公爵令嬢の願い①
フェアウェル大陸――
陸の最東端に位置するルーファス王国は、一年を通して穏やかな陽だまりに抱かれていた。
どこまでも続く平らかな大地は、天からの恩恵を余すところなく受け止める。
春には百花が咲き乱れ、秋には黄金の波が揺れる。
四季折々の色彩が、まるで神が描いた絵画のように美しく季節を彩っていた。
冬を告げる冷たい北風も、この地では北の国境に淡い雪の華を降らせる程度に過ぎない。
そして夏。 南から吹き込む柔らかな潮風は、色鮮やかな野菜と豊かな海の幸を運び、人々のささやかな食卓を笑顔で満たしていた。
だが、そのまどろむような幸福の外側へと目を向ければ、世界は決して優しくはない。
一歩国境を越えた先にあるのは、牙を剥く大自然の驚威と、それに翻弄される者たちの過酷な現実だ。
切り立った山脈に隔絶され、這いずるように生きる国がある。
荒れ狂う猛吹雪や、生命を焼き尽くす熱砂に喉を渇かせ、常に死と隣り合わせの気候に喘ぎ続ける国々がある。
彼らはただ生きるために不毛な大地を削り、血と汗を流してその日の糧を繋ぐしかなかった。
この広大なるフェアウェル大陸に割拠するのは、七つの王国。
そして、ただ一つの帝国。
ルーファス王国の南の国境を越えると、そこにはどこまでも続く深緑の海が広がっている。
森と木々の息吹に抱かれた国――ギルデリア王国。
天を衝く大樹の群れは彼らの誇りであり、豊穣なる森がもたらす木々の恵みは、長きにわたりこの国の血肉となってきた。
かつて、二つの国は太い絆で結ばれていた。
偉大なる先王の治世。
森の民が切り出す良質な木材は両国を繋ぐ架け橋となり、国境を行き交う人々の笑い声が絶えることはなかった。
だが、栄華の季節は永遠ではない。
森を支える巨木が倒れるように、先代の王が突然この世を去った。
その日を境に、ギルデリア王国に吹く風が変わる。
玉座を継ぎ、新たな王冠を戴いたのは若き第一王子。
本来ならば新たな時代の幕開けとして、歓喜と共に迎えられるはずの出来事であった。
しかし、彼がその手で築き上げたのは、分厚く冷たい”拒絶の壁”であった。
かつて親友のように言葉を交わしたルーファス王国との国交も、今や冬の湖面のように凍り付き、音を失っている。
その西に寄り添うは、清冽なる水の双眸を持つ国――フォルテシモ王国。
大陸随一の”水の都”と謳われるその地には、天を衝く山脈の頂から、悠久の時をかけて溶け出した雪解けの雫が降り注ぐ。
それは銀の糸を織り成すように地表を駆け、陽光に煌めく無数の運河となって、王国の隅々にまで潤いと、残酷なまでの美しさをもたらしていた。
この国において、水は単なる資源ではない。 それは脈動する命そのものだ。
網を投げれば跳ねる銀鱗、草原を駆ける獣たちの息吹。
海からも川からも溢れ出す水の恵みは、民の糧となり、王国の血肉となっていく。
フォルテシモ王国は”世界の窓”とも言われ、水平線の彼方、外大陸へと開かれたその飽くなき野心であった。
白帆を上げた異国の船が、潮風とともに未知の文化と莫大な富を運び込み、石畳の街並みに新たな色彩を塗り替えていく。
広大なフォルテシモ王国を西へ抜けると、景色は一変する。
そこは、大陸で最も潤いを忘れた場所――ガウル王国。
国境を越えた先で旅人を迎えるのは、ひたすらに続く渇きの大地と、容赦なく照りつける太陽であった。
大陸において最も乾燥が進み、最も高い熱を帯びるその国は、国土の八割をやや標高のある平原に位置している。
天からの雫を運ぶ風さえも、ここでは熱砂に溶けて消えていく。
だが、この地は決して死の都ではない。
乾ききった表土の下には、奇跡のように豊かな水脈が眠っている。
大地を穿てば清冽な水が容易く湧き出し、人々の喉を潤すのだ。
