公爵令嬢の願い⑥
森に入って一時間。
デンスの森は、昼であることを忘れさせるほど深い影を湛えていた。
高く伸びた陰樹が空を覆い、陽光はほとんど地表に届かない。
そのため、足元には草花よりも柔らかなコケが広がり、倒木や岩肌にしっとりと絡みついて、歩く者の足をそっと奪う。
前回訪れた森では、カイが草木を切り払って道を作ってくれた。
逃げるときも、その道が神の道標のように導いてくれた。
だが、この森に残るのはコケに刻まれた淡い足跡だけであり、咄嗟の逃走には心もとない。
だからこそ、最後尾のルゥは短剣で木の皮を削り、帰り道の印を静かに刻みながら進んでいた。
アイリスの索敵があれば戻れる――それでも、森は油断を許さない。
「まだ遠いの? 暗いし歩きにく~い」
寝不足のミルシャが、半ば泣き言のように声を漏らす。
「もう少しです」
「う~……」
「ミルシャはこの森は初めてかい?」
「うん。 薬草は依頼のついでに採ってたけど、薬草目的で森に入るのは初めてかも」
ルゥは歩きながら森の仕組みを語る。
沼地が点在し、湿気が多く薬草が育つには理想の環境。
だが同時に、迷いやすく獣も多い。
コケが足音を吸い込み、夜目の利く獣の気配を消し優位になる。
そんな説明を聞いていると――ふいに、前方が眩しく開けた。
暗黒の森に慣れた目には、その光景はまるで天の裂け目のようだった。
四人は思わず目を細め、光のオアシスへと足を踏み入れる。
舞う蝶が陽を受けて揺らめき、花々は色を奏でるように咲き誇る。
静寂と光の反射が混ざり合い、そこはまるで彷徨う者を天へ導く聖域だった。
「綺麗!」
ミルシャが歓声を上げ駆け出そうとした瞬間、ルゥが慌てて腕を掴む。
「駄目だよ。 ここだけ開けてるってことは、下は深い沼地だと思う」
「え、そうなの? 花の上に寝そべってみたかったなぁ~」
「生えてる植物も、水辺のものばかりだよ」
「そっかぁ……残念」
ミルシャが小石を蹴ると、草に跳ねて力を失い”ぽちゃん”と水音を立てた。
「本当だ、下に水がある」
「うん。 ここからは慎重にいこう」
「わかった!」
ミルシャが笑顔で答えると、アイリスが静かに提案する。
「いつもでしたら、ルゥの火球で轟音を響かせて、カイが石つぶてを撒いて獣を追い払うのですが……今回はカイがいません。
ですので、火球に合わせて風を起こしますから、ミルシャはその風に水玉を乗せてください」
「水玉で効果あるかな?」
「細工はします。 驚かすだけなら十分です」
「やってみる!」
ミルシャは胸の前で両手を握り、“やる気”のポーズを決めてみせた。
僅かな湿地の光がその瞳に反射し、まるで小さな精霊が宿ったように輝いていた。
「じゃ、始めるよ。 アイリス、風の防御を頼む」
「はい」
アイリスがそっと目を閉じ手を掲げると、周囲の空気が微かに震え、風が彼女の指先へ寄り添うように集まる。
上空からの爆風に備え、透明な風の壁が展開されてゆく。
ルゥはその壁を感じ、アイリスと目を合わせて頷く。
「念のため耳を塞いでおいてくれ」
ミルシャが慌てて耳を覆い、アイリスとレリーナもそれに続く。
湿地の静寂が、ひと呼吸だけ深く沈んだ。
「いくよ」
沼地の中央に生まれた火球は、ルゥの手の動きに合わせて天へと駆け上がる。
――ヒュウゥゥゥ……ドォーン!
