の支度に向かう。
今夜はルゥを交え、四人で食卓を囲む予定だ。
ミルシャは店の正面入口へ向かい、ドアの取っ手へそっと魔力を流し込む。
アイリスが作った魔道具の鍵は、手ぶらでも開錠できる優れものだ。
――リーン……
「ただいまぁ……」
静かに開いた扉は、鈴の音色でミルシャを迎え入れる。
その柔らかな響きに、ほっと胸をゆるめた。
汚れたジャケットを入口に脱ぎ捨て、短剣を服の上に投げる。
そして、手を洗おうと店の奥に歩き出した――その瞬間。
「お帰りが遅くて、わたくし随分待ちわびてしまいましたわ」
「ヒィッ!」
何の前触れもなく目の前に現れたのは――ヘイゲル公爵家の御令嬢。
「セ、セリア様!?」
――ハグッ!
「ごきげんよう、ミルシャさん。 お会いできて、とっても嬉しゅうございますわ」
「キャアァァァ!」
突然の抱擁。
予想外すぎる展開に、ミルシャは悲鳴を上げてしまう。
「まあまあ、そんなに大きな声を出されるなんて。 わたくし、少し傷ついてしまいますわ」
「ええ!? ほ、本物のセリア様なのですか!?」
「他の誰かに見えまして?」
「で、でも……どうやって中に入られたのですか!?」
「裏口が開いておりましたのよ。 少し不用心ではございませんこと?」
「……あ」
朝の記憶が蘇る。
ルゥに呼ばれ、着替えに戻り、母と話し、ルゥと話し――そのまま出発してしまっていた。
「で、でも、馬車が無いようですが……」
「あなた方のお帰りが夕方になると、ゼル先生から伺いましたの。
けれど、一度屋敷へ戻ってしまうと、また出てくるのが大変でしょう?
ですから、こちらでお待ちすることにいたしましたのよ」
「えっと……それで、今日はどういったご用件で……?」
「まあ、何をおっしゃいますの? 採寸に伺うと申し上げましたでしょう?」
「それって、三日後って申されていたような!?」
「まあ、そうでしたかしら? わたくし、待つのは苦手でしてよ」
その背後から、聞き覚えのある声がする。
「ですから、今日ではありませんと申し上げましたのに」
ミルシャがハグから顔を出すと、以前の執事と、丁寧に頭を下げる侍女が立っていた。
「わたくし、待てませんもの。 ミルシャさんの新しいお衣装……早く拝見したくてたまりませんわ。
それにはまず、わたくしの身体をきちんと図ってもらわなくてはなりませんわ」
「はぁ……」
セリアは微笑む。
その笑みは、夕暮れの光を受けて、まるで宝石のようにきらめいていた。
(本当に……すごい方だわ)
その背後では、執事が深々と頭を下げている。
ミルシャは思わず心の中でつぶやいた。
(執事さんも……ご苦労様です)
「それでは早速、採寸をいたしますので、二階へお越しください」
「ええ、よろしくってよ」
今回はスッと離れるセリア。
その姿はホワイトシフォンのロングドレスを身に纏い、採寸を目的とした軽装で訪れていた。
セリアが優雅に頷くと、後ろで控えていた侍女が一礼する。
身の回りの世話をするために同行するらしい。
執事にはできない領分――三人は軽やかに階段を上がっていった。
「あらあら、まあまあまあ!」
二階に足を踏み入れた瞬間、セリアは目を輝かせた。
そこには、これまでミルシャが作り上げた色とりどりのドレスが、まるで舞踏会でも舞うように優雅に並んでいる。
深い夜の青、春風の緑、星屑の金――どれも前例のない彩りで、見る者の心を奪う。
「ミルシャさん! こちら、すべて売り物でして?」
「え、えぇ……まぁ……ほとんど自己満足の趣味ですけど……」
セリアは無言でミルシャに近づき両肩を掴むと、ズイッと顔を寄せて宣言した。
「でしたら、”全て”わたくしが頂きますわ!」
「えっ!? ま、待ってくださいっ。 寸法が合いません~!」
「そんなことございませんわ!
このマネキンたち、わたくしの体形に似ていると思いません?」
マネキンの隣で同じポーズをとるセリア。 確かに、少しの調整で着られそうだ。
展示用のマネキンは“理想的な体型”で作られている。
つまり――そういうことである。
(釈然としないわ……けど、似合うのは確かよね……)
セリアの髪は赤みがかった金髪であり、ミルシャのレモン色とは異なる。
ミルシャの作るドレスは、どれも彩色豊かであり人目を引くが、明るい髪色ではドレスに負けてしまう。
その場合、髪飾りで目を引くように整えるのだが、セリアの場合は光沢のある主張の強い髪色であり、どんなドレスでも似合いそうだった。
セリアは一着を手に取り、姿見の前で体に当ててはしゃいでいる。
まるで宝石箱の世界に迷い込んだ子供のように。
(凄い人だけど……なんだか癒されるなぁ。 この感覚――どこかで……)
ふと懐かしい気持ちが胸をくすぐる。
「それでは採寸を始めます」
「よろしくお願いいたしますわ!」
すぐに侍女が恭しく一礼し、セリアのドレスを慎重に外していく。
しなやかな体つきは、長く受け継がれてきた名家の風格を感じさせる。
新たな衣を纏えば、きっとその優雅さをさらに引き立てるに違いない。
(セリア様の方がマネキンより少し背が高い……腰の位置が高いから裾を下げて……。
胸はマネキンより……大きい……くっ!)