しかし、その恵みをもってしても、荒ぶる太陽の熱から土を護ることは叶わなかった。
大陸一を誇る酷暑と苛烈な乾燥は、命の種が芽吹く前にすべてを焼き尽くしてしまう。
いまやガウルの民の殆どは、大陸の縁をなぞるように、母なる海岸線に身を寄せて暮らしている。
波音だけが優しく響く海辺の街並み。
それは、過酷な世界に見捨てられた者たちの逃避行ではない。
大地の理を受け入れ、それでもなお力強く生き抜くことを決意した人間たちの、美しき反逆の証。
ルーファス王国の北西、冷たい風が吹き降ろすその地に、大陸唯一の”帝国”を自称する国、バーンズ帝国が覇を唱えている。
だが、その帝冠が放つ威光はまだ若く、現皇帝の代で歴史を歩み始めたに過ぎない。
かつて”バーンズ王国”と呼ばれていた時代があった。
山脈から採掘される極上の鉄鉱石は、人々の暮らしを温める鍋となり、大地を耕す鍬となっていた。
大陸一と謳われた鉄細工の優しい煌めきは、間違いなくこの国の誇りであったのだ。
しかし、野心に燃える現皇帝は、その穏やかな炎を良しとしなかった。
民の生活を支える炉の火は、鋭い剣を鍛え、硬い鎧を打つための業火へと変えられてしまったのである。
最初は、誰もがその性能の高き武具に熱狂した。
だが、剣では飢えを凌げず、鎧では凍える夜を越えられない。
闘争を求める一部の者だけが潤い、日々の営みを支えるささやかな道具を失った帝国は、冷たい武具の山に埋もれるようにして、静かに、そして確実にその財政を蝕まれていった。
帝国の失策という名の風を帆に受け、西の地で息を吹き返したのが――コルン王国である。
北の大陸へと続く荒々しい海原を見つめるこの国は、純白の熊がもたらす極上の毛皮細工で細々と命脈を保っていた。
だが、凍てつく風を纏うだけでは、国という巨大な獣を養うことはできない。
そこで彼らは、バーンズが打ち捨てた”生活の炎”を拾い上げた。
行き場を失った鍛冶師たちを招き入れ、命を繋ぐための鉄細工の生産を始めたのだ。
雪降る街に力強い鎚音が響き渡るにつれ、国は確かな熱を帯びていった。
それでも、過酷な運命は彼らを逃がさない。
コルンは一年を通じて雪のヴェールに閉ざされた、白き極寒の地。
種を蒔く土すら凍りつくこの国で、自ら糧を得ることなど叶わぬ夢であった。
それは、植物の育ちにくい土壌を抱えるバーンズ帝国とて同じこと。
生きるため、ただ明日を迎えるために、彼らは凍てつく海に船を出し、命綱である海洋からの交易にすべてを託すしかなかったのである。
そして、その隣に横たわるのは、かつて”ドゥーラ王国”と呼ばれた悲しき亡骸。
すでに王冠は砕け散り、国を束ねる玉座はとうの昔に朽ち果てた。
一年中吹き荒れる吹雪がすべてを白く塗りつぶす、人が生きることを許さない過酷な凍土。
地図の上ではいまだ「王国」という名で縁取られているが、そこに在るのは見捨てられた荒野だけだ。
本来ならば隣国が手を差し伸べ、あるいは呑み込むべきなのだろう。
だが、コルンにはすでにその余力がなかった。
また、もう一つの隣国であるウィルダリア王国にとっても、国土の北半分を占める天を突く険しい山脈を越えてまで、この死の地を手に入れる価値は微塵もなかったのだ。
誰からも見放されたその場所は今、法も秩序も届かない無法の吹き溜まりとして、ただ静かに白い闇の中に沈んでいる。
最後に記すは大陸西端最果ての地――”ウィルダリア王国”。
神が気まぐれに刻み込んだ大地の皺のように、そこは大陸で最も複雑で、数奇な貌を持つ国だった。
北の空を裂くのは、踏み入る者を容赦なく拒絶する峻厳なる峰々。
東方より横断する巨大な山脈の残滓が、まるで眠れる竜の背骨のように連なって旅人の行く手を阻む。
