公爵令嬢の願い③
セルーネ湖畔に寄り添うように築かれたその町は、湖へと突き出した岬に教会が佇み、整然と並ぶ家々の白壁は、澄みきった湖面に溶け込むように輝いていた。
まるで町そのものが、女神へ捧げる祈りの一節であるかのように美しい。
ここセルーネは、聖女会に属するシスターたちが多く暮らす穏やかな町である。
この国の教会では、古くから男女で役割が分かれていた。
正教会に属する大司教、司教、司祭――その多くは男性が務め、民へ女神の教えを説くことを己が務めとしている。
一方で、女神の使徒として崇められる女性たちは聖女会と呼ばれ、正教会と並び立つもう一つの柱として、その地位を確立していた。
彼女たちは女神への祈りを日々に宿しながら、各地の教会で子供達に学びを授ける教師としても働いている。
どれほど役割が異なろうとも、両組織の頂にはただ一人の”教皇”が君臨する。
その下に、正教会の大司教と聖女会の聖女――ふたつの光が並び立ち、この国の信仰を支えていた。
そして、聖女会の中心となる教会こそが、この湖の町セルーネに静かに息づいているのであった。
そんな湖畔にひっそりと佇むミッシェルの別邸は、表向きには聖女を引退したマリオンの館として知られている。
その館は、町から船でなければ辿り着けない場所であり、シスターの修練の場としても度々使われていた。
そんな場所でマリオンと一緒に暮らしているのが、シスターであり、献身的な傍使いのネルフィー。
二日前に突然マリオンが運び込まれ、夜も寝ずに看病をつづけていた。
自分の意識を取り戻さないマリオンに、ネルフィーだけでは大変だろうとミッシェルの計らいで、昼の時間は王妃であるセルビナがマリオンの眠る傍にそっと寄り添っていた。
政務を抱えるミッシェルに代わり、彼女は古き友としてのマリオンを看病していた。
ミルシャの深い悲しみが、マリオンの心を覆い尽くしてから二日が過ぎた。
彼女の意識は霧の中を彷徨い続け、三日目の朝になっても、セルビナの声に応えることすらできなかった。
自分の名を呼ぶ声に、不思議そうに子供のような瞳を向けるだけ。
その様子に変化が現れる――。
日が高くなるにつれ、霧の奥からゆっくりと“マリオン”が戻ってくる。
祈りの時間になれば自然と手を合わせ、毎日の習慣が彼女の心をそっと撫でていく。
ミルシャの記憶とマリオン自身が、静かに入れ替わるように。
その日の午後、四の鐘が鳴り響く十五時。
ミッシェルはいつもより早く公務を切り上げ、「疲れたから休む」と執事に告げると自室に戻り、転移門でマリオンの元へと向かった。
――コンコン
「どうぞ」
ドア越しに、セルビナの落ち着いた声が返る。
ミッシェルは寝ているマリオンを起こさぬよう、そっと扉を開けた。
午後の光が、カーテン越しに薄く差し込む部屋。
起きては泣き叫ぶマリオンだったが、午後は泣きつかれて寝てしまう。
そして、夜になるとまた泣き出し、日をまたぐ頃寝付くを繰り返した。
ミッシェルは足音を殺しながらベッドへと近づく――しかし、そこにマリオンの姿はなかった。
「こっちよ、ミッシェル」
振り返ると、カーテン越しの淡い光に照らされたテーブル。
その傍らで、セルビナと優しく微笑むマリオンが座っていた。
「マリオン!?」
「こんにちは、ミッシェル」
「戻ったのか!?」
ミッシェルは急いで駆け寄り膝をつくと、彼女の手をそっと握る。
昨日までの幼い表情は消え、そこにあるのは、いつもの優しくて、どこか儚い微笑み。
マリオンの瞳に深い霧の影はなく、確かな光を宿していた。
「どうかしら」
「……え?」
「私とミルシャちゃん。 二人の記憶が混ざっているみたいなの」
「記憶が混ざっている? どういう意味だ」
ミッシェルの声音は王としての威厳よりも、ひとりの男としての不安が滲んでいた。
「簡単に言えばね。 私にも“ソラ君”という弟がいて……幼い頃に亡くした、という記憶があるの。
ミルシャちゃんの記憶が、その時期の私自身の記憶と重なってしまっているのよ」
