鬼危怪傀 5.
音が、消えた。
旧校舎三階の教室。
そこはもう、学校という学び舎ではなく、この世の理が通じない「異界」そのものだった。
「……狭間……信也……なの、です……か?」
神代凛の声が、絶望に震える。
朱い瞳をした少年。その背後、渦巻く黒い霧の中から、一人の少女が形作られていく。
緻密なレースが幾重にも重なる漆黒のドレス。
透き通るような白い肌と、すべてを蔑むような美しい微笑。
マヤがその実像を現世に晒した。
「いつまでそうして這いつくばっているのかしら? 古の『風』を名乗るのなら、もう少し気概のあるところを見せてくださる? ……でないと、その娘(美咲)の首、今度こそわたくしがへし折ってしまいますわよ」
マヤは、信也の腕を操って、床に転がる美咲の髪を愛おしげに撫でた。
「あ、……悪鬼が……憑依! ……ふざけ、ないでっ……下さい……『鬼精体』に後れを……取るわけ……にはっ!」
凛が、折れそうな心に杭を打つように叫んだ。
額から流れる血を手の甲で拭い、姿勢を低く沈み込ませる。愛刀『桃迅激』を腰だめに構え――抜刀術の姿勢。
「……神代の、退魔の意地を見せてさしあげます。その人を……二人を返しなさい!!」
凛の身体から、残された全霊力が闘気に乗って噴き出す。
腰に構える桃迅激から、静かに揺らめき立つ桃の花の如き気迫……闘霊真気。
それは彼女が今出せる、最大にして最後の一撃。
「……あら、良い覚悟ですわね」
マヤは、どこからともなく取り出した深紅の扇子を優雅に開いてみせた。
その扇面には、雅な薄紅色の桜の紋様が浮かんでいる。
パンッ!
マヤは開いていた扇子を、左手で受けるように勢いよく畳んだ。
「よろしいですわ。その『ゴミ』のような誇りごと、粉砕して差し上げますわ」
その宣告を合図に、凛が動いた。
カチリ、と。木刀だと思われていた『桃迅激』から硬質な音が響く。
木製の外装は「鞘」であり、真の力を抑え込む封印だったのだ。封が解かれ、中に仕込まれていた白銀の刀身が現世に解き放たれる。
「神代流抜刀術奥義――!」
鞘走りの加速に乗せ、凛は全身のバネを解放した。
「――真空焔刃……不知火っ!!」
放たれた斬撃は、神代家に伝わる焔の力と風の気を融合させた一撃必殺の業。
真空の刃が周囲の火炎を竜巻のように吸い込み、極限まで圧縮された「炎の刃」となってマヤへと襲い掛かる。
空気を焼き焦がし、轟音を立てて飛翔する必殺の斬影。
「……あら」
だが、マヤの美しい顔に浮かんだのは、退屈そうな微笑だった。
彼女は手にした薄紅色の扇子をパサリと開き、まるで羽虫を追い払うかのように、ただ優雅に振るう。
フワリ、と。
扇子から生み出されたのは、激しくも涼やかな『そよ風』。
たったそれだけの風が、凛の放った渾身の燃え盛る斬撃と真っ向から衝突し――次の瞬間、炎の刃は跡形もなく掻き消されていた。
「な、そんな……嘘……だ!?」
驚愕に目を見開く凛。
その視界から、マヤの姿がフッと掻き消える。
「おままごとですわね」
凛の背筋に、氷を突き立てられたような悪寒が走った。
瞬きする間もなく、マヤは凛の眼前にまで肉薄していた。
信也の身体を使い完全にマテリアライズ(顕現)を果たし、信也の気配を残しながらも圧倒的な魔性を放つゴスロリ姿の少女。
彼女の手には、再び綺麗に折り畳まれた扇子が握られている。
あえて手加減を施した、しかし絶対的な死の香りを纏う「扇子の一撃」が、凛の脳天へと振り下ろされた。
「くっ……!!」
凛の退魔師としての天性の勘、そして抜刀術の残心が生きた。
彼女は反射的な瞬発力で後方へ跳躍しながら、抜いたばかりの御神刀を頭上で真横に構え、直撃の軌道へと、死に物狂いでねじ込んだ。
ガァァァァァァァンッ!!!
金属同士が激突したような、甲高い轟音が教室に響き渡る。
防御の姿勢は完璧だった。だが、込められた「力」の次元が違いすぎた。
パキンッ――!!
神代家の誇る御神刀の刀身が、いともたやすく真っ二つにへし折られる。
殺しきれなかった衝撃波だけで、凛の身体はボロ屑のように吹き飛ばされ、教室の壁に激しく叩きつけられた。
「……あ、が……っ」
肺から空気が吐き出され、凛は力なく床へ崩れ落ちる。
薄れゆく意識の中で、彼女は絶対的な「敗北」を悟った。
ダッ! と、その刹那、教室へ飛び込んで来た影が一つ。
「そこまでだ!!」
現れたのは、バイクを飛ばして駆けつけた氷室拓馬だった。
だが、彼が目にしたのは、無惨に刀を折られて倒れ伏す凛と――。
「……興を削がれましたわ」
夜風が吹き込む、開け放たれた窓辺。
古びたアルミサッシの細い枠の上に、重力を無視したかのようにマヤが立っていた。
漆黒のレースをあしらったドレスの裾が、夜の風にバサバサと煽られている。彼女の小脇には、気を失った島村美咲が抱えられていた。
「貴様……! その娘をどうする気だ!」
「あら……またお会いしましたわね。少しの間、お預かりするだけですわ。それでは、お暇いたしますわ、お小水の坊や」
マヤの背後には不気味なほど低く、巨大で昏い暗雲が浮かんでいる。
時折、横一線に稲妻が走った。
不敵な、それでいて酷く美しい微笑を浮かべると、マヤは仄昏いネオンの夜空へと、まるで羽があるかのように軽やかに跳躍した。
「待てッ!!」
拓馬が窓辺に駆け寄った時には、ただ、嘲笑うかのような稲光が、虚空に浮かんでは消えるだけだった。
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