天険を縫うように這うその道程は、紙の地図が示す距離など嘲笑うかのように、遥かに遠く険しい。
だが、苛烈な大地を越えた先、国土の中央には優しい水の調べが響き渡っている。
やや空に近いその場所に座すのは、気高き王都。
峻嶺から湧き出でた滴が無数の川となって流れ込み、そこに息づく命をみずみずしく潤していた。
そして、流転する水が行き着く南の海辺。
そこには、王都さえも凌駕する熱気を孕んだ、巨大な海都が広がっている。
幾千の白帆が風を孕んで星の海へと飛び立ち、あらゆる異国の富と夢が交差する場所。
それは間違いなく、この大陸の鼓動を力強く刻み続ける、最も偉大な”交易の心臓”であった。
数多の伝承が芽吹き、英雄譚が息づく大地――ウィルダリア王国。
その壮麗なる王城を望むルーファス王国大使館には、いま一人の少女が外交の要として立っていた。
ルーファス王国第二王女、ステファニー・フォン・ルーファス。
陽光を受けてきらめく長い金髪は、まるで王家の血筋そのものが光を帯びて流れているかのようだった。
背にふわりと流れるその髪が揺れるたび、周囲の空気まで柔らかく染まっていく。
彼女が身にまとうのは、青と白が絶妙に調和したドレス。
清らかな白が王女としての気品を、深い青が凛とした知性を映し出し、
それでいて動きやすい仕立ては、外交の場を軽やかに駆ける彼女にぴったりだった。
十五歳で成人を迎えたばかりの若き大使は、大人でさえ膝を折る激務を、まるで春風のような涼しい顔でこなしてしまう。
もちろん、それには確かな理由があった。
ウィルダリアの次期国王の妃は、彼女の姉、第一王女ルフェーリア。
姉という最強の架け橋が両国を結び、関係はかつてないほど穏やかで温かい。
追い風に背を押されるように、ステファニーの大使としての日々は、今日も華やかに流れていく。
――コンコン
「どうぞ」
羽ペンを走らせたまま、ステファニーは訪問者をすでに理解しているように、静かに扉が開くのを待った。
「失礼いたします」
黒と白を基調としたメイド服の女性が、凛とした気配を纏って入室する。
黒地には金糸の刺繍が揺れ、白いエプロンは雪のように清らか。
耳まで覆う独特のカチューシャが、彼女の存在をさらに際立たせていた。
「ステファニー様。 本日のお手紙でございます」
十通ほどの束を抱え、アメリアは静かに歩み寄る。
ステファニーは羽ペンを置き、上目遣いで小さく息をついた。
「……あのね、アメリア。 二人きりの時くらい、呼び捨てで構わないのだけど?」
「恐れながら、それはできかねます。 ここは遠国。
どこで誰が耳を傾けているか分かりません」
「側近と親しく話しているだけで噂になるとは思えないのだけど?」
むくれたように頬をふくらませるステファニー。
「そういえば、先日の王太子妃様のティーパーティ。
また、ナラレフ伯爵様のお誘いをお断りになったとか?」
「……話をそらしましたわね。 忙しいのですから仕方ありません」
「伯爵のご子息は、端正な御曹司と伺っておりますが」
「ご好意を示してくださる方に、驕り高ぶる御曹司なんておりません」
アメリアのからかいに、ステファニーはすねたように言い返す。
「年月の経つのは早いものですよ?」
「いいのです。 私は一人寂しく、ルーファス王国の片隅で平民として生きてゆくのが願いなのです」
冗談めかした声の奥に、ふと寂しさが滲む。
アメリアはその影を見逃さず、そっと視線を落とした。
窓の外では遠国の風が王城の尖塔を撫で、静かな時間が二人を包む。
「……学院を卒業して、もう三年も経つのですね」
「ええ。 一度も会えず、こんなに遠くへ来てしまうなんて……」
「寂しいですか?」
「……少し。 学院は挑戦ばかりで、破天荒の連続でしたから」
「――では、ステファニー様?
