青天残滓 5.
日曜日。
世界を焼き尽くさんばかりの強烈な陽光が、六月の湿り気を帯びた空気をじりじりと熱していた。
「……これが……」
神代凛は、冷房の効いた自室で一人、届けられたばかりの黒い桐箱を見つめていた。
送り主の名はない。ただ、彼女が所属する「組織」の刻印――八稜鏡を象った紋章だけが、古めかしい木肌に深く刻まれている。
蓋を外すと、そこには一振りの日本刀が横たわっていた。
鞘は、光を吸い込むようなマットな漆黒。だが、凛がその柄に手を掛け、わずかに刃を引き抜くと、部屋の空気が一瞬にして凍りついた。
キィィィン、と。
耳鳴りのような、金属同士が擦れ合う微かな「鳴き」が響く。
姿は美しい。だが、それは神仏を祀るための御神刀とは根本的に異なっていた。
刃紋は不規則にうねり、まるで血管がのたうち回っているかのような禍々(まがまが)しさがある。
「実験段階の呪造刀――『贋作羅刹』」
折れた御神刀の代わりとして、組織が禁忌を冒して打ち上げた模造品。
持ち主の精神力を燃料に、対象を斬るのではなく「概念ごと喰らい尽くす」ために作られた凶器だ。
背筋に冷たいものが走る。
「――羅刹の模倣刀……ですが、どうしてこんなにも、恐怖の念にも似た禍々しさが浮かび上がってくるのですか……」
冷たく光る贋作羅刹を前に凛の硝子玉のような瞳が、その不協和音に呼応するように微かに揺れた。
凛は鞘に刃を戻すと、重い溜息を吐き、壁に立てかけていた竹刀袋にそれを隠した。
指先には、まだあの刃が放った「飢え」の感覚がべっとりと残っている。
「でも今は……待っていなさい、ゴス鬼。……そして、狭間信也」
凛は苦渋に満ちた表情で、己に言い聞かせるように唇を噛みしめた。
♢ ♢ ♢
「う~……暑い……。ねえ、本当に道はあってるの?」
美咲ちゃんが、ハンカチで額の汗を拭いながらうんざりした声を上げた。
新緑の生い茂る閉鎖された私道のチェーンを潜り抜け、僕たちはひび割れて年季の入ったアスファルトの道を歩いていた。
枯葉が溜まり、道幅がひどく狭く見える。人が通らなくなった山道とは、かくも容易く(たやすく)自然に呑み込まれるものらしい。
一見すると、僕たちはリュックを背負って歩くハイカーに見えるかもしれない。
だが、目的は違う。今日は美咲ちゃんお勧めの廃墟――最近、都市伝説界隈でまことしやかに語られる「着ぐるみ怪異、恐怖のニコさん」なる怪異譚の真偽を確かめるための心霊スポット探索だ。
意外にも、神代さんもこの誘いに乗ってきた。
……都市伝説に興味があるわけではなさそうだけど、彼女の立ち位置的に、何か「実害のある気配」を感じ取ったのだろうか?
彼女はリュックの他に、肩からいつも通り竹刀袋を提げている。中身はたぶん、アレだ。
僕の脳裏に、真剣を振るう神代さんの冷徹な姿がよぎった。
市街地からバスを二回乗り継いで四十分。さらに山道を歩いた先にある『サンシャイン・ランド』跡地を目指し、僕たちは進む。
バブル期に華々しく開園し、わずか十年で閉鎖された、絵に描いたようなレジャー施設の成れの果てだ。
「問題ありません。位置情報は既に頭の中で完全に再現されています。このまま道なりで着きます」
神代さんが、硝子玉のような冷たい視線を山の中腹へと見据えて言った。
事の発端は、美咲ちゃんが「オカ研、初の野外調査だよ!」とピクニック気分で言い出したことだ。
とは言え、言い出しっぺの美咲ちゃん自身が、今はもう「無理……」と言いたげな顔でスポーツドリンクをがぶ飲みしている。
「神代さんが言うんだから、間違いないんじゃないかな……」
僕は、先日の瑠璃ちゃんへの「オカ研勧誘失敗(全否定)」という精神的ダメージを隠しながら、努めて明るく答えた。
実のところ、脳内では朝からマヤが僕の失敗を思い出し、爆笑の余韻をずっと引きずっていて、ひどく頭が痛かった。
そんなに面白いかな? ……やっぱり、彼女は苦手なタイプの女性だ。
(ふふふ……小作人、そんなに落ち込むことはありませんわ。代わりと言っては何ですが、ここには良い「おやつ」が転がっていそうですもの)
『おやつって……。マヤさん、何か感じるの?』
(そうですわね……以前の、あの鏡の小蠅とは違います。もっと粘りつくような……そう、古い綿と埃を捏ねて、そこに人間の「未練」を塗りたくったような、低俗で醜い脂の匂いですわ)
『……低俗で醜い脂の匂い……ですか』
その言葉に、炎天下にもかかわらず、僕は背筋に冷たいものを感じた。
(――この地には龍脈が走っていますのね……だから低俗で弱いゴミ虫は、この廃墟の地に集まるんですわ)
マヤは一人納得したように言った。
『……龍脈?』
(ええ、……有象無象の俗物たちが、『ぱわーすぽっと』などという締まりのない言葉で呼んでいる場所のことですわ)
『はあ……パワースポットですか……?』
信也の「気の無い」返事も気にせず、マヤは続けた。
(要は力が流入してる場所……強すぎる力は人間には良くありませんのよ……現に廃墟になっていますしね)
