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公爵令嬢の願い⑤

※今回は挿絵が入っておりません

 王都の朝は、いつだってパンの香りから始まる。

 麦の国らしい素朴な匂いが、まだ薄闇の残る街路にふわりと漂い、眠りの残滓をそっと撫でていく。

 忙しない朝に手の込んだ料理を作る余裕はない。

 だからこそ、前夜に焼いたパンにチーズや卵を落とし、軽く炙るだけの簡素な食卓が、この国の人々の“いつもの朝”だった。

 その習慣に目を付けたのが、王都のパン屋たちである。

 彼らは夜の深い底から仕込みを始め、一の鐘が鳴る朝六時と同時に扉を開く。

 焼きたての香りと、玄人の手が生む柔らかな食感。

 そこに香り高いハーブティーがあれば、たとえ短い時間でも、誰もが少しだけ優雅な朝を演出できた。


――リーン…リーン…


 その日、ルゥは鐘が鳴るよりも早く、医院の裏口に立っていた。

 薄明の空気は冷たく、肌に朝露が纏わりつく。

 彼は三階の住居へ続くドアチャイムを押し、静かな建物に小さな音を響かせる。

 いつもなら、合鍵を持つルゥが誰よりも早く医院に入り、待合室の掃除をしている時間だ。

 だが今日は医院は休み。

 彼がここに来た理由はただひとつ――自宅にいるミルシャを迎えに来たのだ。


――ガチャ。


「あら、ルゥ君? おはよう」


 扉の向こうから現れたのはレリーナだった。

 柔らかな寝起きの気配をまといながらも、彼女の微笑みはいつも通り穏やかだ。

 ミルシャが朝に弱いことは、もう誰もが知っている事実だった。


「おはようございます。 レリーナさん」


 ルゥが頭を下げると、レリーナは不思議そうに首を傾げる。


「どうしたの? こんなに早く」

「昨日、薬草の在庫が少ないようでしたので採取に行こうと思いまして。

 もしミルシャが良ければ、手伝ってもらえないかなと思ったんです」

「そうね。 ミルシャがいれば、すぐ終わるものね」

「はい」


 レリーナは少し困ったように眉を寄せた。


「でもごめんなさい。 昨日は家に帰っていないみたいなの。

 たぶんアトリエに泊まり込んでるわ。 行って起こしてあげて」

「わかりました」

「よろしくね」


 ルゥは軽く会釈し、まだ眠りの残る王都の路地へと向きを変える。

 医院とミルシャのアトリエは、裏口同士が向かい合うように建てられている。

 振り返ればすぐそこに、彼女の創作の巣――夜の魔法がまだ溶け残るアトリエの扉があった。


 ルゥはドアに付いた鉄製のリングを握り、少し強めにノッカーを叩く。


――コンコン!


 金属が触れ合う冷たい音は、木の扉に吸い込まれ、甲高いのにどこか温かい響きへと変わる。

 小さなアトリエの内部へは、この音だけで隅々まで届くはずだった。


――だが、返事はない。


「また徹夜して、生地に包まって寝てるのかな……」


 ミルシャの“得意技”。

 デザインに行き詰まると、生地を体に巻きつけ、まるで繭のように床で眠ってしまうのだ。


――ゴト……ガタンッ!


「あいたたた……」


 ルゥの立つ位置より少し高いところから、何かが崩れ落ちるような音と、悶絶する声が降ってきた。


「……ん、んん……だ、誰……?」


 ぎぃ、と扉が開く。

 そこに立っていたのはミルシャ――のはずなのだが。


「おはよう……ルゥ……」


 目の下には見事な黒いクマ。

 髪は寝癖で跳ね、服は糸くずまみれ。

 まるで“命を宿したドレス”と死闘を繰り広げ、敗北した後のような姿だった。


「徹夜したのかい?」

「徹夜というか……新しい衣装のデザインが降りてこなくて……」


 ぽそりと落ちる声は、今にも眠りに溶けてしまいそうだ。


「いつもは閃いてから作り始めるのに、何もないところから考えるなんて珍しいね」

「ん~……ちょっと貴族様から誕生日のドレス頼まれちゃって……

 一向に切っ掛けがつかめ――ふわぁぁぁ……むにゅむにゅ……」


 ドアに寄りかかったまま、ゆっくり沈んでいくミルシャ。

 ルゥは慌てて扉を押さえ、片手で彼女を支える。


「一度帰って寝た方がいいよ」

「ん~……ルゥは何しに来たの~……?」

「薬草が少なくなったから、デンスの森に採取に行こうと思って誘いに来たんだ」

「わかったぁ~……すぐ用意する~……」

「寝ないで大丈夫かい?」

「デンスなら~……デュロントの港町行きの馬車でしょ~?

