暗雲陽炎 2.
「!? なになになになにぃっ!?」
美咲はパニックになりそうな頭を必死に抱え込んだ。
信也に「下がれ」と叫ばれ、広場から少し離れた公衆トイレの陰まで走って隠れたものの、頭の中は疑問符で埋め尽くされている。
後ろ髪を引かれる思いで、美咲は乱れた息を整えながら、コンクリートの壁越しにそっと広場を覗き見た。
全力で走ったせいで、シャツが汗で背中に張り付いてひどく気持ちが悪い。夏目前、六月の熱気と、それ以上に異様な『冷気』が肌を粟立たせる。
「……ニコさん、だよね? 神代さんが、あの不審者と戦ってる……?」
非日常すぎる光景を前に、美咲はただ静かに息を呑むことしかできなかった。
♢ ♢ ♢
放たれた真空十字の斬撃は、ニコさんの胴体にズバッと無慈悲な十文字を刻み込んだ。
衝撃を真正面から受けたニコさんの巨体から、真っ黒な飛沫が噴き上がる。いや、やはりあれは血ではない。コールタールのような泥だ。
だが――それほどの致命傷を負いながらも、ニコさんは身じろぎ一つせず、再びゆっくりとこちらへ歩みを進めてくる。
「……っ!」
着地した神代さんの足が、もつれたように大きくたたらを踏んだ。
いつも涼しげな彼女の顔が苦痛に歪み、肩で激しく息をしている。たった一撃を放っただけだというのに、まるで何日も徹夜で戦い抜いたかのような、異常な疲労困憊ぶりだった。
「うっ! なんだ、今の変な感じ……?」
僕もまた、神代さんの斬撃が炸裂した瞬間に、胃袋をかき回されるような強烈な嫌悪感を覚えていた。
(ふん、やはりあんな気配の『鬼気』では、中途半端な傷しか付けられませんわね)
脳内で、マヤが忌々しそうに吐き捨てる。
『鬼気? マヤさん、どういうことですか!?』
(簡単な事ですわ。あの娘、自分の振るっている得物に己の霊力や体力を根こそぎ喰われているんですのよ。……しかも、刀との相性が最悪なのか、喰わせた分の見返り(威力)が全く出ていませんことよ)
『それは一体……?』
(あの刀……酷く悍ましい『鬼気』を発していますの)
『つまり!?』
(――己の命を燃料にして『鬼気』を増幅させ、強引に力を顕現させようとしているようだけど……まるで機能していませんわね。あの刀、主を喰い殺す気ですわ)
迫りくるニコさんに対し、神代さんは弾かれたように右へ跳躍し、体勢を立て直して刃を下段に構えた。
彼女は意を決したように、抜き身の禍々しい刀身を一度、漆黒の鞘へと納める。
そして、流れるような体捌きでニコさんの背後を取るべく疾走した。
ニコさんもゆっくりとその動きに反応し、神代さんを正面に捉えようと巨体を回し始める。
だが、神代さんの踏み込みが一呼吸早かった。
死角を突いた瞬間、彼女の指の間に鈍い光を放つ三本のクナイが挟まれていた。
トトットン!
瞬きする間もない連続投擲。クナイは音もなく、ニコさんの背中から右わき腹にかけての三カ所へ深々と突き刺さる。
神代さんはすかさず、さらに一本のクナイを逆手に握りしめ、両手で複雑な印を組んで叫んだ。
「――呪束!」
裂帛の気合と共に、手にしたクナイを足元のコンクリートへ深々と突き立てる。
刹那。
打ち込まれた四つの点を結ぶように、ニコさんを中心に逆五芒星の呪光が走り、『界』が完成した。走りながらすでに布石を打っていたのだ。
グラリ、と。
ニコさんの足が縫い止められたように止まり、ついにその巨体が片膝を突いた。完全に動きを封じ込めたのだ。
ここぞとばかりに、神代さんは極端に姿勢を低く落とし、抜刀術の型を取る。
直後、彼女の身体から莫大な霊力が溢れ出し、美しい桃色のオーラとなって立ち昇った。
神代流の極致――闘霊真気。
だが、その美しき気迫は、手にした『贋作羅刹』から噴き出した漆黒の霧に、無惨にも喰い破られ、黒く黒く浸食されていく。
(あらあら。これで決めなければ、あの娘、干からびて死にますわよ)
マヤが、まるで対岸の火事でも見るような悠長な声を出した。
『! 死ぬってどういうことですか!』
(二撃目はもう打てないって事ですわ。……そもそも一撃必殺の居合いなのでしょうし。自分の命を根こそぎ喰わせて放つ最後の一太刀。良い気概ですわ)
どことなく、マヤは満足したような、残酷な響きを含んだ声で笑った。
「神代流抜刀術奥義……」
神代さんの全身を包んでいた黒いオーラが、一気に鞘の中の『贋作羅刹』へと圧縮・吸い込まれていく。限界まで張り詰めた空気が悲鳴を上げた。
――チンッ!
「……真空焔刃、不知火!!」
鞘口を切る甲高い音と共に、すべてを焼き尽くす炎の真空刃が、加速度的にニコさんへと襲い掛かった。
――斬っ!
刹那なる永遠。
片膝を突いたニコさんの胸部に、真っ赤な一筋の「線」が引かれた。
神速の抜刀。誰もその太刀筋を目で追うことなどできなかった。
バッ、と残心の姿勢から刃についた汚れを払い、神代さんは漆黒の鞘に禍々しい刀身を滑り込ませる。
カチャリ――。
広場の静寂に、冷ややかな鍔鳴り(つばなり)の音が響いた。
ゴウッ!!
直後、一文字に斬り裂かれたニコさんの傷痕から、凄まじい熱量を持った「青白い炎」が突如として爆発するように立ち昇り、呪われた着ぐるみの全身を一瞬にして呑み込んだ。
♢ ♢ ♢
一方、同時刻――。
城南大学、民俗学研究室に水木純子はいた。
夜のバイト迄の時間を、今週末まで途中だった作業の続きをすることにしていた。
ガシャァァァンッ!!
「! ……えっ?」
突然、空っぽのはずのケースが、内側から爆発するように砕け散った。
数日前に忽然と消えたあの禍々しく黒光りする発掘品――『鏡鬼』。その不在の台座の上から、真っ黒な泥が噴き出し、割れたガラスの表面に、一瞬だけ――不気味な口元が浮かび上がった。
室内には、鼻を突くような「古い泥」と「腐敗臭」が充満する。
『――い……だ……きまーす』
ゾッとするような囁き。
その歪んだ「感謝」が鼓膜を震わせた瞬間、研究室中の全ての窓ガラスが、内側から真っ黒に曇り、パリンと一斉にひび割れた。
「あ、あああ……っ!!」
だが、純子が悲鳴を上げようとした瞬間、すべてが霧のように霧散した。
……気がつけば。
窓から差し込む六月の陽光が、静かに床を照らしているだけだった。
ガラスの破片も、黒い泥も、そこにはない。
ただ、一人。
静寂に支配された研究室の床に純子は耳を塞ぎ、力なく座り込んでいた。
――彼女の冷え切った背筋に汗が垂れた。




