瞬光碧影 1.
7月に突入した。
今年は梅雨らしい梅雨が、まだ来ない。
空はどこまでも晴れ渡る紺碧色だ。
――カシャッ!
ひどく乾いた機械的な音がした。
ファインダーを覗く瞳が、刺すような日差しの夏の公園にピントを合わせる。美しい午前中の順光を受けて、キラキラと輝く緑を的確に捉えていた。
――キリキリキリ!
チャージレバーでフィルムを巻き上げる音。
「にゃー……」
足元で、次の被写体予定の猫が動いた。しゃがみこみ、MFレンズのフォーカスリングを回してピントを合わせる。
……ジャスピン。
絞り環はそのまま、f値5.6。露出計の針はシャッタースピード1/250秒を指している。
――カシャン!
心地いい、機械式シャッターの音が静かに響いた。
「――よし!」
しゃがんでいた少女はファインダーから目を離すと、目の前の猫に指先を差し出した。
「チッチッチ……おいで――」
高木瑠璃は、襷状に掛けた淡いライムグリーンのカメラストラップをグイッと背中へ送り、シルバーのフィルム一眼レフを後ろに回した。
スリスリ――。
グレーと白のハチワレ柄の猫が、瑠璃の脛に頭を擦り付けてくる。
黄色い大きな瞳が見上げる、何ともあざとくも愛らしい。
「よしよし……」
頭を優しく撫でていると、ごろりと腹を出して誘ってきた。
「おお……」
サワサワ……。
瑠璃は差し出された白い腹を、わしゃわしゃとゆっくり撫でてみた。
ゴロゴロ……。
気持ちがいいのか、ハチワレは喉を鳴らしている。
「ふふふ……いい気持ちですか?」
瑠璃はそんな事を言いながら、撫でる手を止めない。
「君とは、もう一年くらいの付き合いだね……」
瑠璃は、このハチワレと出会った時の事を思い出していた。
♢ ♢ ♢
――数刻前。
『ふむ、今日も良い天気である……いささか日差しが強い様だが、まあ良かろう……社の日陰はよく風が通る』
そう呟くと、グレーと白のハチワレ猫はてくてくと小ぶりの境内を歩き出した。少し変わっているのは、尻尾が二本に分かれていることだ。……俗に言う、猫又である。
ふと下を見やると、白いTシャツにデニム姿の少女が目に入ってきた。背中まである長髪をポニーテールに束ね、それが歩くたびに軽快に揺れている。
『おや……あれは、いつもの小娘ではないか……どれ、下界へ赴き、我の顔でも見せてやるか』
公園内の丘の上にある小さな神社から、ハチワレの猫又は階段脇の茂みをゆっくりと降りていく。
「なぁーお……」
猫又は茂みから愛くるしいハチワレの顔を出し、可愛く鳴いてみせた。茂みから出た猫又の尻尾は、巧妙に一本に纏まっている。
「あ、君か! やっぱりいたんだね……ちょっと待ってね。今いい所だから……」
カメラを構えた少女はそう応じつつも、ファインダーの中に映し出される緑の景色に意識を集中させていた。
『うん? 我がわざわざ下界に来ておるのだぞ』
猫又はそう言いながら少女の足元に絡みつき、頭を脛に擦り付けた。
『さあ、モフるが良い……さあ』
やがて頭を優しく撫でられ、気持ち良くなった猫又はゴロンと腹を見せた。
わしゃわしゃと白い腹を撫でられ、つい声が漏れてしまう。
『――ああ……そ、そこが良いぞ……そこ、もっと……ああ、いい……』
ゴロゴロと、盛大に喉を鳴らしてしまう。
しばらくすると、瑠璃は撫でるのをやめて立ち上がった。
「あれ良いかも……なんて花だろう?」
そう言うと、瑠璃は花壇で咲いている赤い花に吸い寄せられるように歩き出した。
『なんぞ……まだモフるが良い……どうした? 我が許すと言っておろう』
そう文句を言いながらも、猫又は瑠璃の足元に絡みつきながら足早に付いていく。
――キリキリキリッ。
巻き上げレバーでフィルムを巻き上げる。
被写体の花に最短距離で寄り、ピントを合わせる。順光で照らされている。
露出計はシャッタースピード1/1000秒を指している。絞りは変わらずf5.6だ。
――カシャン!
先程、誰もいない公園に響いたシャッター音が再び小気味良く鳴った。
『? なんぞ? 今、何やら面妖な気配が立ち昇ったような……』
猫又は今しがた行われた瑠璃の儀式を眺めながら、微かな異変に気が付いた。
再び瑠璃が他の被写体を目標に、フラフラと歩き出すのを追う。
――カシャッ!
