公爵令嬢の願い⑦
飛び散った液体は、夜空に散る星屑が地下へ降りてきたかのように壁面へ広がり、淡い輝きは瞬く間に脈動する光へと変わっていった。
揺らめく光は幾重もの影を重ね、洞窟の闇を激しく塗り替えていく。
「光に背を向けて離れるんだ!」
ルゥは反射的にミルシャを抱き寄せ、アイリスとレリーナは眩い奔流から目を守るように手をかざしながら、出口へ向けて慎重に歩を進めた。
――フッ……
世界を満たしていた光が、誰かが蝋燭の芯をそっと摘んだように、唐突に消えた。
「え……?」
四人の視界は一瞬で奪われる。
焼き付いた残像が瞼の裏で白く彷徨い、形を失った影が幽霊のように揺らめいた。
誰も動けず、暫くの沈黙が四人を金縛りにする。
深い闇は静かで、まるで洞窟そのものが息を潜め、彼らを見つめているかのようだった。
「みんな、大丈夫か!」
「問題ありません」
「私も大丈夫です。 ミルシャは!?」
「大丈夫だよ、お母さん」
声だけが頼りの世界で、ルゥはミルシャの手を引き、レリーナのもとへ導いた。
光は消えたが、代わりに鼻をくすぐるような不快な匂いが漂う。
しかしそれもすぐに薄れ、地下は再び幻想的な静寂を取り戻した。
ルゥはミルシャの生成した液体の残滓へ近づき、ランタンの柔らかな灯りで周囲を照らす。
「ただ発光しただけみたいだ……焦げた跡もない」
ミルシャとレリーナもそっと近寄る。
だが、アイリスだけは出口付近から動かず、胸の奥から湧き上がる喜びを抑えきれなかった。
(よくやってくれました、ミルシャ!)
心の中でミルシャを女神と崇める。
ミルシャの“失敗”は、アイリスにとっては待ち望んだきっかけだった。
「魔王様……今のは何なのですか?」
他の三人には届かないほどの微かな声。
それでも、アイリスの願いに応えるように、魔人族の声は自然に脳裏へと響いた。
『精霊術は我の領分ではない。 だが、今の現象から察するに、二つの物質が融合したのち、空気に触れたことで発光したのだろう』
その声音は、長い研究の旅路を歩んできた者の静かな確信を帯びていた。
「空気ですか? でも……」
『気づいておらぬか? 生成した物が宙に浮いている間は、精霊術によって保護されている。
でなければ不純物が混ざり、純度の高い回復薬は作れぬ』
「そうなのですね」
『光量は配合比率によるものだろう。
強い光で短時間か、弱い光で長く続くか――そういった違いだ』
「お詳しいのですね」
『我は魔法の研究に生涯を費やしていた。
似た事象は魔法にも存在する』
「ありがとうございます」
アイリスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
魔人族と語らうためだけに、ここまで同行してきたのだから。
魔人族の声の余韻をそっと整えるように息をつき、アイリスはミルシャへ歩み寄った。
ランタンの灯りが彼女の横顔を淡く縁取り、洞窟の静寂が四人を包み込む。
「ミルシャ、さっきの光ですけど。
私が思うのは、あなたが作った液体は“空気に触れた瞬間”に反応したみたいに見えました。
宙に浮いている間は精霊術によって守られ、不純物が混ざらないようになっていると考えられます」
ミルシャは瞬きをし、アイリスの言葉を逃すまいと耳を傾ける。
「だから、発光した理由は、その保護が解けて空気に触れたためと推測できます」
アイリスはそこで一度言葉を切り、ミルシャの瞳を見つめた。
「流石アイリス! 魔道具師は博識だね!」
「え、ええ……あなたの生成した物は、とても純度が高いのです。
だからこそ、反応も強かったんだと思います」
その言葉は、洞窟の薄闇の中でそっと灯る小さな火種のように、ミルシャの胸へ落ちていった。
その瞬間、ミルシャの瞳の奥で閃光が揺らめく。
「本当にそうなら……空気に触れないように、服の生地に仕込むことができたとしたら……フフフ……」
ミルシャの口元に浮かんだ不敵な笑みは、地下の薄明かりに妖しく揺れる。
「ど、どうしたのミルシャ!?」
「どうやら、アイデアが降りてきたようだね」
レリーナが慌てて声をかけると、ルゥは悟ったように微笑む。
「うんっ! まだ問題はあるけど、ドレスのイメージができたわ!」
