青天残滓 3.
その夜、リビングは、底冷えのするような沈黙に包まれていた。
拓馬は一人、ソファに深く身を沈めている。
壁に掛けられた数台のモニター――索敵範囲を広げたその画面を、ただ虚ろに眺めていた。
網膜に焼き付いているのは、本部のPC画面に映し出された少女の姿。
そして、鈴宮の狂気を含んだ笑みだ。
(……あの鬼神、「美しき魔怪」が何だというのだ? 「鬼」は狩るべき存在だ)
かつて氷室の先祖が命を賭して狩り、封じてきた魔性の化け物。それが鬼だ。だが、アレは異常だ……あの少年に現れたアレは一体……。
(――『被験体0号』。あの少年を我々はそう呼んでいる)
拓馬に与えられた権限では、『0号』が何なのか調べる事すら出来ない。
現に一般人が巻き込まれている。それなのに、組織は「監視」のみを命じた。
間違いない。執行官・鈴宮亮志は何かを知っている。あまつさえ、拓馬の一族の過去さえも嘲笑した。
(やはり行方不明の「金剛羅刹」が関係しているのか?)
しかし、「羅刹」は一振りの刀だ。確かにあの鬼神は尋常ならざる力を有しているが……あれは「鬼精体」の”顕現体”だと拓馬の感覚は告げている。
鬼に寄生された少年を「0号」。通常、キャリアーをそんな番号では呼ばない。
(「被験体」? 一体何のことだ……)
「……くそっ」
絞り出すような毒づきが、薄暗い部屋に消える。
守るべき対象が目の前で被害に遭っているというのに、動くことすら許されない。氷室の血が、誇りが、屈辱に震えていた。
ガチャン、と玄関の鍵が開く音がした。
凛が帰ってきたのだ。拓馬は努めて冷静を装い、背筋を伸ばした。
背中を預ける者として、また「闇風」の同じ任務に就く者として、彼女に情報の共有をせねばならない。あの少年――狭間信也の危険性を。
「……帰ったか、凛。遅かったな」
リビングに入ってきた凛は、いつもの硝子玉のような冷たい瞳こそ変わらないものの、どこか普段より足取りが軽いように見えた。
だが、拓馬はそれに気づかないフリをして、重々しく口を開いた。
「凛、座れ。……昨夜の報告の件だが。組織の決定は『監視の継続』だ。だが、俺はアレを、あの少年の内に潜むモノを信じていない。アレは間違いなく神話級の――」
拓馬がそこまで言った時だった。
ふわりと、リビングの空気が変わった。
殺伐とした鬼気でも、緊迫した魔瘴でもない。
それは……食欲をそそる、濃厚な醤油と背脂、そして微かなニンニクの香り。
「兄様、すみません。話は後でいいですか?」
凛は自分の鞄を置くと、パタパタと手で顔の周りを扇いだ。
「さっき、駅前の『麺屋 烈火』で食べてきました。……服に匂いついちゃいましたか」
「……れっ、か?」
拓馬の思考が、一瞬だけ停止した。
「肯定です、あの『麺屋 烈火』です」
つい先日、迷い込んだ「異界」で繰り広げられた、ラーメンバトルの記憶が鮮明に甦る。
「何! また、あの店に辿り着けたのか?」
「はい。放課後、狭間信也……それと島村美咲と、あのお店のテーブル席で一時間程話し込んできました。今日から私、彼らと一緒に『オカルト研究会』を立ち上げることになりました」
「へ? お、……オカ研……?」
「はい、オカ研です。……そうだ、報告。『狭間信也』については、私が一番近い場所で監視することにしましたから安心してください。明日から、彼の隣の席に移動します」
凛は淡々と、まるで明日の天気予報でも伝えるかのようなトーンで言い放った。
「――な、隣の席で、だと? い……いや、その前に、何だその決起集会のようなものは!」
「……そう言ったつもりでした。狭間が島村美咲に押し切られて。……島村美咲、あの女、なかなかの策士です。彼を上手くコントロールしています。私もあの中に入り込まないと、正確なデータが取れないと判断しました」
凛はクンクンと自分の袖を嗅ぎ、「やっぱり少し脂臭いです」と眉を寄せた。
「ま、待て……その島村美咲とは、昨日拉致された女生徒ではないのか? それに狭間信也が学校にきたのか?」
多角的な情報が多すぎて、拓馬の頭は既に混乱気味だ。
「肯定です、狭間信也は普段通り登校してきました。島村美咲は夕べ誘拐された子で間違いありません」
待て待て待て! 何がどうなっているんだ? ……凛の状況からすると、事は急を要してはいないようだが……拓馬の頭は爆発寸前だ。
「とにかく、そういうことになりました。……あ、烈火の煮玉子、兄様好きでしょ? 今度、買ってきてあげます」
「いらんわ! ……いや、そういう話ではない!」
間髪入れずの返答。
拓馬は立ち上がり、頭を抱えた。
自分は今日、人類の存亡に関わるような絶望と対峙し、闇風の暗部を垣間見て、氷室の誇りを傷つけられて帰ってきたのだ。
それなのに、凛は。
あの大災厄の種である少年とラーメンを啜り、拉致された少女と同好会を作り、煮玉子の話をしている。
「……凛。お前、自分が何を言っているか分かっているのか? あれは……あの少年は……」
「わかっていますよ。だから『監視』なんです」
凛は自室へ向かいながら、振り返らずに言った。
「夕食、大丈夫です。……おやすみなさい、兄様」
パタン、と軽やかな音を立てて凛が自室に籠った。
残されたリビングには、豚骨醤油ラーメンの残り香と、完全に虚を突かれ、研ぎ澄まされていた戦意を瓦解させられた拓馬だけが取り残されている。
「……魔性の、鬼神……は、はは」
拓馬はもう一度、呟いてみた。
――ピキッ!
だが、先ほどまでの緊張感はどこにもない。
――ピシィィィ……
脳裏に浮かぶのは、マヤの冷酷な美貌ではなく、湯気の向こうでメガネを曇らせラーメンを啜っている信也の、どこか情けなくマヌケな姿だった。
――ガシャアァン!!
拓馬の心の中で、何かが音を立てて壊れた。
それは氷室の誇りか、あるいは「闇風」としての理性が限界を迎えた音だったのかもしれない。
そして、今日も「麺屋 烈火」は繁盛していた。