ミルシャは心の中で敗北の呻きを漏らした。
まだ十五歳なのだから、未来はわからない――そう自分に言い聞かせる。
採寸が終わると、侍女は流れるような手つきでドレスを纏わせ、乱れた髪を美しく整えていく。
「それでミルシャさん。 このドレス達、わたくしの体に合いますの?」
「胸回りと、丈を少し調整すれば問題ありません。
――って! 本当に全部お買い上げなんですか!?」
「あら、当然ですわ。
これだけあれば、何度でも衣装替えできますもの」
「で、では、先日のご注文はご不要に?」
「もちろん、お仕立てをお願いいたしますわ。
こちらのドレスたちも素敵な彩色ですけれど、デザインそのものは“特別”ではございませんもの」
「……かしこまりました。 それで、生誕会はいつのご予定ですか?」
「十日後ですわ」
「……と、十日!?」
声にならない悲鳴が、発した言葉に吸い込まれた。
まだ何も取り掛かっていない状態から十日で仕上げるのは、流石のミルシャも驚きを隠せない。
更には、ここにあるドレスを全て手直ししなければならないのである。
ニコニコ微笑むセリアの前で、冷や汗が濁流のごとく流れる。
「お嬢様」
その時、侍女が初めて口を開いた。
「ミルシャ様のお針仕事は非常に繊細でございます。
一着のお直しに一日はかかるかと」
「あら、そうなの?」
「はい。
そこでご提案なのですが、館に数名の裁縫師を雇い、お直しを分担していただくのはいかがでしょう」
「それはよろしいですけれど、ミルシャさんの才能が露見してしまいますわ」
「はい。 ですが、お嬢様が生誕会でお召しになれば、王都中に広まるのは必至でございます。
その日以降、この色彩が流行となるでしょう」
(ひぇぇぇぇぇぇ……そ、そこまで!?)
「わかりましたわ!
ではミルシャさんには、特別な一着を宜しくお願いいたしますわね」
「は、はい……」
侍女の計らいで最悪の事態は回避できたが、それでも不安が胸の中で渦を巻く。
「ではサリナ。
このドレスたちをすべて持ち帰ってちょうだい」
「かしこまりました。 すぐに館に戻り手配いたします」
「…………」
館がどこにあるのか分からないが、サリナと呼ばれた侍女は静かに一礼し、風のようにこの場を去っていく。
「で、では、下でお茶でもお召し上がりください」
「ええ、是非いただきますわ」
一階へ降りてきた二人を夕光が淡く迎え入れた。
代わって執事がセリアの傍らへと歩み寄り、穏やかな笑みを浮かべた。
「お疲れ様でございました。
なにやら、良い進展があったようですな」
その声音は、まるで古い楽器のように柔らかく響く。
「えぇ、ここは夢の国よ!」
「それはようございました」
ミルシャはセリアをソファへと案内し、自分はキッチンカウンターへ向かう。
執事は立ったまま控えようとしたが、セリアに「お歳なのだから」と優しく諭され隣へ腰を下ろした。
ミルシャは棚からハーブを選ぶ。
心をほどく香り、そしてお菓子の邪魔をしないよう、甘味は淡く風味は強く――。
湯気がふわりと立ちのぼり、ハーブの香りが店内を満たしていく。
「素敵な香りですわ」
「ありがとうございます」
ミルシャは二人の前へそっとカップを置き、熱いハーブティーを冷ますように、ゆっくりと注いでいく。
続けてお菓子を小皿に移して、二人の前に差し出した。
「少々甘く感じるお菓子ですが、薬草の甘みを使用したお菓子です。
ご安心してお召し上がりください」
大人気のミルシャ特製甘いお菓子。
侯爵令嬢ともなれば、甘味など食べ慣れているだろう――そう思っていた。
だが、ひと口食べたセリアの瞳は宝石のようにきらきらと輝いた。
(あ、あれっ!? これ……やっちゃった感じ?)
