公爵令嬢の願い④
突然の訪問に驚いたミルシャは、足をもつれさせて階段を踏み外し、そのままペタンと床へと座り込んだ。
暗がりに慣れた瞳が、差し込む光に焼かれるように眩しさを訴え、彼女は思わず手で目元を覆う。
指の隙間から覗いた入口には、光を背負った影がひとつ、ゆっくりと形を帯びていく。
やがて視界が澄み、輪郭が色を取り戻した瞬間――ミルシャは息を呑んだ。
声を出すことすら忘れ、ただその場に座り込んだまま見上げるしかなかった。
「まったく! 毎日足を運んでおりますのに、開いていないお店だなんて……どういうおつもりですの!?
店内が真っ暗でしたから、危うく通り過ぎてしまいましたわ!」
入ってくるなり、澄んだ声で不満を告げるその女性。
まるで舞踏会の余韻をそのまま連れてきたかのように、煌めくアクセサリーが揺れ、光を散らす。
年頃はミルシャと大差ないはずなのに、纏う気品はまるで別世界のもの――優雅さと高貴さが、ひとつの絵画のように調和していた。
その姿は、一流の画家が魂を込めて描いた肖像画のようで。
ミルシャはただ、胸の奥が震えるほどに見とれてしまうのだった。
呆然と座り込むミルシャに、ついにその女性が気付いた。
「まあ……あなた、こちらのお店の方かしら?
店主を呼んでくださいます?」
その声は澄んだ鈴のようで、歩みは絹の裾が風に流れるようにしなやか。
女性はまるで空気すら従わせるような優雅さで、すっとミルシャへ近づいてくる。
「え? あ、えっと……」
「聞こえていらっしゃらないの? わたくし、店主にお会いしたいのです。
よろしくて?」
「あ、はい! すぐに!」
迫力というより、気品そのものに押し負けたミルシャは、慌てて立ち上がり、階段へ駆け出そうとする。
だが、足が一段目に触れた瞬間、ふと脳裏に霧がかかった。
(あれ……? あたし……店主……だよね?
え、ちょっと待って……あたしって……)
考えれば考えるほど、思考は糸のように絡まり、ほどけなくなっていく。
自分が誰で、どこに立っているのか――その当たり前すら揺らぎ、ミルシャは胸の奥で小さく迷子になった。
「お嬢様」
低く落ち着いた男性の声が店内に響き、ミルシャの意識はふっと現実へ引き戻された。
「こちらのお店は、店主様お一人で切り盛りされていると伺っております。
ゆえに、そちらのお方こそ店主様かと」
「あら、そうでしたの? なら、最初からそう言ってくださらなくて?」
「え、あ、はい!
あたし……いえ、私がこの店を経営しておりま――すうっ!?」
――ハグッ!
「ええ!? ちょ、ちょっと、いきなり何を……!?」
言葉を終えるより早く、女性は風のように距離を詰め、満面の笑みでミルシャを抱きしめた。
その腕は細いのに驚くほど力強く、香り立つローズの香水がふわりと鼻先をくすぐる。
「やっと……やっとお会いできましたわ!
この喜び、どう表現すればよろしいのでしょう!」
「え、え、え!?
な、なに? どういうことなのぉ……?」
状況が理解できず、ミルシャの思考は完全に混線していた。
「お嬢様。 そのようなことは、ご挨拶をなさってからの方がよろしいかと。
まずは、お放しください」
「いやですわ」
「なぜ!?」
「このままお話いたしましょう」
「そ、それはさすがに……!
あの、ドレスが汚れてしまいますぅ!!」
「かまいませんわ」
「かまってください!!」
「ええ! 喜んで!」
言葉の意味を華麗に取り違え、さらにぎゅうっと抱きしめるお嬢様。
「あわわわわわ!」
「お嬢様。 店主様が苦しんでおられます」
「あら、それはいけませんわね」
――ドスン!
ぱっと手を離された瞬間、ミルシャの身体は半ば宙に浮いたまま落ち、床に尻もちをついた。
「いたた……」
お尻をさすりながら、ミルシャはなんとか立ち上がる。
すると彼女は、驚くほど柔らかい仕草でスカートの端をつまんで小さく会釈した。
「ごきげんよう。 わたくし、セリア・リルス・ヘイゲルと申しますの。
今日は新しいドレスをお願いしたくて参りましたわ」
声は明るく澄んでいて、貴族特有の気取りよりも、相手を安心させる温かさが勝っている。
名乗ったあと、セリアは優しく手を振り笑みを深める。
「ヘイゲル様? あれ、どこかで聞いたような……え、え、えっ?
