青天残滓 4.
十二時半。聖和大学、文学部一号館の最上階。
水木純子は、民俗学研究室に向かっていた。
「……教授。お忙しいところ、すみません」
一礼して、純子は少し申し訳なさそうに研究室の重い扉を開けた。
室内には、古い和紙の匂いと、電子機器の熱気が混ざり合った独特の空気が停滞している。
「やあ、純子君。電話をもらった時は驚いたよ。どうしたんだい?」
デスクの上の山のような古文書から顔を上げたのは、小暮教授だ。白髪混じりの頭を掻きながら、彼は人好きのする柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。……あの、お電話した件です。これを見ていただきたくて」
純子は、ポケットから小さな包みを取り出した。
中から現れたのは、親指ほどの大きさの、黒く濁った鏡の破片。バイト先である『麺屋 烈火』の裏口、ゴミ捨て場の隅に落ちていたものだ。
「これ、以前に教授が考古学の資料として分析していた『東北の古墳から出土した鏡』の材質と、そっくりだと思ったんです。気になって……お忙しいのにすみません」
「ほう?」
教授はルーペを手に取り、デスクのランプの下でその破片を慎重に回した。
数秒後、彼の目が驚きに大きく見開かれる。
「……素晴らしい。純子君、君の目は確かだ。これはまさしく、例の『古き鏡』の同位体……いや、欠片そのものだと言ってもいい。……なぜこれがラーメン屋の裏になんて落ちていたんだい?」
「わかりません。ただ、拾った時に少し……冷たい感じがして」
純子は言葉を選びながら答えた。霊感があるわけではない。ただ、物理的な温度とは違う、心の裏側を撫でられるような嫌な感覚。
「ははは、歴史の重みというやつかな。だが、実に興味深い符合だ」
教授は上機嫌に椅子を回すと、デスクの端にあるタブレット端末を指差した。
「実はね、この鏡の材質については、私の古い友人である『芦屋』という男から調査を依頼されていたんだ。彼は鈴宮という由緒ある家系の遠縁でね。古い因習に囚われない、実に柔軟で合理的な考えを持つ優秀な学者だよ」
「……芦屋、さん?」
「ああ。彼から相談を受けていたんだよ。『龍脈の淀んだ場所に、ある種の共鳴物質を配置した場合、周囲の磁場や人間の精神にどう影響するか』……。私は民俗学的な観点から、結界の理論や、この地域に伝わる古い学校の怪談――いわゆる『鏡鬼』の伝承などをデータとして彼に提供したばかりなんだ」
教授の言葉に、純子の背筋を冷たいものが走った。
「教授……その芦屋さんという方は、まさか、その実験を『実際の学校』で行おうとしているんじゃ……?」
昨日、夕方の『烈火』。
オカルト研究会を立ち上げると言って騒いでいた、バイトの後輩である信也くんや、彼の幼馴染の島村美咲ちゃん、そしてどこか冷たい空気を纏った神代凛さん。
彼らが話してくれた『旧校舎の鏡の怪異』という噂話が、教授の語る「学術シミュレーション」の内容と酷似していた。
「まさか。芦屋君は少しばかり研究熱心すぎるきらいはあるが、教育現場を危険に晒すような真似はしないさ。あくまで仮定の話だよ、純子君」
教授はあっけらかんと笑った。その瞳には一点の曇りもない。
彼が提供した知識と知恵が、芦屋という男の手によって「被験体0号――狭間信也」の中の「美麗の魔性」を炙り出すための実験場として利用されたことなど、夢にも思っていない。
「……そうです、よね。変なこと聞いてすみません」
純子は無理に微笑んだが、手元にある鏡の破片を見つめる目は、疑念に揺れていた。
なぜ、旧校舎で砕け散ったはずの「実験の残滓」が、信也のいる『烈火』の裏に落ちていたのか。
まるで、意思を持った鏡の破片が、信也の中に潜む「何か」に引き寄せられたかのように。
「さて、この破片についても芦屋君に報告しておこう。彼もきっと喜ぶ。……ああ、そうだ。この件はまだ、他言無用だよ? 貴重な研究材料だからね」
「……はい。わかりました」
研究室を出る純子の足取りは重かった。
昼だというのに外は、不自然なほど静まり返った曇天だった。
バイトの後輩である信也の穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。
純子は祈るように「何もなければいいけど……」と、自分の手を強く握り締めた。
♢ ♢ ♢
「ありがとうございましたー!」
暖簾をくぐり退店するお客さんの背中を見送りながら、僕は精一杯の声を出した。
今日の『烈火』はピークタイムを過ぎてもなお回転率が悪く、お客さんの入りが少ない。
やっぱり僕がいると回転率が下がるのかな……。
ドン!
いきなり僕の背中に衝撃が走った。
「おい信也! ボケッとしてないでテーブルのバッシングして来いよ」
佐竹先輩だ。今日は不運にも彼とシフトが一緒だった。
「あ、はい! 今行きます」
「やっぱ、お前がいると客の入りが悪いんだよな……お前の隠してるものがヤバいんじゃねえのか」
ニヤニヤしながら、佐竹先輩は僕のうなじの匂いを嗅ごうと鼻を近づけてきた。
――やっぱり怖い。何だ……以前より変な感じがする。
「――す、すぐ片づけます!」
逃げるように、僕はお客さんが去ったテーブルの片づけに向かった。
「あ、ホールは私がやります。狭間さん、大将が食器溜まってるから食洗機回してって言ってました」
厨房から出てきた高木瑠璃ちゃんが、スッとバッシングに入ってくれた。
「あ、はい。よろしくね」
僕は逃げ込むように厨房へ急いだ。
お湯を張ったシンクの中には、どんぶりが所狭しと突っ込まれていた。
「このぐらいなら、数回食洗機を回せば終わるか……」
僕がそんな独り言をこぼした、その時。
キーン!