 仮眠できるから大丈夫~……」


 そう言うと、ミルシャはふらふらとルゥの腕から離れ、自宅の部屋へ向かっていった。


「ちゃんと準備できるかな……」


 部屋に入った瞬間に寝てしまうのでは、とルゥは不安になる。


――しかし数分後。


 裏口の扉が開き、そこから出てきたのは、旅支度を整えたレリーナと、同じく準備を終えたミルシャだった。


「レリーナ……さん?」

「さあ、行きましょう!」

「え?」

「お母さんも行くんだって。 いいでしょ?」


 突然の同行宣言に、ルゥは目を瞬かせる。


「それは有難いですが、家を空けてもいいんですか?」

「あの人がお留守番しているし、急患には対応できるから大丈夫よ!」

「それならいいのですけど……」


 その“お留守番のゼル”はというと。 自分も行くと主張したものの、レリーナに「急患の対応してね」と言われ、一人寂しく自宅で号泣していた。

 先日の一件以来、ゼルもレリーナも、ミルシャの動向に気が気でない。


――謎はまだ解決していない。


 ルゥと一緒とはいえ、目の届かない場所へ行かせるなど到底できるはずがなかった。

 その気持ちを悟ったルゥは、柔らかく微笑んで頷いた。


「わかりました。 四人ならさらに早く採取できますから、よろしくお願いします」

「――四人?」


 ミルシャは瞬きをしながら周囲を見渡した。 だが、そこにいるのは三人だけ。


「どういうこと?」

「馬車乗り場でアイリスと落ち合うんだ。

 デンスの森は暗くて見通しが悪いから、索敵を頼んで了承してもらった。

 その時にアイリスが、ミルシャも誘ったらって言ってくれたんだ」

「そうなんだ。なら、獣対策も安心だね!」


 もちろん、アイリスがミルシャを勧めた理由は――別にある。

 パーティが解散してしまった今、魔人族と対話できる切っ掛けは皆無に等しかった。


「そういう段取りですので、レリーナさん、よろしくお願いします」

「ええ、よろしくね、ルゥ君」

「それじゃ、行こっ!」


 ようやく意識がはっきりしてきたミルシャの声を合図に、三人は歩き出した。


 王都から北東へ向かう馬車は、朝の光を浴びて石畳を軽やかに走る。

 ミルシャとレリーナは並んで座り、向かい合わせにルゥとアイリスが座った。


 この国には、国が管理する乗合馬車がある。

 毎日“時の鐘”と同時に出発し、空席があっても時間通りに走り出す。

 王都からは四つの町へ同時に馬車が出るが、四人が乗ったのは東端の港町――デュロント行きだった。


 目的地はその途中、一時間ほど先にあるデンスの森。

 あらかじめ、森の前で下ろして貰えるように御者に頼んでいた。


 すると、出発して五分も経たないうちに、ミルシャは馬車の揺れに負けて眠りに落ちた。

 二人掛けの椅子に横になり、レリーナの膝に頭を預け、猫のように丸くなって寝息を立てる。

 レリーナは娘の髪を優しく撫でていた。


 だが、その表情には微笑みがなかった。


「ねぇ、ルゥ君、アイリスちゃん……この子、辛い思いをしてない?」


 視線を向けることなく、レリーナはぽつりと呟いた。

 その声は、母親だけが持つ“勘”の重さを帯びていた。


 ルゥとアイリスは顔を見合わせ、静かに頷き合う。

 そして、アイリスが口を開いた。


「先日のことがあった後では……何と言っていいのか、言葉が見つかりません。

 事実、何度も危うい場面に遭遇しました。

 でも、それを跳ね返して無事に戻ってこられたのも……全部、ミルシャのおかげです」

「そう……」


 レリーナの指が、眠るミルシャの髪をそっとすくう。

 その仕草は、まるで壊れやすい宝物を扱うようだった。


 馬車の揺れは穏やかで、外の景色はゆっくりと流れていく。

 レリーナはミルシャの髪をそっと指ですきながら、静かに目を閉じた。


「……あの日以来、この子は自分の感情を表に出さなくなってしまったの」


 馬車の揺れが、彼女の声を柔らかく震わせる。


「普段は笑顔を見せてくれるけど……ソラが居なくなる前に見せてくれていた、あの微笑みは……一度も見せてくれないの。

 この子は心を閉ざしたまま、今も開けられずにいる。

 私もゼルも、その鍵を探して……ずっと彷徨っているの」

「レリーナさん……」


 ルゥは息を呑んだ。

 初めて知る“母の痛み”が、胸の奥に重く沈んでいく。


