青天残滓 1.
仄暗く、光の届かない、闇の深淵に――その澱みはあった。
気が付くと、佐竹恭平はいつもこの冷たい世界にいる。
意識の底から這い上がってくる、悍ましくも心地よい「何か」の気配。
「……またここか。だが、悪くない」
首筋をゾワゾワと這い上がる感触は、もはや不快ではなかった。むしろ、内側から溢れ出す力に形を与えられているような全能感。
視界が不意に切り替わる。そこは、いつかの川原だった。
月の光さえ吸い込むような重い水面。その底に、淀んだ「残滓」が見えた。
それは、この世に未練を残した死者の、あるいは何者かに狩られた怪異の、無惨な「燃えカス」だ。
普通なら鼻を突く腐臭に顔を背けるはずの代物。だが、今の佐竹にはそれが熟成された高級スイーツのように芳醇な香りに感じられた。
「……ああ、いい匂いだ」
うっとりと喉を鳴らした瞬間、脳裏を掠めるのはあの夜の記憶――美しき魔怪の圧倒的な魔性の波動。
「こんなもんじゃねぇ……もっと、あの『極上』に近づきたいんだよ!」
ケッと昏い(くらい)水面に唾を吐き捨てた瞬間、黒いヘドロのような泥水が牙を剥き、佐竹を飲み込もうと跳ね上がった。
だが、刹那。佐竹の身体から溢れ出した漆黒の影が、逆にその「泥」を包み込み、一瞬で咀嚼し尽くしてしまう。
「……まあまあ、うまいじゃねぇか」
佐竹は満足げに、歪な笑みを浮かべた。
――ジリリリリリリリリリリ!
「……あ?」
鼓膜を刺す目覚ましの音。
ベッドから転げ落ちた姿勢で、佐竹は現実へと引き戻された。
「いててて……。また、あの夢かよ……」
ズキズキと痛む頭を押さえながら、狂ったように鳴り響くベルを止める。
Tシャツを脱ぎ捨て、学校の制服に袖を通そうとした時だった。
「……? なんだ。妙に身体が引き締まってねぇか、俺」
鏡に映る自分を見た。
記憶にある自分よりも、明らかに筋肉の密度が増し、肌に鈍い光沢が宿っている。
その時、鏡の中の、逞しく盛り上がった背中に――。
巨大な蜘蛛を思わせる黒い紋様がドロリと浮かび上がり、次の瞬間には幻のように掻き消えた。
佐竹は着替えを手早く済ませると、一階の食卓に用意された朝食のトーストを一枚口にくわえ、駆け出すようにチェレステカラーのロードバイクに跨った。
そのまま颯爽とペダルを踏み込む。
「――あれ……トーストってこんな味だっけ? 不味くねぇかこれ?」
佐竹は食べ慣れたはずのトーストを口から吐き出すと、そのまま走り去っていった。
♢ ♢ ♢
昨夜の雷鳴が嘘のような、突き抜けるような青空だった。
校舎の窓に反射する陽光が目に痛い。
(――信じられません。何ですか、この光景は……)
神代凛は、教室の自席で硬直していた。
その視線の先には、いつも通り、いや、いつも以上に緩みきった顔で談笑するクラスメイトたちの姿があった。
そして――。
「あはは! 本当に災難だったよねー信也。昨日の帰り道、急に雨が降ってきてさ。私、途中で貧血起こして倒れちゃうし。信也が家まで運んでくれなかったら、今頃どうなってたか!」
「あ、はは……。いや、まあ、無事でよかったよ、美咲ちゃん」
教室の入り口。
島村美咲が、キラキラとした――あえて言うなら「王子様でも見るような」――羨望の眼差しを狭間信也に向けていた。
(……何を言ってるんです? 正気ですか!?)
凛は思わず、机の下で拳を握りしめた。
昨夜、あの旧校舎の教室で。美咲は間違いなく怪異に首を絞められ、死の淵にいた。そして信也は――信也の皮を被った「ナニカ」は、凛の誇りである神代家の『御神刀』を一撃で粉砕したのだ。
その二人が、なぜ「昨日の雨は凄かったね」などというのどかな会話をしていられるのか。
神代の御神刀をへし折るほどの化け物が、どうして平凡な高校生としてヘラヘラ笑っている。
その圧倒的な『異常さ』に、凛は吐き気すら覚えた。
(狭間信也……。ヤツは、わざとトボけてるのですか? それとも……)
凛は立ち上がり、一直線に信也のもとへ歩み寄った。
信也の身体から漏れ出す、微かな「残り香」。昨夜の圧倒的な魔性の残滓が、退魔師である凛の鼻腔をチリチリと刺激する。
「ひっ……! か、神代さん……おはよう」
信也が露骨に視線を逸らし、後ずさった。
その反応は、完全な「有罪」だ。昨夜の惨劇を、彼は間違いなく覚えている。
「狭間信也。……ちょっと、屋上まで行きませんか?」
普段、クールな凛がにこやかな顔で信也を誘う。
「えぇっ!? い、今から!? もうすぐ予鈴が……」
「来なさい……断ったら、ここで昨日の『続き』をしますか?」
凛の瞳に怒気が宿る、逃れられない殺気だ。
一見ニコリと微笑んでいるようだが、凛の額にピキリと浮いた青筋を信也は絶対に見逃さなかった。
信也は顔面を蒼白にしながら、引きずられるように教室を後にした。