公爵家の御令嬢様!?
ちょ、ちょっと待ってください、わたし今なにか失礼なこと……!」
ミルシャの声は裏返り、肩が跳ねる。
「どうかお気になさらなくてよ。 堅苦しいのは性に合いませんの。
こちらのお店が素敵だと伺って……ずっと、訪れてみたいと思っておりましたのよ」
柔らかな声音でそう告げると、セリアは店内のドレスや装飾品をゆっくりと見回した。
宝石箱を開けた子どものように瞳を輝かせながらも、その仕草の一つひとつには、育ちの良さが自然と滲み出ている。
「セリア様って確か……ケイト王太子殿下のご婚約者だったような……」
「まあ、よくご存じで。 ええ、その通りですわ。
近々、わたくしの誕生会が催されますの。
その最後のスピーチで――貴方のドレスを纏い、ケイト様と共に婚礼の儀を発表いたしますのよ」
スゥ……と、ミルシャの血の気が引いていく。
「む、無理です! 公爵令嬢様のお誕生会のドレスなんて!
まして王太子殿下と並ばれる時の衣装なんて、私には……!
今のお召し物でさえ、見惚れてしまうほどの完成度なのです!」
悲鳴のような声で、ミルシャは涙目になりながら必死に取り下げを願う。
しかしセリアは、ふっと微笑んだ。
その笑みは、春の風が花弁を揺らすように優しく、けれど揺るぎない。
「まあ……わたくし、こうした“整いすぎた普通”のドレスには興味がありませんの。
店主――わたくしが纏いたいのは、貴方の心が宿ったドレスですわ。
貴方の手で生まれた一着を纏い、あの場に立ちたいの」
その声音は、命じるのではなく願うように。
けれど、公爵令嬢としての気品と想いが、ひとつの言葉の裏に静かに息づいていた。
「そ、そうは申されましても……」
「それに……」
ミルシャが言い淀む間に、セリアはふと視線を滑らせ、店内のドレスの中から一着を選び取った。
淡い光を受けて揺れる布地を、まるで恋人を抱くようにマネキンごと抱き寄せ、自身の身体にそっと重ね合わせる。
「ご覧あそばせ? このデザイン……お抱えの洋裁師では到底、形にしてはいただけませんのよ?」
そのまま、マネキンと優雅にステップを踏み始める。
裾がふわりと舞い、彼女の金の髪が光を散らす。
まるで舞踏会のワルツを一人で再現しているかのようだった。
「そ、それは恐らく……足が出ているのを気にされて……」
「それですの!」
セリアはぴたりと動きを止め、ぱちんと指を鳴らすような勢いで振り返った。
「足の見えるドレスははしたない、と皆様おっしゃいますけれど……では、なぜ皆様は、あれほどまでに足を細く見せる鍛錬をなさるのかしら?」
「は、はい!?」
「折角の美脚を披露できないなんて、わたくしには到底受け入れられませんわ!
美しいものは隠すためにあるのではなく、魅せるためにあるのでしょう?
そう、思われますわよね?」
「は、はい!」
もはやミルシャは、勢いに押されて返事をしているだけだった。
“足を細く見せる鍛錬”など聞いたこともないのに、気圧されて頷くしかない。
セリアは満足げに微笑み、マネキンの手を取るように軽く持ち上げて、くるりと回った。
その姿は、気品と自由さが同居した――まさに“公爵令嬢”という存在そのものだった。
「ですが、少々色合いが地味ですわね」
セリアはドレスの裾を指先でつまみ、光に透かすように眺めた。
その横顔は、まるで宝石の価値を見極める鑑定士のように真剣で、けれどどこか楽しげでもある。
「あ、それは、パーティでは主役の方より目立たないように――です。
そのうえで、目を引くデザインを少しだけ取り入れています」
ミルシャは必死に説明する。
だがセリアは、ふっと微笑んだ。 その笑みは、柔らかいのに逃げ場を塞ぐ。
「つまり――もっと素晴らしい発想をお持ちというわけですわね?」
「……え?」
その一言は、まるで細い鉄の糸でそっと絡め取るような響きだった。
否定も肯定も許さない、優雅な罠。
セリアは一歩、ミルシャへ近づく。
その瞳は宝石のように澄んでいるのに、熱を帯びていて、逃げようとする心を吸い寄せる。
「わたくし、期待しておりますのよ?