ミルシャの心が見事に沈む。
あの完璧なプロポーションを保つため、セリアが甘味を控えているのは当然だった。
しかも、薬草を使った体に良いお菓子となれば、セリアにとって罪悪感の無い“神食”である。
定期発注の未来が確定したことは、もはや言うまでもない。
頬を赤らめたセリアは、”つい食べ過ぎてしまいましたわ……”と心の中で呟いているようで、その可愛らしさにミルシャは思わず肩の力が抜けた。
執事まで無言で完食しているあたり、触れてはいけない雰囲気と知る。
そして――。
「ところでミルシャさん」
「はい」
「ドレスの方は、生誕祭までに間に合いまして?」
その声音は、いつもの堂々たる公爵令嬢のそれではなかった。
どこか不安げで、どこか申し訳なさそうで、まるで“無理を言ってしまってごめんなさい”と、言葉にせず伝えてくるような柔らかさがあった。
セリアは、手直しする大量のドレスも、本当はそのまま着て披露するつもりだったのだろう。
それでも、あえて依頼してきたのは、この一着が彼女にとって特別だから。
その想いが、言葉よりも強く伝わってくる。
(……そんな顔をされてしまったら、もう頑張るしかないじゃないですか)
胸の奥でそっとため息をつきながら、ミルシャは苦笑を浮かべた。
その笑みは、困惑と、ほんの少しの嬉しさが混ざり合った淡い色をしている。
「デザインもコンセプトも、すでに形になっています。
あとは生地さえ揃えば、制作はさほど難しくありません。
ですが……」
「何か問題でもございまして?」
「その、生地がまだ整っていないのです」
「生地のことは、わたくしあまり詳しくありませんの」
「今回は少し特殊な生地を探しておりまして……。
明日、手芸用品店を巡ってみようかと」
「心当たりがあるのですの?」
「それは……」
ミルシャは視線を伏せた。
地下で爆光を放った“あの液体”――あれをドレスに仕込めないか、ずっと考えていたのだ。
淡く光を宿す衣。 夜の祝祭で、星々のように瞬くドレス。
ただ液体を染み込ませるだけでは、空気に触れた瞬間に発光して消えてしまう。
だから、細い筒状の繊維の中に液体を閉じ込め、衝撃で割れて光を放つ仕組みを作れないか――そんな、夢のような構造を思い描いていた。
だが、そんな繊維が存在しなければ、夢は夢のまま終わってしまう。
「お嬢様。 もし特別な生地をお探しなら、セルーネの町がよろしいかと存じます」
「セルーネ?」
「はい。 女性の多く住まう町でして、お召し物への拘りは王都をも凌ぐと聞きます」
「まあ、それは素敵なお話ですわね。 ミルシャさん、いかがかしら?」
セルーネ――聖女会の祭服が集う町。
布の質、織りの技、染めの深さ。
どれも王都より進んでいると噂される。
「そう……ですね。
セルーネなら朝一で出れば夜までには戻れますし、王都より良い生地が見つかるかもしれません」
セルーネへの道は、聖女会の影響で王都の大通りのように整備されている。
馬車なら二時間ほどで駆け抜けられるだろう。
「それでは、決まりですわね!」
「はい! ありがとうございます。 明日行ってみます」
ミルシャはぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
「ヨハン、そのように準備なさい」
「はい。 かしこまりました」
「……え?」
ミルシャの胸に、ひゅっと不安が走る。
「あの……セリア様も同行されるように聞こえたのですが……」
「あら、お察しの通りですわよ?」
「!? ……え、ええええええっ!?」
「折角のお出かけですもの。 何を着ていくか迷ってしまいますわ」
「で、ですが! 王太子殿下とのご婚礼を控えたセリア様が、平民の私と出歩くなんて……!」
「まあ、それでしたらミルシャさんのお洋服もご用意しなくてはなりませんわね。
サリナ、明日お忍びでセルーネに参りますから、わたくしとミルシャさんの服を整えなさい」
「はい。 かしこまりました」
「服!? え、服まで!?」
「もう、楽しみでなりませんわ!」
颯爽と現れた侍女長サリナ。
その後ろには侍女たちがぞろぞろと続き、二階へ駆け上がっていく。
ミルシャのドレスを運び出すためだ。
「えっと、それはやっぱり――」
「お嬢様、お迎えの馬車が参りました」
“やめた方がいい”と言いかけたミルシャの言葉を、ヨハンがさらりと遮る。
「まあ、もうそんな時間?
お待ちしていた時は長かったのに、お話していると時間が飛ぶように過ぎてしまいますわね。
でもよろしいですわ。 明日の楽しみができましたもの!」
「いや……ですから……」
「それでは明朝、お迎えに上がりますわ!」
「…………」
ミルシャは、もはや言葉を失っていた。
「それでは失礼いたします」
ヨハンが深く頭を下げて去り、侍女たちが綺麗に畳まれたドレスを運び出していく。
店内は、まるで嵐が過ぎ去った後のように静まり返った。
気付けば、店内の展示ドレスもすべて消えていた。
アトリエの隅では、店主がぽつんと立ち尽くしている。
ミルシャは無言でキッチンカウンターに戻り、ハーブティーを淹れる。
湯気がふわりと立ち上り、心を少しだけ落ち着かせる。
椅子に座り、一口飲んでそっと呟いた。
「どうしてこうなった……」