「……それは、身体に……いや、心に支障はないのか?」
「ええ。 混ざっているのは、ほんの短い期間だけ。
子供の頃の記憶を深く辿らなければ、問題はないわ」
「そうか……良かった……。 いや、良かったと言っていいのか迷うが……。
それでも、戻ってきてくれて本当に良かった」
「心配をかけてしまいましたね、ミッシェル」
「戻ってくれたのなら、それだけで十分だ」
ミッシェルはそっとマリオンの手を包み込む。
その指先に触れた温もりに、ようやく胸の奥の緊張がほどけていく。
――だが。
「あら、陛下――本当は少し残念なのではなくて?」
「え?」
セルビナの声音は、王妃としての品を保ちながらも、どこか棘を含んでいた。
「最初の頃なんて、マリオンを抱き寄せて、まるで我が子のように世話をしていたでしょう?」
「い、いや、それはだな! 泣く子のあやし方を知らぬから、娘にしたようにするしかなくて……!」
ミッシェルは慌てて手を離し、マリオンの膝元から後ろへ飛び下がる。
王妃の嫉妬は、静かで、しかし逃げ場のない圧を持っていた。
「夜泣きした時は……添い寝までしていたのではなくて?」
「し、してない! 断じてしてない! すべてネルフィーに任せていた!」
「ネルフィーさん……本当かしら?」
「本当だよな!? ネルフィー!!」
ミッシェルは青ざめた顔で、まるで救いを求めるようにネルフィーへ視線を向ける。
「これは大切なことに気付かず失礼いたしました。
只今、ミッシェル陛下の――お飲み物をお持ちいたします」
ネルフィーは一礼し、すっと部屋を出ていった。
「ま、待て! ネルフィー!」
「あ・な・た?」
「してない! 本当にしてない! やましいことなど断じてない!」
セルビナが細い目でじりじりと近づく。
ミッシェルは両手を振り、必死に否定を繰り返す。
その様子を見ていたマリオンは――ふっと笑った。
「ふふ……もう、その辺にしてあげて、セルビナ」
「え?」
「冗談よ。 あなたがそんなことをなさる方ではないと、私が一番よく知っています。
まあ、奥手すぎるのもどうかと思いますけれど?
ネルフィーさんにお願いして、冗談に付き合っていただいたのです」
「え?」
「心に傷を負って泣く子供を抱きしめるくらい、私だっていたしますわ」
「え?」
ミッシェルは、何度も瞬きをするしかなかった。
「さて。 私はこれで失礼いたします。
明日からはネルフィーさんだけで十分でしょう?」
「ええ。 これまでのご厚情、深く感謝いたします」
「今度伺うときは、美味しい果実酒を用意しておいてくださいませ」
「はい。 お待ちしております」
「あなた――門を」
「は、はいっ!」
ミッシェルは慌てて転移門を開く。
王妃は優雅にドレスをつまむと、一礼してマリオンへ微笑みを向けた。
「どうか、お大事になさってね」
「ありがとう、セルビナ」
王妃は静かに転移門へと消えていった。
セルビナが去った後の部屋には、朝の湖面のような静けさが戻っていた。
「はぁ……」
ミッシェルは深く息を吐く。
その吐息には、王としての重責よりも、ひとりの男としての疲労が滲んでいた。
「うふふ。 お二人とも、昔と変わりませんね」
「はは……。 あいつには、我が精霊使いということもあり、気苦労をかけてばかりだからな。
なるべく負担は減らしてやりたいのだ」
「そうね」
ミッシェルはセルビナが座っていた椅子に腰を下ろす。
その瞬間、まるで待っていたかのように、ネルフィーが飲み物を持って戻ってきた。
静かに差し出し、一礼して去っていく。
「本当に、大丈夫なのか?」
「ええ。 でも、この記憶は消えないと思うわ。
心が“現実”として刻んでしまったから」
「そうか……すまなかったな」
「いいえ。 私は嬉しいのです」
「嬉しい?」
ミッシェルが眉を寄せる。
マリオンはそっと視線を神杖へ向けた。
壁に立て掛けられたそれは、まるで沈黙の中で何かを訴えているようだった。
「もう分かっているのでしょう?
