海の向こうには何があるの?
カリ。
カリ。
カリ。
工房に静かな音が響く。
親方は銀のプレートへ細いタガネで花の模様を彫り込んでいた。
この辺りではあまり見かけない、どこか異国を思わせる華やかな模様だ。
少年は本棚へ無造作に差し込まれた羊皮紙を一枚ずつ引き抜き、
種類ごとに丁寧にまとめている。
その中から一際大きく丸められた紙が出てきた。
恐る恐る広げてみると、それは地図だった。
「ねぇ親方」
「親方じゃないけどなに?」
「これって何の地図ですか?」
少年は両手で地図を持ち上げる。
親方はそれを見ると懐かしそうに微笑んだ。
「あぁ、それはこの領地周辺の地図だよ」
「私が初めてこの街へ来る前に買ったんだ」
「これがこの辺りなんですか」
少年は少し興奮しながら地図を眺める。
けれど街の名前を見ても、
どこがどこなのかまったく分からない。
その様子を見た親方が笑う。
「こっちにおいで」
「テーブルに広げて一緒に見よう」
作業台の道具を端へ寄せる。
少年は嬉しそうに向かいへ座り、
慎重に地図を広げた。
「えーっと……」
「ここが領都だから……」
「ここから北に山があって……」
「その東に川が……」
「あれ?」
「違うな」
「西だったかな?」
「西って地図だとどっちだっけな……」
親方は地図の上を指が行ったり来たり。
しばらく真剣な顔で悩み始める。
少年は思わず苦笑した。
孤児院で方角だけは教わっていた。
西に大きな川。
北東には湖。
知っている景色を思い浮かべながら指を動かす。
「この辺りが僕たちの街ですか?」
親方はその辺りを眺め、
驚いたように少年を見る。
「よく分かったね」
「地図読めるの?」
「前に川と湖の場所だけ教わってたので」
「それっぽい場所を探しただけですよ」
親方は感心して頷いた。
「私は地図が苦手だから十分すごいよ」
「旅の途中も人に道を聞いてばっかりだったしねぇ」
少年は少し意外そうに笑う。
「川がここだとすると」
「さらに北が鉱山の街だね」
「南へ下ると高炉のある製鉄の町」
親方の指が川沿いをゆっくり滑っていく。
少年も地図を眺める。
街はどこも川の近くに集まっているようだった。
「街って川の近くにあるものなんですか?」
親方は頷く。
「人が暮らすには水が必要だからね」
「魚も獲れるし」
「畑へ水も引ける」
「それに船を使えば沢山の荷物も運べる」
「川の近くへ人が集まるのは自然なことなのかもしれないね」
少年は川を目で追う。
枝分かれし、
また一つになり、
地図の端まで続いていた。
「この川の先は載ってないんですね」
「この地図は領地だけだからね」
「川の先には何があるんですか?」
「隣の領地に繋がってるはずだよ」
「その先にはまた別の領地ですか?」
「この川はその領地の端にある海へ流れてるね」
少年は目を輝かせた。
「川の先に海があるんですか!」
街から出たことのない少年にとって、
海は本の中だけの世界だった。
「海って湖より大きいんですよね」
「もっともっと大きいよ」
「向こう岸なんて見えないし」
「どこまでも水平線が続いてる」
少年は想像する。
この街では、
山があり、
森があり、
川が流れている。
水しか見えない景色なんて思い浮かばなかった。
「じゃあ海の向こうには何があるんですか?」
親方は窓の外へ視線を向けた。
「また別の国があって」
「また海があって」
「その向こうにも国がある」
「世界って思ってるよりずっと広いんだよ」
少年も窓の外を見る。
この街の西を流れる大きな川。
その先には海があり、
さらにその先にも知らない国がある。
自分の暮らす小さな街が、
世界へ繋がっていることを初めて実感した。
「親方は海の向こうにも行ったことあるんですか?」
「行ったと言うより」
「来たと言う方が正しいかな」
「私の生まれた国はいくつも海を越えた先にあるから」
少年は目を丸くする。
「そんなに海があるんですか?」
親方は笑った。
「海自体は一つなんだけどね」
「人が東の海とか西の海とか呼んでるだけなんだ」
「陸路だと遠回りになる場所も」
「海を渡る方が近かったりする」
「もちろん海を渡らないと行けない国も沢山あるけれどね」
親方が世界中を旅してきた話は今までも聞いていた。
けれど地図を見ながら聞くと、
その旅は想像していたよりずっと壮大だった。
少年は口を開きかける。
「親方は……」
故郷へ帰りたいと思うことはあるのだろうか。
また旅へ出たいと思うのだろうか。
そう考えると、
その質問をするのは少し怖かった。
親方は少年を見つめ、
静かに言葉を待っている。
少年は少し考えてから聞いた。
「親方は……この街が好きですか?」
親方は何かを察したように、
優しく少年の頭を撫でた。
「私はね」
「今まで色んな街で暮らしたけれど」
「だいたい二、三年で次の街へ行ってたんだ」
「どうしてですか?」
「他の街の噂が気になったり」
「新しい景色を見たくなったり」
「まぁ色々だよ」
親方は懐かしそうに窓の外を見つめる。
「そんな私がこの街へ来てもう十年以上になる」
「家を買って」
「自分の工房を構えて」
「商売まで始めたのはここが初めてなんだ」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「旅行くらいはまた行くかもしれない」
「でも」
「ここはもう私が居たい場所だから」
「これで答えになるかな?」
少年は満足そうに大きく頷いた。
「じゃあ旅行に行く時は僕も連れて行ってくださいね!」
「ちゃんとシスターの許可を取らなくちゃね」
親方は笑う。
それから二人はまた地図を眺めながら話を続けた。
領内の街のこと。
隣の領の海のこと。
海の向こうの国のこと。
工房の作業台いっぱいに広げられた一枚の地図は、
少年には世界そのもののように見えていた。
終
※本作は note にも掲載しています。
※挿絵付き版のほか、作者ブログや『親方の秘密の考察ノート』などの関連コンテンツも公開しています。