「それは良かった。 それじゃ、早く薬草を収穫して戻ろう」
「わかった!」
ミルシャは弾む声で返事をし、周囲に群生する薬草を軽やかな手つきで採り始めた。
その仕草は、見ている者の心まで澄ませていく。
ルゥとレリーナはそんなミルシャに優しい視線を送り、共に薬草を採り始めた。
一方、薬草を見分けられないアイリスは外へ出て、獣が戻っていないか索敵を広げる。
その時――。
アイリスの周囲に、赤い彩りが静かに染まり始めた。
陰樹の闇を染めるように、赤い光がゆらりと揺れ、そこから現れた影はゆっくりと地上へ降りてくる。
その姿を目にした瞬間、アイリスの思考は凍りついた。
伝承で語られる恐怖など、今目の前にある光景の前では霞んでしまう。
もし、纏うオーラが赤ではなく白であったなら、人々は間違いなく彼女を“女神”と呼んだだろう。
『ひと時の対話を願う』
脳裏に響く声に、アイリスは我に返る。
慌てて跪き、深く頭を下げようとした。
『不要だ。 我は幻影――礼儀など意味を持たぬ』
「はい! おおせのままに」
それでもアイリスは深く頭を下げた。
『我は人族と話したことがない。 故に、人族の行動が理解できない。
何故、お前達人間族は、他人の為に行動する?』
「他人の為に……?」
『今回の旅も、自分たちの使う薬草ではないだろう?
我は他人の為に行動することが理解できない』
「ミルシャにしてみれば、自分の回復薬で傷ついた人を癒せるのが、とても嬉しいのだと思います」
『見知らぬ他人を何故助ける? そやつらは我が依り代には関係あるまい』
「それは……そうなのですが」
魔人族の問いは、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも冷たい。
アイリスは言葉を探すが、胸の奥で何かがつかえてしまい声にならない。
『我も人間族の知識を得た。
その中で、我ら魔人族には無いものが存在する。
一つに、魔素から生れ落ちる我らに親族は居ない。
我らにとって同族は、戦って喰らう対象でしかないのだ。
よって、助ける理由など存在しない』
「戦って……喰らう?」
アイリスは自分の耳を疑い、思わず聞き返した。
『そうだ。
我らは同族で殺し合い、勝った者が魔石をえぐり取り喰らう。
それにより、大きな存在となっていく』
淡々と語られるその言葉は、残酷な事実であるにもかかわらず、まるで古い神話の一節のように静かだった。
だが、アイリスの心は締め付けられる。
魔人族は、向き合う相手がたとえ同族であっても、その命を意識していない。
助け合うという概念が、そもそも存在しない。
「……申し訳ありません。
私には、魔王様に納得していただける言葉が見つかりません」
『そうか』
「ただ、もし考えていただけるのでしたら、一言だけ。
人間族はとても弱いのです。
一人では生きていくことは叶いません。
だからこそ助け合い、今を生き抜くのだと……私は心にとどめております」
『理解できぬな。
魔の者は漂う魔素で、永遠の生を約束されている。
我らにとって滅びは、喰われることの他には存在せぬ』
赤い光が揺れ、森の闇が不気味さを増していく。
アイリスはその時、魔人族が恐れられる理由――その真実を、初めて骨の髄まで理解した。
「……一つだけお聞かせください。
魔王様にとって人間族とは、どのような存在なのでしょうか?」
『考えたことはない。
逆に問うが、お前は道を歩くとき、蟻を気にして進むのか?』
「……いえ」
その瞬間、アイリスの胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
蒼白になる彼女の表情に、魔人族の言葉は容赦なく突き刺さる。
全ての答えが、そこにあった。
ミルシャを依り代としている理由は分からない。
だが、それが無ければ魔人族は人間族を“認識すらしない”。
ただの塵芥、ただの風景。
それが魔人族にとっての人間族のあり方なのだ。
「ありがとうございます……」
『まだ、人間族を理解するには程遠いようだ』
魔人族は最後にそう呟き、赤い光を残してふわりと上昇し、陰樹に溶けるように姿を消した。
(理解するには……?)