“主役より目立たぬようにしながら、誰より美しく魅せる”――そんな矛盾を可能にする貴方なら、至高の一着を纏わせていただけると」
ミルシャの喉が小さく鳴る。
セリアの視線は、もはや断らせる気など微塵もない。
気品という名の圧が、静かに、しかし確実に覆いかぶさってくる。
「え、えっと……その……」
「店主?」
呼ばれた瞬間、背筋がぴんと伸びる。
その声音は優しいのに、逃げ道を塞ぐ扉のように静かで重い。
「わたくしが誕生会で纏うのは――“貴方の世界”でなければなりませんの。
それを、今……確信いたしましたわ」
微笑みながら、セリアはそっとミルシャの手を取る。
その仕草は優雅で、温かくて、そして――抗えない。
ミルシャは、ただ呆然と頷くしかなかった。
「お嬢様。 そろそろお時間にございます。
馬車を待たせすぎては、御当主様がご心配なされましょう」
低く、よく通る声。
セリアの背後に控えていた老執事が、静かに、しかし確固たる気配で告げた。
「まあ……そんなに経ってしまいましたの?」
セリアは名残惜しげに店内を見回し、最後にミルシャへ視線を戻した。
その瞳は、宝石のように澄んでいて、どこか子どものように輝いている。
「仕方ありませんわね……今日はここまでにいたしますわ」
しぶしぶ、と言う言葉がこれほど優雅に似合う人間がいるだろうか。
セリアは肩を落としながらも、どこか楽しげに微笑んだ。
「ですが――」
すっとミルシャの手を取り、逃げ道を塞ぐように指を絡める。
「採寸は、三日後に必ずお願い致しますわ。
よろしいですわね? 必ず――ですのよ?」
「え、あ、はいっ! もちろん!」
返事をするより早く、セリアは満足げに頷いた。
その仕草は、まるで花が風に揺れて微笑むようで、ミルシャの胸の奥をそっと撫でていく。
「では、楽しみにしておりますわ。 店主――ミルシャさん」
その呼び方が、妙にくすぐったくて。
ミルシャは思わず背筋を伸ばしてしまう。
老執事が扉を開けると、セリアはスカートを翻し、優雅さを纏ったまま入口へ向かう。
「ごきげんよう。 また三日後に伺いますわ」
軽やかに手を振り、セリアは馬車へと乗り込む。
その動作ひとつひとつが、絵画のように美しく、風景に溶け込むのではなく、風景そのものを塗り替えてしまう。
馬車の扉が閉まり、御者が手綱を引く。
蹄の音が石畳を叩き、ゆっくりと馬車が動き出した。
ミルシャは、ただ呆然とその背中を見送る。
「……すごい、ご令嬢様だったなぁ……」
ぽつりと漏れた言葉は、驚きと感嘆と、ほんの少しの温かさが混じっていた。
ふと、馬車の後ろ姿を見て、ミルシャは目を瞬かせる。
(あれ……この馬車……)
つい先ほど、店の前を通り過ぎていった馬車。
暗い店内を見て、驚いたように身を乗り出していた女性。
「あれ、セリア様だったんだ。 ふふっ……」
思わず、声が漏れた。
くすくすと笑いながら、ミルシャは店の扉をそっと閉める。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、店内は静かだった。
けれど、その静けさは寂しさではなく、胸の奥に小さな灯りをともすような温かさを含んでいる。
「よし。 頑張らなきゃ!」
ミルシャは深く息を吸い込み、胸に手を当てた。
セリアが残していった熱と期待が、まだそこに確かに息づいている。
その灯りを抱きしめるように、ミルシャはゆっくりと二階へ向かった。
「……あれ? さっき、あたしの名前呼んだよね?
名乗っていなかったような? ん~、まいっか!」
ミルシャは深く考えず、頭の中は至高のデザインで一杯になっていた。
最後までご覧いただき、心より感謝申し上げます。
5月・6月の投稿は、諸事情により不定期とさせていただきます。
これまでの物語をゆっくり振り返っていただけますよう、投稿した挿絵をXにて保存しております。
絵を眺めるだけで物語の情景がふっと蘇るような、そんな時間をお届けできれば幸いです。
どうぞ、ごゆっくりご覧ください。
https://x.com/ocarina_quartet
※挿絵は Gemini Nano Banana 2 Pro による生成画像です