「ソラを亡くした時、私はゼルを恨んだの。

 ――ううん、“恨む”という言葉に、悲しみの怒りを押し付けたかっただけ。

 私がソラをちゃんと見ていれば……それを忘れたかったのよ」


 レリーナの指が、眠るミルシャの髪をそっとすくう。

 その手は震えていた。


「そんな私を見て、ミルシャはずっと私の腕の中に居てくれた。

 五歳の娘に……私は救われたの」


 馬車の窓から差し込む光が、ミルシャの頬を淡く照らす。

 その寝顔は穏やかで、けれどどこか儚い。


「でもね……それがミルシャの優しさだったと気づいた時、同時に“異変”にも気づいてしまった。

 どんなに笑っていても……瞳から今にも涙が溢れそうな――そんな悲しい笑顔になっていたの」


 ルゥもアイリスも、言葉を失っていた。

 慰めの言葉など、あまりにも軽すぎる。


「そんな時、ソルシャさんが言ったの。

 “ミルシャの闇は深い。 目を離してはダメだ”って」


 レリーナは小さく息を吐いた。


「それを痛いほど知っていたはずなのに……私もゼルも、その言葉を忘れてしまっていた。

 今回のことで、思い知らされたわ。

 この子を失ったら……きっと私は正気でいられない」


 馬車の中に、深い沈黙が落ちた。

 ただ、車輪の音だけが遠くで響いている。


 そして――


「だから……結婚したら私もついて行くから、よろしくね――ルゥ君!」


「……え?」


 あまりにも急な方向転換に、ルゥの思考が一瞬止まった。

 その瞬間、外から御者の声が響く――。


「途中下車のお客さーん! デンスの森に着いたよー!」


 そして馬車が静かに止まる。


「ミルシャ、着いたわよ。 起きて」

「ふぁ……? あ~、うん……わかった……」


 ミルシャは目をこすりながら起き上がり、短剣とベルトポーチ、薬草袋を手に取る。

 ルゥは先に降り、ミルシャの手を取ってエスコートし、続いてレリーナにも手を差し出した。


「ありがとう」

「はい」


 四人が降りたのを確認すると、御者は帽子を軽く上げ、馬車を港町へと走らせていった。


 デンスの森には停留所がない。

 帰りは徒歩で三倍の時間をかけて戻るしかない。


「帰りの時間を考えると、四の鐘までには帰路につきたいかな」

「じゃ、さっさと済ませて、皆でハイキング気分で帰ろう!」

「ああ、そうしよう」


 ミルシャの明るい声に、三人は自然と笑みを返した。


「私は索敵をしますから、ミルシャは薬草の群生地がないか探してみてください」

「うん、わかった!」


 ミルシャはすぐに精霊術を発動させ、細かな光の粒――霧のような光を周囲に散らす。

 アイリスも風の精霊を呼び、花びらと葉が舞うような索敵を始めた。


 風と水が混ざり合い、森の入口に淡い光の渦が生まれる。

 その渦が徐々に広がり始めると、暗い森の中がほんの少し明るくなった。


「大型の獣はいませんが、猪や野犬はいます。 森の中で追い払った方がいいです」

「森の中に広い場所はあるかい?」

「一キロほど先に、湿地帯と思われる空間があります」

「じゃあ、そこを起点にしよう。 ミルシャ、薬草は?」

「密集はしてないけど……魔素の溜まる窪地に、そこそこ生えてるみたい」

「十分だよ。 ありがとう」

「えへへ……」


 ミルシャは術を解き、少し照れたように笑った。


「アイリス、その場所に案内してもらってもいいかい?」

「もちろんです。 草木の少ない場所を通って行きましょう」

「助かるよ」

「それでは――」


 アイリスは腰の剣を抜き、森の中へと足を踏み入れた。

 その後を、ルゥ、ミルシャ、レリーナが続く。


 朝の光が森の奥へ吸い込まれ、影が深くなる。

 四人の足音だけが、静かな森に溶けていった。

 最後までご覧いただき、心より感謝申し上げます。

 挿絵は後日生成して挿入いたします。


 これまでの物語をゆっくり振り返っていただけますよう、投稿した挿絵をXにて保存しております。

 絵を眺めるだけで物語の情景がふっと蘇るような、そんな時間をお届けできれば幸いです。

 どうぞ、ごゆっくりご覧ください。

 https://x.com/ocarina_quartet

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