そんな話を頭の中で、やり取りしていると凛が口を開いた。
「――着きました」
先頭を歩いていた神代さんが足を止める。
錆びついたチケット売り場。すっかり色褪せたマスコットの看板。
それらを、容赦のない快晴の空が、まるで「死体」を検死するかのように白日の下に照らし出していた。
陽の光は燦々(さんさん)と降り注いでいるのに、建物の裏側に落ちる影はやけに黒く、深い。「ザ・廃墟」という言葉が相応しい朽ち果て具合だ。
僕たち「オカ研」の調査が、これより開始された。
調査と言っても、今のところは園内に侵入してフラフラ歩いているだけだ。
美咲ちゃんは体力が回復したのか、スマホでパシャパシャと写真を撮りながらはしゃいでいる。
「……こんなに晴れた真昼間に、何か出るなんてことあるのかな?」
あまりの暑さと長閑さに、僕は知らず独り言を呟いていた。
「……わかりません。ただ、極めて異質な気配は感じます。……あそこ、トイレのような建物の茂みのあたり。撮ると何かが写るかもしれません」
神代さんが鋭い眼差しを向けながら言った。
「どこどこ! あそこ撮ればいいの?」
美咲ちゃんは目の色を変え、神代さんが指した方向へシャッターを切りまくった。
しばらく歩くと、パッと視界が開けた場所に出た。かつてヒーローショーなどのイベントが行われていたであろう、施設の中心にあたる広場だ。
そこには、子供たちを乗せて回っていたであろうメリーゴーランドが、時を止めたまま鎮座していた。
しかし、その光景は「異常」だった。
塗装が剥げ落ちた木馬たちの足元。
そこには、真新しい子供靴や、塾の通いバッグ、真っ赤なリボンといった学校の「忘れ物」と思しきものが、信じられないほど綺麗に並べられていたのだ。
まるで、誰かがこれから「儀式」でも始めるかのように、ミリ単位の狂いもなく。
さらに、それらの忘れ物を繋ぐように、蜘蛛の巣のような細い糸が張り巡らされていた。
「……何これ、誰かの悪戯? 整理整頓されすぎてて、逆に気持ち悪いんだけど……」
いつの間にか、美咲ちゃんが僕の腕を強く掴み、一歩後退していた。
「そ、それじゃあ、呼び出すお呪いを言って検証してみようか?」
嫌な空気を振り払うように、僕は二人に提案した。
「そうだね。……はい、これ」
美咲ちゃんがリュックから人数分のコピー用紙を取り出し、僕と神代さんに渡した。
そこには、ネットでまことしやかに囁かれている『ニコさん』の召喚ルールが書かれていた。廃園になった後、青空の下でニコさんの着ぐるみに遭遇すると、中身のない『笑顔』を移植されるというものだ。
「いい? 条件は、晴天の日の遊園地の真ん中で呼ぶこと! せーのっで合わせるよ!」
美咲ちゃんの合図に合わせ、僕たち三人は紙に書かれた言葉を読み上げた。
「「「ニコさん、ニコさん。今日の気分はどうですか?」」」
シーン……。
少しタイミングがズレた声が、虚しく廃墟に吸い込まれる。
何も現れない。……当然だ。
「じゃ、次のパターン行くよ! 今度はバッチリ合わせてね!」
美咲ちゃんが再び音頭を取った。
「「「ニコさんニコさん、天気が良いので一緒に遊びましょう!」」」
今度は、見事なまでにハモるように声が出た。
「では、儀式は済んだので、しばらくここで待機しながら検証を続けましょうか……」
神代さんが静かに言った。
その時だった。
キィィィ……と。
錆びついた回転木馬が、風もないのに一ミリだけ動いた。
木馬の陰。
そこから、一人の「男」がひょっこりと顔を出した。
いや――それは「人間」ではなかった。
容赦のない太陽の光を浴びて不気味に白光りする、巨大な頭部。
常時、満面の笑みを浮かべたまま固定された、グラスファイバー製の瞳。
この遊園地のかつてのメインキャラクター、『ニコさん』の着ぐるみだ。
「……ほんとに出た!」
美咲ちゃんが反射的に叫んだ。
ニコさんは、中身が入っていないはずの奇妙に軽い足取りで、ふらり、ふらりとこちらへ歩み寄ってくる。
「――誰かが脅かそうと思ってやってるのかな……配信者とかがさ」
「違います。……狭間信也、下がってください」
神代さんが竹刀袋を掴み、一気に間合いを詰めた。
青天の下、じりじりと焼け焦げるような廃墟に、張り詰めた沈黙が降りた。
♢ ♢ ♢
その様子を、少し離れた観覧車の影から、一人の青年が愉しげに眺めていた。
新調したばかりの仕立ての良いシャツを着た、佐竹恭平だ。
彼の背中では、シャツを内側から突き破らんばかりに、蜘蛛の脚のような黒い影が陽光を浴びて蠢いている。
「おいおい、バイト前の遠乗りで俺の『聖域』に帰ってみりゃ、面白い事になってるじゃねえか」
佐竹の瞳孔が瞬時に真っ赤に見開き、眼下の獲物たちを凝視した。
「――へえ、しかも誰かと思えば知った顔かよ……いいぜ、せいぜい派手にやってくれよ」
佐竹は、手にした「何か」――鈍く光る鏡の欠片のようなもの――をペロリと舐め、恍惚とした表情で呟いた。
彼の視線の先には、信也たちを待ち受ける「笑顔の地獄」が、快晴の空の下で静かに口を開けていた。




