597:田んぼの様子を見に行く
【第三層群屋上庭園】
「面倒ですね……。」
マリーは地図を切り替え、各地の雨量を表示。さすがに気象レーダーは図書館の備品では入手不能なので存在しない。
「今回の雨は、かなり雨量が多いか。」
「はい。ダンジョン内でも水路が増水します。このダンジョンの農業用水はダンジョン構造物ですから、通常、水路の水量は適切に制御されています。雨が降っても、それだけなら水量に応じて遠隔で『ダンジョンの罠』である水門を調整すれば済むのですが……。」
「それでも人が田んぼの様子を見に行く必要があるのか。」
「わたしが第三層群玄関前広場に作っているような小さな水田なら良いのですが、本格的な用水路だと水路にゴミなどが挟まったら除去しないといけません。それを怠って水が溢れて自分の田が流れたら年収を失いますし、他人の田を流してしまうと村に居られません。ダンジョンでは水路自体が壊れないだけマシですが。」
「それで誤って水路に流される事故が起きるか。」
「このまま雨の頻度が増えたら、事故が起きるのは時間の問題です。このダンジョンにとっては、あまり美味しくない死に方ですね。」
「マリーさん、ダンジョンにとって最も効率的な死に方って確か『本による死亡』だろ。畳の上で死んでも用水路に流されても、あまり差は無いのでは?」
「確かに本で焼き殺したり本で押しつぶすのが一番効率的で、防衛戦で敵に対しては多用していますが、石の神殿アスカではないので住民に対しそんな方法は使えません。そうなると、長生きして最大に知識や経験を蓄えてから老衰で死んでくれるのが、一番ありがたいことになります。」
「これが商都梅田だと……鉄道事故か。」
「おそらく。その場合、ジャガーノートみたいに電車で生贄を轢き殺すのが最も効率的と思われますが、そういうことは行われていないようですね。もっとも、ジャガーノートの伝承自体が、ジャガンナートの山車による事故を欧州人が自殺と解釈した誤解の産物ですが。」
なお、商都梅田は「最初から名前付きのモンスター」を召喚出来るが、条件は鉄道により死亡した鉄道員。これに対し文学士の赤シャツの死因は胃潰瘍だが、そもそも赤シャツというのは殉職したり暴漢に殴られたりするもので雑に扱われるのは仕方ない。
「水路の掃除だが、何らかの機械を使うわけには行かないか。」
「それもアイデア倒れですね。この世界ではロボットは図書館用しか入手出来ず、改造にも限度があります。ロボットを作ってもそれ自体が故障して水路を塞ぐ事故は避けられません。仮に改造出来ても、屋外の農業用という特殊な用途では、原発用ほどでは無いにせよコストが跳ね上がります。」
異世界の原発はトリウムを使うあみだ型が多く、強いγ線により人間は整備できない。原型炉の「ほうぞう」がそれで苦労したという。とはいえ、他の形式の原型炉はいずれも実証炉までは進まなかった。
「制約が多いな。あれも無いこれも無い。作る訳にもいかない。作物だって芋や苗木は手に入らない。」
「ダンジョンの仕様により種はムック本の付録だけで、芋類などは異世界の進んだ品種が入手出来ませんからね。その上、せっかくの品種も環境の違いで上手く育たなかったり育ち方が異なり、異世界の農業書が微妙に役に立たなかったりします。」
「1日や1年の長さは大差無いが、月……か。」
「はい。例えば異世界の月は文字通り1ヶ月で世界の周りを回っていますが、この世界の月は動きません。ですから月が関係する諸々は違いが出てきます。他にも気候の違いや入手出来る肥料や農薬の制約などが関係してきますね。」
「それこそ、無ければ作るしか無いのでは。」
「それが容易なら苦労しません。『アンナ・カレーニナの法則』では無いですが、産業革命には全ての前提条件を揃える必要があるため、近代化した世界はどれも似ていますが、この世界を含め前近代で停滞した世界はそれぞれの理由で停滞しています。」
「そこを力押しで開発するには、到底このダンジョンの生産力は足りないか。」
「この世界でも多少の改良は可能ですが、文献だけで何か複雑な物を生産するのは不可能で、異世界の工業製品や種苗を産するダンジョンを探すのが、現状唯一の方法ですね。それこそ数十万人の科学者で研究を進め、百万単位の技術者を動員して実用化すれば別ですが、それだけの人数を養うのは大変です。」
「水田100万町歩の生産力は1,500万石……到底足りないな。」
「そして、人口を殖やせば良い。では人間爆弾を爆発させてマルサスの罠に落ちるだけですね。頭という点では人間より修羅が多い方が良いのですが、わたしが言うのも何ですが修羅には性格の問題があります。いずれにせよ、出来ることから手を付けるしかありませんが。」




