暗雲陽炎 4.
――視界の端で、拓馬が無残に打ちのめされている。敵はあまりにも規格外だった。
山のような泥の拳や、刃が振り下ろされるたび、拓馬の放つ必殺剣は通用せず、彼は吹き飛ばされながら何度も堪えていた。
(……無様ですわね。せっかくのヒーローが、ボロ雑巾のようですわ)
このままでは全滅だ。
「マヤ……さん……」
僕は動かない喉で、必死に呼びかけた。
「……プリン……。七、個……」
(あら?)
「全部、限定の……一番高いやつ……買って、くるから……。アイツを、倒して……!」
(まあっ!)
少し興奮したようなマヤの声。
刹那。
僕の内側から、爆発的な「闇」が噴き出した。
マヤが、僕という依り代を通じて、その真の力を現世へと呼び戻す。
(うふふ、交渉成立ですわね。……少しだけ、頑張ってみますわよ)
マヤの不敵な笑みが、僕の唇を借りて形作られた。
同時に、僕の背中から噴き出した漆黒の鬼気が、天を覆い尽くすように拡散していく。
ジリジリと肌を焼いていた六月の太陽が、一瞬にして遮断された。
昼間だというのに、辺りはまるで宵闇が降りてきたかのような仄昏さ(ほのぐらさ)だ。
先程まで降り注いでいた熱気が嘘のように消えた。
広場は、物理的な光さえ届かない「マヤの疑似空間」へと塗り替えられていく。
「さあ、わたくしのおやつの時間ですわよ。……覚悟なさい」
闇の底から、凛とした、けれど死を運ぶ少女の声が響く。
「――マテリアライズ」
漆黒の闇の中から、ニコさんのそれとは比較にならない、本物の「鬼」の気配が立ち昇った。
♢ ♢ ♢
降り注ぐはずの初夏の日差しは、今や厚い暗雲に遮られ、公園には不気味な薄闇が満ちていた。
『贋作羅刹』を掲げた(かかげた)泥の巨人が、満身創痍の拓馬へと最後の一撃を振り下ろす――その刹那だった。
スッ、と。
あまりにも場違いな、凛とした足音が響いた。
「無様ですわね……まあ、よく頑張りましたかしら? お小水の坊や」
跪く(ひざまずく)拓馬の横を、涼しげな顔をしたゴスロリ姿の美少女、マヤが一瞥もくれずに通り抜けていく。
拓馬は血に染まった視界の中で、信じられないものを見る思いでその背中を仰いだ。
「な!? ……お、お前…………待て……ぐっ」
「黙っていらして。騒ぐと舌を噛みますわよ?」
マヤは振り返りさえしない。
彼女の歩みに合わせ、周囲の空気が凍り付くような「静寂」に塗り替えられていく。ニコさんが放つ吐き気のするような腐臭も、絶望的な圧迫感も、彼女の数歩前で霧散していくのだ。
(ガァ、ギ……ギギギィィッ!!)
怪異ニコさんが、本能的な嫌悪感を露わにして咆哮した。
泥の腕が振るう『贋作羅刹』が、黒い雷光を撒き散らしながらマヤの脳天へと直撃する。
ドォォォォォンッ!!
アスファルトが砕け、土煙が舞い上がる。
拓馬が声を上げようとした。だが。
「……あら。その程度? 期待外れも甚だしいですわね」
土煙の向こう側。
マヤは右手の指先だけで、巨大な漆黒の刃を受け止めていた。
正確には、刃に触れてすらいない。彼女の手のひらの数ミリ手前で、暴力的な鬼気の塊が「絶対的な壁」に拒絶され、悲鳴を上げている。
「偽物は、所詮偽物。その汚い泥ごと、掃き溜めへ帰して差し上げますわ」
マヤの瞳が、深紅に燃え上がった。
彼女の全身から、ニコさんのものとは比較にならないほど純度の高い、そして苛烈な「金剛の覇気」が立ち昇る。
「金剛滅鬼――邪鬼滅殺」
マヤが静かに、左手を突き出した。
「剛掌――」
突き出された掌底が淡い光を帯びる。
「――鎧破」
刹那、眩い閃光が辺りを包み込んだ。
それは打撃ですらなかった。空間そのものを押し潰すような、概念的な破砕。
ドシュゥゥゥゥゥゥッ!!
衝撃波がニコさんの巨体を真っ向から貫いた。
山のような泥の塊が、内側から爆発するように四散していく。ニコさんの「ガワ」だったボロ布が千切れ飛び、合体していた『贋作羅刹』の刀身に、ピキリと無数の亀裂が走り天高く吹き飛んだ。
(グ、アガ……ギ、ギィィイイイイァァアッ!!)
悍ましき(おぞましき)絶叫が響き渡る。ニコさんの核となる怨念が、必死に泥を繋ぎ合わせ、マヤを呑み込もうと触手を伸ばした。
だが、マヤはフッと冷たく微笑むと、その場から忽然と姿を消した。
「遅いですわ」
次の瞬間、マヤはニコさんの背後、宙空にいた。
彼女の指先が、空中に不可視の紋章を描き出す。
「煌めく(きらめく)紫電の残滓……少しだけ、龍脈から拝借しますわ――」
そう言うと、小さな光の数々がマヤを中心に集まりだした。
マヤの右手の刀印から「破邪の気」が増幅され、一条の閃光へと形を変えた。それは、かつて放たれた伝説の秘剣――その断片を思わせる、鋭利な殺意の白き輝き。
「散りなさい。塵芥が」
一閃。
空中でマヤが右手を振り抜くと、闇を切り裂く白き閃光が、公園のすべてを真っ白に染め上げた。
……沈黙。
爆音も、泥の沸騰音も、すべてが消えた。
空を覆っていた疑似空間の闇がガラスのように砕け散り、再び初夏の強烈な太陽が顔を出し始めた。
着地したマヤの周囲には、ニコさんの破片一つ、漆黒の霧一片すら残っていない。
ただ、湿った風だけが何事もなかったかのように吹き抜け、分厚い暗雲が割れてどこまでも続く青空が広がっていた。
「ふぅ……。少し、お行儀が悪すぎましたかしら? おやつを完全に消滅させてしまいましたわ……」
パンっ、と。
マヤは何処からともなく薄紅色の扇子を開き、ジリジリと照りつける日差しを遮るようにかざした。
「忌々しい日差しですこと……」
マヤはパッパとゴスロリ衣服の塵を払うと、気絶している美咲や、呆然とこちらを見ている拓馬には目もくれず、一瞬にしてその『ゴスロリ姿の美少女』の顕現を解いた。
すうっと輪郭がブレたかと思うと、そこには見慣れた男子高校生――信也の身体が立っている。
だが、その瞳はまだ妖しく朱色に発光していた。
「さあ、今宵はプリンパーティーですわよっ」
信也の身体を借りたマヤが、扇子を片手に張り切って言う。
直後、ふっと力が抜けたように朱い瞳が本来の『黒』へと戻った。
「……そうですね……」
意識を取り戻した信也は、全身を襲う虚脱感に耐えながら、心からの感謝を込めて胸の内に応えた。
(……あらあら、下僕。そんな顔をしても、プリン7個はまけませんことよ)
脳内に響くマヤの声は、最高に上機嫌であった。