あの宝玉が、ミルシャちゃんの心の痛みを和らげていたことを」
「……ああ」
ミッシェルの声は、悔恨と安堵が混ざり合った複雑な色を帯びていた。
「私はね……その痛みのほんの少しを肩代わりできた気がして、とても嬉しいの。
今のミルシャちゃんがあるのは、きっとあの宝玉のおかげよ」
「そうだな」
「それに、国王様と王妃様に看病していただけるなんて、望んだってできないことよ?」
「違いない。 だがな、マリオン。
お前は国のために身命を捧げ、聖女として働いてくれた。
命の危険など、今回だけではあるまい?
聖女であることで、結婚すらしていないのだから……我の手で少しでも看病できるなら、望んでやってきたかった」
「あら? 今は結婚できるのよ? 陛下の側室でも私は構わないわよ?」
「えっ!? いや、それはだな……色々と……」
「あら、嫌なの?」
「い、嫌ではないぞ!? 嫌というわけではなく……」
「うふふ、冗談よ。 ごめんなさい。
夫婦生活に憧れることはあるけれど、それは“こちら側”から見ているから。
既婚の女性からしたら、きっと今の私を羨むでしょうね」
「むう……」
軽口を交わせるほどに回復したマリオンに、ミッシェルは心から安堵していた。
だが――その安堵は、次の言葉で一気に凍りつく。
「……ひとつ、気になることがあるの」
「どうした?」
マリオンの声が、わずかに震えた。 その震えは、ただの不安ではない。
“真実”へと手を伸ばす者の震えだった。
「ミルシャちゃんの記憶が流れ込んできたとき……もう一人の“声”が聞こえたの」
「なに!?」
空気が張り詰める。
「その声が言っていたのよ。
“お前が悪い”
“お前がすべての元凶”
“お前がいなければ弟は死ななかった”
……そんな、心を壊すような声が、ずっと」
「ミルシャ自身の叫びではないのか?」
「それも考えたわ。 でも違う。
少なくともミルシャちゃんの声じゃなかった。
それに……ソラ君のことを“弟”と言っていたのよ」
「……不自然だな」
ミッシェルの表情が険しくなる。
その目は、王としての鋭さを取り戻していた。
「それで思ったのだけど……ミッシェル。
貴方は、どうして玩具にオリハルコンを使ったの?」
「え? それは、魔力を消費して光る玩具を作りたかったからだが……」
「光るだけなら、普通の水晶で十分よ?
ミルシャちゃんなら、少し教えれば魔力を込められたはず。
わざわざ“魔素を集める”オリハルコンを使う必要はなかった」
「それは……そうだが……」
「今回、アイリスさんが気づいたように、悪意ある者が気づけば命を狙われていたかもしれない。
それに気づかない貴方じゃないでしょう?」
「………」
ミッシェルの沈黙は、否定ではなく――困惑だった。
「もし……何の躊躇もなくオリハルコンを使っていたのだとしたら。
それは、“使うように洗脳された”――のではなくて?」
「洗脳!? そんな馬鹿な!!」
「もちろん、これは私の仮説よ。
ただ……もし本当に洗脳されていて、オリハルコンを渡した理由が、ミルシャちゃんの心を静めるためだったとしたら?」
「あり得ない! それでは、ソラの事故も故意ということになってしまう!」
「落ち着いて。 あくまで想像の話よ」
「す、すまん……取り乱した……。
だが、それが真実なら……いったい何の目的で――まさか!?」
「そう――すべてはミルシャちゃんを覚醒させるため」
「いや、それはない。 誰が覚醒するかなど分かるはずがない。
それに、精霊使いを欲するものが黒幕なら、最初からゼルを狙うはずだ」
「普通ならね。 でも考えてみて。
ゼルはすぐに王宮に匿われ、次に現れたときは家名を持つ医者になっていた。
それが同一人物だと気づくまで、時間がかかったはずよ。
ならば、利用しにくい大人のゼルより、その子供を操る方が容易だわ」
「……もしそれが真実なら、我はいったいいつから、その者の掌で踊らされていたのだ……」
「わからないわ。
でも、そこまでの時間をかけてでも、成し遂げたい“目的”があることは確かね」
「ソルシャ殿の話では、ゼルを保護するまで何人もの人を精霊術で助けている。
それを受けた者、あるいは見た者が、精霊使いと気付いてもおかしくはない」
「きっと、近い将来接触してくるはずだから、ミルシャちゃんを守らなければならないわ」