その言葉だけが、なぜか胸の奥で柔らかく灯った。
冷たいはずの声が、ほんのわずかに温度を帯びていた気がした。
――その時。
地下の穴から、まるで小動物がひょこっと顔を出すように、笑顔のミルシャがぱっと現れた。
「終わったよ~!」
「え、ええ……お疲れさまでした」
魔人族との対話の余韻がまだ胸に残っているアイリスは、ミルシャの無邪気な笑顔にぎこちない返事をしてしまう。
その反応に、ミルシャは首をかしげた。
「ん? 何かあったの?」
「いえ……、追い払った獣たちが戻って来る気配がありますので、少し緊張をしていただけです……」
「そうなんだ。 じゃあ、早く森を出た方がいいね!」
「そうですね……」
ミルシャは何も知らない。
我が身に宿る魔人族がどれほど異質で、どれほど危うい存在なのか。
今回の対話で、アイリスは魔人族の本質を知ってしまった。
全ては依り代――ミルシャのためだけに行動している。
それはつまり、ミルシャに危害が加わると判断された瞬間、魔人族は何の躊躇もなく敵へと変わるということ。
それは親であっても変わらない。
しつけのために振るう拳でさえ、魔人族にとっては“敵意”とみなされかねない。
ずっと抱いていた魔人族への信頼は、今はただただ、不安へと姿を変えていた。
四人は早々に地下の窪地を後にし、来た道をたどって草原へと抜けた。
昼を大きく回った午後二時。
レリーナの提案で、まずは昼食を取ることになった。
森の反対側は広い草原で、風が柔らかく頬を撫でていく。
その場に布を敷き、軽食を並べると、森の中で張り詰めていた空気がふっとほどけた。
自然に惑わされ、珍しい体験もした。
それでも無事に帰路につけたことが、胸の奥に静かな安堵を灯す。
その時――。
盗賊の対処のためにと周囲を索敵していたアイリスが、遠くに揺れる影を捉えた。
「馬車がこちらに向かってきます」
「ホントに!? 乗せてくれるかなぁ」
「荷馬車だと満載かもしれないけれど……。
乗合馬車なら、三の鐘にデュロントを出発した便かな。
その時間の馬車なら席が空いているかもしれないから、御者に交渉してみるよ」
乗合馬車は途中乗車が歓迎される。
出発時の乗客数が少なければ、その不足分を国が補填する仕組みがあるため、途中で乗客が増えれば、その分だけ御者の収入が増えるのだ。
国が認めた合法の稼ぎ方である。
「索敵っていいなぁ~。 あたしも使えたらいいのに」
ミルシャが羨ましそうに呟くと、レリーナがふと微笑んだ。
「あら? あの人が言っていたけれど、索敵が一番優れているのは水の精霊使いだそうよ?」
「ええ!? そんなの聞いてないよ!?」
「そうなの? ミルシャも患者さんを診るとき、精霊術で体を見ているでしょう?」
「――あ」
「その精霊術を使えば、近くに潜む人を索敵できるんじゃないかしら」
「そっか……考えたこともなかった。
でも、人を診断するときって、体だけに集中しないと見通せないの。
周囲にいる複数人を見通すなんて、とてもじゃないけどできないわ」
「他にやり方があるのかしら」
「どうかなぁ……」
そこでルゥが、そっと会話に割って入った。
「それって、もしかしたら精霊の加護かもしれないね」
「ああ、ルゥとアイリスが迷宮で使っていたやつ?
どうすれば使えるの?」
「強く念じるだけでいいんだ。 特別難しいことはないよ。
精霊の加護が“索敵”であると理解し、迷いなく強く念じる。
索敵なら長時間術を使う必要もないと思うけど……」
「やってみる!」
ミルシャは勢いよく立ち上がり、すぐに精霊術を使おうとした。
「待ってミルシャ! ここでは危険です!」
「え?」
アイリスが慌てて止める。
「貴方もルゥが倒れたのを見たでしょう?
精霊の加護はとても強力ですが、長く意識を保っていられないのです。
今ここで何かあると大変ですから、使うときはゼル先生の指示のもと、注意して使用した方が安全です」
「う、うん。 わかった……」
「帰ったらお父さんと相談ね」
「うんっ!」
そんな会話をしていると、アイリスが索敵した馬車が蹄の音を響かせながら近づいてきた。
四人は広げた荷物を纏めると、急いで道に出て馬車を待つ。
予想通り乗合馬車だった。
ルゥが御者に交渉すると、空席は二つしかなかったが、御者の配慮で一人は御者席に座らせてもらえることになった。
そしてもう一人は、荷台にもなる屋根に乗ってもいいと言われ、一番軽いミルシャが喜んで御者席からよじ登って座った。
御者席にはルゥが座り、馬車は王都へ向けて、ゆっくりと、しかし確かな速度で走り始めた。
草原の風が頬を撫で、深き森の影が遠ざかっていく。