突然、脳の奥で鋭い耳鳴りがした。
(小作人、相も変わらず、今日もせっせと労働に勤しんでいますのね)
マヤが退屈そうに念話で話しかけてきた。
酷い言い草だ。
(あの娘……少し特殊な気配を纏っていますわね。この間までは感じなかった筈ですけれど)
マヤが気になる事を言った。
『えっ! どういう事ですか?』
(まあ、大した事ではありませんわ)
『この間の僕たちみたいに、変な事に巻き込まれたりしないですよね?』
(あら……ご心配なら、例の”オカ研”にでもお誘いになればよろしくって? ……わたくしもデザートが増えるのは大歓迎ですわ)
マヤは意地悪そうに嗤った。
『いや……彼女は学校も違うから無理じゃないかな……』
(まあ、それはお好きになさいな。少し気配が違う程度なので、下僕が思うような危険は無いと思いますわよ)
マヤのそっけない返事を聞いて、僕は少し安心した。
それよりも、佐竹先輩の方がまずいのではないだろうか。
以前の件もあるのでマヤに聞いたことがあるが、当のマヤは『「駄犬」の「澱み」如きで今すぐどうのこうのなんてありませんわ。アレはわたくしの支配下に在るようなモノだから心配いりませんわ……最高のデザートを育てるのも一興ですのよ』などと、訳の分からない事を言って嗤っていた。
「おい、信也。瑠璃。上がりだ!」
大将の村上さんの声が、作業中の僕に飛んできた。
「あ、はい。お先に失礼します」
僕は作業が中途半端にならないよう、洗い終わった食器を食洗機から取り出しつつ慌てて返事をし、厨房を出た。
更衣室の前では、着替え終わった瑠璃ちゃんがタイムカードを打刻している最中だった。
「お疲れ様、瑠璃ちゃん」
「お疲れ様です」
瑠璃ちゃんは、そのまま外へと続く扉に手を掛けた。
「――そ、そうだ、瑠璃ちゃん。今度うちの学校で、オカルト研究会っていう同好会を立ち上げたんだけど……もし興味があったら顔でも出さない? 身近にある不思議な体験とかあるなら聞かせてほしいし……」
先程のマヤの言葉を思い出し、僕は咄嗟に瑠璃ちゃんをオカ研に勧誘してしまった。
しどろもどろなところが、我ながら情けない……。
「……オカ研ですか? なんかそれ、あやしい勧誘ですね」
瑠璃ちゃんは扉に手を掛けたまま、胡散臭いものでも見るような、冷ややかな目で僕を振り返った。
「そ、そう……? 学校違うけど、同好会だしね……結構、緩いと思うよ。それに不思議な体験とかあれば……」
「すみません」
瑠璃ちゃんは僕の言葉を冷たく遮った。
「私そういうのは全然興味ないんです。お疲れ様でした」
バタン、と容赦なく扉が閉まる。
「……ですよねぇ……」
僕はひとり、虚空に向かってため息交じりに呟いていた。
(あはははははははは! 見事に振られましたわね。まさか本当にお誘いするなんて思いもしませんでしたわ)
マヤの愉快そうに嗤う声が、脳裏にいつまでも鳴り響いていた。
僕も、そう思う……。
♢ ♢ ♢
「お疲れ様でしたー!」
「おう、お疲れっ」
佐竹は厨房でワンオペする大将に大きな声で挨拶すると、更衣室に向かった。
手早く着替えを終えた佐竹恭平は、タイムカードを打刻して『烈火』の裏口から外へ出た。
駐輪場には佐竹の愛車であるチェレステカラーのロードバイクと、大将の駆るアメリカンバイクが止まっている。
コトンッ。
鼻歌を歌いながら愛車のロックワイヤーを外していた時、背後で微かな音がした。
普通なら気にも留めないような小さな音だが、何故か佐竹の耳にはやけに大きく響いた。
「ん? 何か落ちてきたか……」
佐竹は出入り口の薄暗い地面を凝視した。
キラリと光る、黒い親指ほどの欠片。それがまるで、佐竹を誘き寄せるように妖しく揺らめいて見えた。
「何だこれ? ……鏡?」
佐竹はそれをヒョイと指でつまみ上げた。
途端に、微かに鼻孔をくすぐる芳醇な匂いが漂ってくる。
よく見ると、黒光りするソレの奥底で、仄暗く鈍い朱い光が、細く嗤ったような気がした。
「……あぁん?」
佐竹は突然、不快そうに眉をひそめて欠片を睨みつけ、指先にギリッと力を込めた。
ピシピシと黒い表面にひび割れが生じ始める。
欠片の中の朱い光が、佐竹の放つ異様な「澱み(よどみ)」に怯えるような気配を出した、その瞬間。
「いただきまーす」
佐竹はペロリとソレを舌の上に乗せ、生唾ごとゴクリと飲み込んだ。
「おお! 結構、美味いじゃねーかよ」
満面の笑みを浮かべた佐竹は、何事もなかったかのように自転車に跨り、夜の路地へと走り出した。
去り行く佐竹の背中に、蜘蛛の巣のような禍々しい文様の霧がどろりと広がり――一瞬で夜の闇に溶けて消えた。
それはまるで、彼の内側で何かが孵化したことを告げるかのような、異常な現象だった。