シャッター幕が下りる音が再び鳴った。
今度ははっきりと、猫又の眼に『妖気』が視えた。
瑠璃の精気をじわじわと、静かに吸い上げているような気配――。
その中心が、少女の手元にある“何か”にあると、猫又は直感していた。
『……これは……良くないのではないか?』
「にゃー!」
猫又は声をあげて瑠璃の足元に絡みついて鳴いたが、瑠璃は意に介さず新たな被写体を求めて歩き出した。
『……かくなる上は』
猫又は意を決して、瑠璃のカメラを持つ手に飛びつこうとジャンプをした。
「きゃっ! 危ないな……君、こんな事しちゃダメだよ」
猫又のジャンプは空振りした。瑠璃が猫の不審な行動にいち早く気が付き、咄嗟にカメラを持った手を万歳のように上げていたのだ。
『ぐぬぬぬ……おい、貴様。その娘から離れよ!』
「にゃにゃーっ!」
『何故、その娘に纏わり(まとわり)付いておるのか! ええい! 離れよ!』
猫又の雄叫びがカメラに向かって発せられた。
『……え? わし?』
猫又の叫びに、カメラが応えた。……いや、古びたMFレンズの奥底から、グリスの切れたヘリコイドが擦れるような、乾いた掠れ声が漏れたのだ。
♢ ♢ ♢
(さあ、下僕。わたくしのプリンを早く献上なさい)
――まただ。マヤさんは、僕の頭の中で騒いでいた。
事の発端は昨夜遅くのこと。マヤさんの「鬼気」に惹かれて現れた怪異――妖怪? まあ、「妖」とでも言っておこう――が、僕のいる施設に攻撃を仕掛けてきたのだ。
いつものようにマヤさんが「プリン契約」のもと、あっさり撃退してくれた。
そんなわけで、僕は今朝から「プリン」を連呼してうるさいマヤさんの為に、近くのコンビニまで買いに行く途中だった。
「……やれやれ……今月もお財布から飛んでいく……」
僕は項垂れながら、炎天下のアスファルトから立ち上る熱気に、うんざりとした気分で歩いていた。遠くで最近、鳴き始めた蝉の声が余計に暑さを助長させている気がする。
(あら、小さな”摘み(つまみ)”のようなおやつが……二つ……いますわね)
公園の入り口に差し掛かった時、マヤが不意にそんな事を言った。
♢ ♢ ♢
「あれ……あの後ろ姿は……」
瑠璃は撮影を中断した。公園入り口付近にいる、冴えない後ろ姿の少年に見覚えがあったのだ。
「せんぱーい!」
瑠璃が少し大きな声で呼ぶと、呼ばれた後ろ姿の信也が立ち止まり、辺りをきょろきょろしながらこちらを振り返った。
「あれ? 瑠璃ちゃん? どうしたのこんなところでっ! 珍しいねっ」
信也も少し大きな声で応えた。
瑠璃は小走りに信也の元へ向かった。
「これですよ、これ。期末試験前のリフレッシュです」
言いながら、瑠璃は襷状に掛けている、シルバーに反射するMF一眼レフカメラを見せた。
「……瑠璃ちゃん、僕と学校も違うし、この辺には住んでないよね……へえ、わざわざこっち迄来てカメラとかやるんだ。……凄いね。カメラ女子って言うんだっけ?」
信也は感心したように言った。
「へへへ……『カメラ女子』とか言われると、こそばゆいですね……」
瑠璃は少し照れたように笑う。
「そう? でも、いい趣味持ってるね。バイト代は写真に使ってるんだね。……フィルムってなんだかすごく高いらしいね。前にTVで見た事があるよ」
「そうなんですよ! 安くてもフィルムだけでも2000円くらいして、現像とかデータとか合わせると更に2000円くらいするから、もう大変なんです。最近はインデックス付けて現像のみにして、自分でフィルムをスキャンする環境を整えたばかりなんですよ」
瑠璃が食い入るように熱弁したが、当の信也は何を言っているのか全くわからないらしく、ただ「うんうん」と頷くばかりだった。
――シャーッ!
突如、猫の威嚇する声が聞こえ、信也は足元を見た。
毛を逆立てて凶悪な牙を見せつけるように、グレーと白のハチワレ猫がそこにいた。
「猫ちゃんが……怒ってる?」
信也が呟いた瞬間、猫又は狂ったような唸り声をあげて飛びかかってきた。
『この娘は、やらせはせんぞー!』
「へ?」
ガリガリッ!
「ひえええ!」
咄嗟に避けようとした信也だったが、猫の爪がTシャツを小さく切り裂いた。
「ちょ! 待って待って! 僕は瑠璃ちゃんに何もしないよ!」
『嘘をつくでない! 危害を加える気であろう! その「鬼気」が何よりの証拠ぞ!』
「にゃーごぉぉぉ! ごろにゃーぁああっ!」
猫又は叫んだ。
「いやいや、これは僕じゃなくてマヤさんの……て、……あれ?」
『? ……うん? ……お主……もしかして?』
一人と一匹の会話が、突然ピタリと止まった。
その静寂を破ったのは、無邪気なまでの歓喜の声だった。
「先輩……猫ちゃんとお話しできるんですか!」
目の前で繰り広げられる攻防を黙って見ていた瑠璃が、瞳をキラキラと輝かせて叫んでいた。
今後は毎週金曜日19:10更新予定となります。
少し執筆ペースを調整しつつになりますが、引き続き楽しんで頂ければ嬉しいです!