木々を越え、森の天蓋を突き抜けるように昇り、彼が手を握った瞬間、火球は轟音と共に弾け激しい波動が森を震わせた。
「キャアァァァ!」
レリーナが悲鳴を上げる。
風の防御があっても、天から降り注ぐ圧は魂を揺らすほど強い。
ミルシャはレリーナの手を握り、爆風が静まるのを待った。
「アイリス、ミルシャ、頼む」
「うん!」
「任せてください」
二人は同時に精霊術を展開した。
アイリスは上空から風を呼び寄せ、自分たちの頭上で流れを分岐させる。
風はまるで舞台の幕を開くように広がり、その中へミルシャが大粒の水滴を生み出す。
水滴は風に乗り、アイリスの術が触れた瞬間――断熱膨張が起こり、水は一瞬で氷へと変わった。
風に舞う氷つぶては、アイリスの索敵に映る獣たちへと飛び、ルゥの轟音に怯えた獣の身体に触れて砕け散る。
粉々になった氷片が獣の体温を奪い、未知の冷たさに獣たちは恐怖し、風下へと逃げ去った。
氷つぶては次々と舞い、数分のうちに半径一キロの獣たちを外へと追いやった。
「ミルシャ、もう水滴はいいですよ。
獣たちは逃げました。 暫くは戻ってきません」
「うん! じゃあ次は薬草を探すね~」
「頼むよ」
「わかった!」
ミルシャは水の生成を止め、静かに目を閉じて周囲の“水の気配”を探る。
小川のせせらぎ、浅い地下水脈のさざめき、そして植物の導管を満たす細い水の息づかい。
その中に含まれる成分の“味”――精霊術が彼女にそれらを伝える。
甘い、苦い、渋い、そして”毒”の棘のような刺激。
森の声が、彼女の感覚へと流れ込む。
それは決して苦痛と感じるものではなく、感じた記憶としてミルシャに伝えてくる。
やがてミルシャは目を開き、指先である一点を示した。
「こっちの方角――百メートルくらいの場所に、薬草がたくさん自生してるわ!」
全員がそちらを向く。
「よし、行こうか」
「うん!」
湿地の光を背に、四人は苔の柔らかな地を踏みしめて進む。
百メートルという距離は、この森ではまるで“揺らぐ幻”のように感じられる。
ミルシャは歩きながらの探索ができないため、一定の距離ごとに立ち止まり、再び水の声を聞く必要があった。
それは、この世界があらゆる”水”で満たされているためであり、それら全てを移動しながら脳裏に書き換えられていくのは、精神的な負担がとても大きくなってしまう。
ルゥはミルシャの負担を減らすため、自分の歩幅から距離を割り出し、慎重に薬草の場所へと進んでいく――しかし。
「何もない……」
「え?」
ルゥは立ち止まり、前方を見渡した。
薬草どころか、地面を覆うのは絨毯のようなコケだけ。
その上に、湿った木々が静かに影を落としている。
「そんな……」
ミルシャは驚き、再び精霊術で探索を試みる。
だが――その結果は、更に彼女を困惑させた。
「ある……はずよ。
確かに、ここに沢山の薬草を感じるもの……」
精霊術での探索が外れたことは一度もない。
けれど、目に映る景色に薬草はない。
ミルシャは、見える世界と感じる世界の矛盾に心を揺らされていた。
「な、なんで……?」
ふらふらと歩き出すミルシャ。
その肩を、レリーナがそっと掴む。
「待って、ミルシャ。
最初の探索で、薬草は窪地に密集してるって言ってたわよね?」
「……あ」
ミルシャの瞳が揺れ、ハッと気づく。
ルゥはすぐにしゃがみ込み、地面を慎重に探った。
苔は踏んでも押しても同じ感触――だが、幾度か場所を変えた瞬間。
――ミシッ……
「……!?」
微かな違和感が、ルゥの指先に伝わった。
「アイリス。
剣でこの辺りの地面を斬って欲しい。
どうやら、この下に空間があるみたいだ」
「!?」
「はい」
見た目は他と変わらない苔の地面。
しかし、ルゥは確かに“空洞の気配”を感じていた。
アイリスはレイピアを一本抜き、風の精霊を呼び寄せる。
細身の剣に風の刃が纏わりつき、透明な光の線が剣先に宿った。
――シュッ。
力を入れず、地面に円を描くように剣を走らせる。
すると、斬られた苔の円はふっと沈み、そのまま下へ落ちて消えた。
「やっぱり……下に空間があるんだ」
「何故、わからなかったのかな……」
「仕方ないよ。コケも植物だからね。
水の流れを探索してるんだから、こういうこともあるよ。
