暗雲陽炎 1.
キンキンに冷えた車内。
外は六月の強い陽射しがアスファルトを焼き、陽炎を立ち上らせている。だが、このイタリア製の小型車のキャビンは、完璧な静寂と適温に保たれていた。
拓馬は、サソリの紋章が刻まれた小径ステアリングに、そっと手を添えた。
お洒落でコンパクトなボディーラインは街並みに映える可愛らしさがあるが、その中身はコーナーを最速で駆け抜けるためにチューニングされた凶暴なワインディングマシンだ。街乗り用の「足」ではない。山道を蹂躙するための『モンスター』だ。
助手席に固定されたタブレット端末には、凛のバイタルデータと、廃墟広場の霊子センサーのグラフが刻一刻と変化している。
「……心拍数上昇」
凛の竹刀袋に仕込まれた霊子デバイスが、異常な『鬼気』の接近を捉えていた。
画面上のグラフが唐突に、赤色の危険域へと跳ね上がる。
(……っ!?)
凛が携えた『贋作羅刹』。その実験段階の呪造刀が、持ち主の精神力を燃料に、対象を喰らおうと目覚め始めたことを告げている。
「始まったか。……さて、お手並み拝見といこうか、神代凛」
本来なら、一般人である島村美咲をこの危険な戦域に立たせるなど、拓馬の合理主義が許すはずもなかった。
だが、昨夜の凛の言葉が、彼のブレーキを辛うじて踏みとどまらせていた。
『彼女こそが、狭間信也を「こちら側」に繋ぎ止める、暴走を防ぐ唯一の重し……セーフティです。……今はまだ、あの男を完全に化け物にしてはいけない。そうでしょ、兄様?』
凛の主張を、今は信じるしかない。
『それに、怪異が「都市伝説」として広まっている以上、一般人の視点(美咲)がどう反応するかをデータとして取る必要があります。彼女は、現代の闇がどこまで浸食しているかを測る、最高精度のセンサーです』
凛の時折見せる機械のような冷徹さ。その感情の欠落に、拓馬はゾクリとした。「いざとなったら俺が全員力ずくで救い出せばいい」――今回に限って、彼はその不本意な「否」を飲み込んだのだ。
拓馬は苦い記憶を振り払うようにサングラスをかけ直すと、イグニッションキーを回した。
瞬間、およそその外見からは想像することが難しいほどの咆哮が、山道の静寂を切り裂いた。野太いエキゾーストノートが峠に谺し、空気を震わせる。
アクセルを軽く踏み込むと、研ぎ澄まされた足回りがアスファルトを正確に捉え、木陰に潜んでいた白い車体が弾かれたように滑り出した。
「……死なせるなよ、凛。それがお前の役割だ」
各コーナーを異次元の速度で駆け抜けながら、拓馬は『サンシャイン・ランド』へとその牙を向けた。
♢ ♢ ♢
じりじりと肌を焦がすような太陽の下、僕たちの時間は完全に凍りついていた。
不気味に首を揺らしながら近づいてくる『ニコさん』の着ぐるみ。
中には誰も入っていないはずなのに、極めて人工的で、確かな「意志」を持ってこちらへ歩み寄ってくる。
(あら、おやつがノコノコ出てきましたわよ。うふふ)
全身の毛穴が粟立つような僕の恐怖とは裏腹に、脳内でマヤが弾んだ声を上げた。
まるでショーウィンドウのケーキを眺める少女のような、無邪気で、ひどく残酷な歓喜。
「美咲ちゃん、下がって……!」
僕が声を絞り出すより早く、神代さんが動いた。
肩から提げていた竹刀袋を乱暴に払い落とす。中から現れたのは、光を吸い込むような漆黒の鞘に収められた一振りの日本刀だった。
神代さんの華奢な身体が、疾風のように弾けた。
廃墟のひび割れたコンクリートを蹴り、一気にニコさんとの間合いを詰める。
流れるような抜刀。
――キィィィン!
耳を劈くような、金属同士が擦れ合う微かな「鳴き」が広場に響き渡った。
その瞬間、空気が劇的に変わった。
真夏の熱気が一瞬にして凍りつき、圧倒的な「飢え」と「殺意」が空間を支配する。
神代さんの手にある一振りの刃が、獲物を前にしてその本性を現した。
(……ああ、嫌な匂いですわ。安物の模造品の分際で、いっちょ前に喰い意地だけは張っている)
マヤが不快そうに、けれどどこか楽しげに毒づいた。
マヤの放つ絶対的な捕食者の気配と、神代さんの手にある刀の飢餓感が、僕の中で不気味に共鳴していた。
(……何だ、この感覚?)
「はぁっ!」
神代さんの渾身の気合いと共に、血管がのたうつような禍々しい刃紋を持つ刃が、ニコさんの巨大な頭部めがけて横薙ぎに一閃された。
ズリュッ……!
肉を断つのでも、布を裂くのでもない、ひどく不快な音が響いた。
ニコさんの首筋から胸にかけて、深く切り裂かれた傷口。
だが、そこから溢れ出したのは赤い血などではなかった。
ボトボトとこぼれ落ちたのは、古い綿と埃。そして、コールタールのように黒く濁った、人間の「未練」が凝縮されたような泥だ。強烈な腐臭が辺りに立ち込める。
「……ッ!」
神代さんが素早くバックステップを踏み、刀を正眼に構え直した。
斬られたニコさんは、倒れるどころか体勢を崩すことすらしていなかった。
べちゃり、べちゃりと黒い泥をこぼしながら、中身のないグラスファイバー製の瞳が、ゆっくりと神代さんを捉える。
その口元には、狂気じみた満面の『笑顔』が張り付いたままだった。
♢ ♢ ♢
「闇より生まれし 彷徨える魂
我が鎮魂の音に耳を傾け
その荒ぶる鬼を浄化せよ
森羅万象の理に基づき 在るべき姿へ
隠形なる者を封殺する」
霊言実動。
――スーッと静かに呼吸を整えると、凛は正眼に据えていた『贋作羅刹』を上段に構える。
ぬいぐるみの怪異、ニコさんはゆっくり凛へと迫る。
「……裂空十文字!」
凛の瞳がカッと開いた刹那。電光石火の踏み込みと同時に真空十字の斬撃が放たれた。