「ああ、近づくものに特に注意しよう」
部屋の空気が、重く沈む。
まるで見えない闇が、足元からじわりと広がっていくようだった。
「何より、宝玉をミルシャちゃんに返すのが先決よ。
今回の呪い騒動は、黒幕の計画に入っていないと思うから、水晶を手放す事は想定していないはず。
今、心の支えを失えば精神の均衡が崩れてしまうわ」
「………」
「ミッシェル?」
「……戻せないんだ」
「え?」
「神杖のために、宝玉として複雑な神紋陣を刻んでしまった。
もう……ミルシャの”お守り”には戻らない」
「な、なんてこと!」
「代わりを作ろうにも、オリハルコンの原石がない」
「そんな……もしミルシャちゃんに辛いことが起きたら……。
自分を取り戻せなくなって――精神が壊れてしまうわ!」
その言葉は、雷鳴のように部屋を貫いた。
ミッシェルの胸に、冷たい刃が突き立つ。
――その同時刻、ミルシャのアトリエでは……
集まった四人は、短い相談を終えると、それぞれの家へ静かに帰っていった。
相談内容――それはパーティの終焉。
現状で全滅になっていることもあり、ミッシェルが切り出した提案に、カイは反論することなく頷いた。 誰も、解散に異を唱える者はいない。
カイが最後にその決断を口にし、三人がそれを受け入れた瞬間、長く続いた旅路にそっと幕が下りた。
けれど、それはヘルパーとしての終わりであって、精霊使いとしての縁が終わるわけではない。
これからはミッシェルの指揮のもと、国の大事へと向き合う日々が始まる。
最後まで片付けを手伝ってくれたルゥも医院へ戻り、アトリエには静けさが戻っていた。
ミルシャは洗い物を終えると、空いた時間で店先の掃除を始める。
(ヘルパーも終わりかぁ……。
町の人の依頼を受けられないのは寂しいけど、最後の依頼としては十分すぎたわね。
これからどうしよう。 喫茶店でも……いや、まだ目立つのは駄目よね。
ギルドの顔なじみが来たら困るし)
ほうきを置いたミルシャは、少し曇った窓を磨き始めた。
ショーウィンドウのドレスがくすんで見えてしまっては、せっかくの彩りが泣いてしまう。
水を軽くかけ、布で丁寧に拭き上げる。
そのとき――
背後から、蹄の軽やかなリズムと車輪の音が近づいてきた。
ミルシャは磨き上げた窓越しに、その馬車を映す。
「わぁ、綺麗な馬車! どこの貴族様かな?」
白馬に引かれた黒塗りの馬車。
金色の装飾が夕陽を受けてきらめき、扉には大きな家紋。
中には、自分とは縁遠いような豪奢なドレスを纏った女性が――
「えっ、こっちを見て……驚いてる?」
窓に映ったその女性は、確かに店を見て目を見開いていた。
直ぐに振り返ったミルシャだったが、すでに馬車は通り過ぎ女性を見ることはできない。
「ん~……錯覚? 店内のドレスが反射しただけ……かな?」
自分に言い聞かせるように呟く。
「それにしても、この道を通るなんて珍しい。
この区画に貴族様の邸宅はないし、学院に行くにも狭くて、この道を通ると結構馬車が揺れるのよね」
アトリエの前の道は王都の中では広い方だが、馬車が通らないため踏み固められていない。
高貴な身分の者が乗れば、不快な揺れに眉をひそめるだろう。
ミルシャは残りの窓を拭き終えると、店内へ戻った。
アトリエの一階は接客の間。 ドレスを眺めながらくつろげる、小さな夢の空間。
二階は仕立ての場で、奥の階段を上れば屋根裏部屋へと続く。
新しいデザインの閃きを求め、ミルシャが階段へ足をかけた、その瞬間――
――バタンッ! ……カランカラン……
勢いよく扉が開き、遅れてドア鈴が震える。
「やっと……やっとお店に入れましたわ!!」
夕焼けの光を背に、ひとりの女性が立っていた。
逆光に縁どられたその姿は、まるで物語から抜け出したように美しく、ミルシャの瞳に鮮烈なシルエットを刻みつけた。
最後までご覧いただき、心より感謝申し上げます。
これまでの物語をゆっくり振り返っていただけますよう、投稿した挿絵をXにて保存しております。
絵を眺めるだけで物語の情景がふっと蘇るような、そんな時間をお届けできれば幸いです。
どうぞ、ごゆっくりご覧ください。
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※挿絵は Gemini Nano Banana 2 Pro による生成画像です