最初に探索した場所は、蓋がされていない窪地だったのだと思う」
「うん……でも、それならどうしてこんな空間ができたの?」
「想像だけど、この穴にも水が溜まっていたんだと思う。
倒木や枝で膜ができて、何らかの理由で水が抜けた。
その上にコケが密集して、長い年月で見えなくなったと考えられる」
「そっか! お母さん、ありがとう」
「うふふ」
ミルシャは胸を撫で下ろし、窪地のことを思い出してくれた母に礼を言った。
「まず僕が入るから、問題なければ声をかけるよ」
「うん。気を付けてね」
「ああ」
ルゥはランタンを穴へ垂らし、しゃがんで内部を覗き込む。
「……ん?」
中を覗き込んだルゥの表情が違和感に曇る。
「どうしたの?」
「いや……とにかく入ってみるよ」
「うん」
ランタンの光が揺れ、穴の内部を照らす――その瞬間、ルゥは違和感の理由を知る。
慎重に片足を入れ、地面がしっかりしているのを確かめてから、ゆっくりと身体を沈めていく。
「………」
ランタンを傾け、内部を照らす。
揺れる光が壁に反射し、まるで地下が生きているように見えた。
「ねぇ……大丈夫?」
心配になったミルシャが覗き込む。
その声が、穴の奥で微かに反響した。
「ああ、大丈夫だ。 危険な生物はいない。
中は広くて普通に立って歩けるよ。
ただ、入って数メートルは傾斜になっているから、滑らないように注意して入ってきてくれ」
「うん、わかった。 ランタンの灯りで照らしててね」
「いや、その必要はない」
「え?」
「ゆっくり、入ってきてごらん」
「う、うん……」
ミルシャはルゥと同じように足を先に入れ、しゃがむようにして地下へと降りた。
湿り気はあるものの、地面は意外なほど固く、森の道と変わらない感触だった。
垂れ下がる木の根が影を落とし、暗いはずの地下は――なぜか、明るかった。
「え? な、なにこれ!」
ミルシャは思わず声を上げる。
地中にいるという事実を忘れるほど、そこは幻想的な光に満ちていた。
「なんでこんなに明るいの!?」
声を聴いたアイリスとレリーナも後に続き、地下へ降りてきた瞬間、息を呑んだ。
そこには、淡い緑光が洞窟全体を照らす世界が広がっていた。
「これは……夜光茸だと思うわ」
レリーナが静かに言う。
ミルシャは光の海に吸い込まれたように、目を輝かせて茸を見つめた。
「光る茸なの!? ヒカリコケみたいに!?」
「コケは僅かな光を吸収して光っているけれど、茸は自分で光っているそうよ」
「魔素が関係して光るの?」
「詳しくは分からないけど、魔素が関係しているなら光魔法かしらね。
ミルシャなら、光っている物質を調べられるんじゃないかしら?」
「そっか! うん、やってみる!」
ミルシャは当初の目的を忘れ、夜光茸の光に心を奪われていた。
すぐに精霊術で成分を探り始める。
「ん~……毒は無いみたいだけど、念のため触らない方がいいかな。
光る理由は……二つの成分が合わさって光る――のかな?
魔素が関係してるかは分からないけど、この二つの成分なら生成できそう……」
ミルシャは両手を前に出し、夜光茸の成分を精霊術で生成する。
左右の掌の上で、液体がくるくると浮かびながら円を成す。
「配合が分からないけど、合わせたら光るかな?」
そう言いながら、生成した二つの液体をゆっくり混ぜ合わせる。
「ん~……光らないね」
茸の中で起きているはずの、二つの成分の融合。
それを再現しても、液体は光を宿さなかった。
「ランタンの代わりになるかなって思ったんだけどなぁ、残念!」
「他に何か条件が必要なのかもしれない。
少し持って帰って、家で調べてみるのもいいかもしれないよ」
「うん!」
ルゥの提案に、ミルシャは鞄から小瓶を取り出そうと、生成した液体を離れた壁へ投げた――その瞬間。
――パアァァァ!
液体がミルシャの意識から離れ、地面に触れた瞬間に液体が光り出し飛散すると、地下空間を昼のように照らし始めた。
「えええ!? どういう事!?」
ミルシャは目を丸くし、光の奔流に呑まれた。
その明るさは、夜光茸の淡い光とは比べものにならない。
生成した液体は、まるで太陽の欠片のように輝き、地下の闇を一瞬で塗り替えていった。