お寂しくないよう、明日からは朝一番に、熱烈なハグでご挨拶をいたします」
「そ、それは……さすがにお断りいたします」
「それは残念です」
軽口を交わしながらも、空気はどこか柔らかい。
ステファニーは気持ちを切り替え、羽ペンを再び走らせた。
「重要なお手紙はありますか?」
「いつものように、ほとんどは恋文です」
「………」
アメリアは慣れた手つきで恋文を机の端へ置く。
「ほかには、海都からの海路に関する要望がございます」
「それは以前も話題に上がりましたが、大陸の北洋を通るルートですね」
「はい」
「海流の事を考えての事でしょうけど――」
この大陸の南洋では、一年を通して西風が荒々しく吹きつける。
そのおかげで、ウィルダリア王国からルーファス王国へ向かう船は、帆を張るだけで一週間もあれば到着してしまう。
だが、問題はその逆だった。
戻りの航路では風がまるで味方をしてくれず、船員たちが汗を流して櫂を動かすしかない。
その労力も空しく、風に戻されることも度々あった。
結果、行きの四倍以上の時間を費やす羽目になる。
そこで提案されたのが、北洋を大きく迂回し、東から西へ流れる海流を利用するという大胆な策だった。
だが北洋は、南洋とは比べものにならないほど北風が強く、海流も荒れ狂う危険海域。
さらに、ルーファス王国から出航した船は、バーンズ帝国に目を付けられやすく、しばしば拿捕されるという厄介な問題まで抱えていた。
「我が国籍の船でなければ問題は少ないと思います。 しかし、一抹の不安が残るのも事実です。
禁止はいたしませんので、最終判断はウィルダリア側にお任せしましょう」
静かに告げる声に、アメリアは深く頷いた。
「では、この件につきましては本国への照会は不要とし、先方の判断で進められるよう伝えておきます」
「はい。 頼みます」
そしてアメリアは、最後の一通を差し出した。
厳重な封蝋に刻まれた家紋――ヘイゲル公爵家。
「セリア様からの――招待状?」
「はい。 ひと月後に学院を借りて、生誕会を催されるとのことです」
「それは、是非にと言いたいところですけど……無理ね。
ご婚礼の前に、ヘイゲル公爵家として催すのでしょうけど、その三か月後にお兄様とのご婚礼の儀があります。
そちらへの出席はいたしますので、短期間に二度の帰省は難しいです。
往復にひと月半かかるのですから。 今回はその様に……」
「では、申し訳ありませんが、ひと月半ほどお休みを頂きます」
「……はい?」
ステファニーが話し終わる前に、アメリアが休暇の申請を打診してきた。
「それは構いませんが、生誕会に出席したいのであれば、私同伴でなければ入れませんよ?」
「大丈夫です。 私も招待状を頂きましたので」
「……はい?
なぜ、セリア様がアメリアに招待状を――!?」
ステファニーは疑問を投げかけようとしたが、はっと思い、急いで手紙を開封した。
『親愛なるステファニー様へ
麗らかな季節の折、かねてより準備を進めておりました生誕祝賀の宴を、下記の良き日に相催す運びとなりました。
つきましては、ぜひともご臨席賜りたく、心よりお願い申し上げます。
なお、当日は特別に誂えました華やかな衣装を披露いたしますゆえ、ステファニー様におかれましては、どうか控えめなお召し物にてお越しくださいますようお願い申し上げます。
また、衣装を手掛けた名匠も参りますので、ぜひ一献お付き合いくだされば幸いに存じます。
詳細につきましては……』
――ポタッ……ポタッ……
ステファニーは最後まで読み終わる前に、溢れる涙で文字がにじみ始める。
本来であれば、アメリアに招待状が届くことはない。
それが届いたという事は、アメリアにも関係のある事象があるという事。
「アメリア……」
「ご出発は十日後です。
それまでに代理の大使をお決めください」
「わかりました……ありがとう」
震える声で礼を告げると、アメリアは静かに一礼し、音もなく部屋を後にした。
残されたステファニーの胸には、懐かしさと、そして小さな希望がそっと揺れていた。
最後までご覧いただき、心より感謝申し上げます。
週に一度、日曜日の12時までに投稿しております。
早く仕上がった時には、我慢できなくなります☆彡
これまでの物語をゆっくり振り返っていただけますよう、投稿した挿絵をXにて保存しております。
絵を眺めるだけで物語の情景がふっと蘇るような、そんな時間をお届けできれば幸いです。
どうぞ、ごゆっくりご覧ください。
https://x.com/ocarina_quartet
※挿絵は全て Gemini Nano Banana 2 Pro による生成画像です




