鬼危怪傀 4.
――都内某所、地下区画。
「おおお!」
闇風の研究ラボは蜂の巣をひっくり返したような騒ぎになっていた。
「これは一体……な、何が起きているんだ?!」
執行官、鈴宮亮志は研究班から緊急の呼び出しを受け、執務室から今到着したところだった。
大勢の研究員が見守る中心でそれは輝いていた。
厳重に保管されている巨大な調整槽の中にある、鬼の角が激しく瞬いている。
「分かりません……ただ、もしかすると『被験体0号』に何かあったのかもしれません」
老齢の研究員が震えるように応えた。
――被験体0号……狭間信也。
「至急、氷室拓馬に確認を取れ!」
鈴宮は檄を飛ばした。
♢ ♢ ♢
「とんでもない数値じゃないか?!」
拓馬は自室のモニターに映し出される「鬼気」測定装置「オーガライザー」の描き出す波形に驚愕していた。
「この反応はあの時の……」
――『美しき魔怪』と遭遇した夜の事を思い出し戦慄していた。
♢ ♢ ♢
旧校舎、三階。
「……あ……」
吹き飛ばされた廊下で、神代凛は必死に上体を起こした。
視界が、赤く染まっている。額から流れた血のせいか、あるいは、教室の中から溢れ出した「それ」のせいか。
教室を埋め尽くしていたどす黒い霧が、内側からの圧力によって弾け飛んでいた。
その中心に、彼は立っていた。
外れたメガネの奥、虚空を見つめる瞳は、いつもの気の弱そうな狭間信也のものではない。
底知れない闇を湛えた、仄昏い朱色の光。
「なん……ですか、……あれ……」
凛の喉が、本能的な恐怖で引きつった。
かつて経験したことのない、圧倒的なまでの「鬼気」。
それはもはや霊障などという生易しいものではない。そこに在るだけで、周囲の空間そのものが腐食し、ひれ伏していくような絶対的な捕食者の重圧。
……絶望そのもの……
(――不快ですわね。吐き気がしますわ、その下俗な気配)
信也の口から漏れたのは、涼やかな、それでいて酷いまでに美しい少女の声だった。
ヒィッ、と。
鏡の怪異が、初めて「恐怖」を上げた。
鏡から伸びていた無数の腕が、まるで猛獣を前にした羽虫のように激しく震え、引き抜こうとする。
だが、遅い。
「あら、逃げられるとでも?」
信也の身体が、一歩踏み出された。
重力を無視したような滑らかな歩行。彼は、自分を鏡の中へ引きずり込もうとしていた黒い腕の一本を、事もなげに素手で掴んだ。
ジュゥゥッ!
接触した瞬間に、怪異の腕が黒い墨汁のような飛沫を上げて焼け爛れる。
「ギ、ギィィイイアアアアアアッ!!」
姿見から響き渡る絶叫。
しかし、信也――いや、彼の中に顕現した『マヤ』は、冷酷な笑みを浮かべたまま、その腕をグイと手繰り寄せた。
「わたくしの契約者を傷つけ、惰眠を貪るわたくしを起こした罪……万死に値しますわよ。よろしくって?」
信也の手が、鏡の表面に触れた。
瞬間、教室中の温度が氷点下まで一気に叩き落とされた。
鏡の欠片からはめ込まれたはずの姿見が、パキパキと不吉な音を立て、内側から「闇」を吸い取られていく。
捕食。
それは戦いですらなく、一方的な「食事」だった。
「ア……アガッ、ガ……ッ!!」
美咲を絞め殺そうとしていた腕が、力なく崩れ落ちる。
支えを失った彼女の体は力なく床へ滑り落ち、静かに横たわった。
それを見届けたマヤ(信也)の瞳に、さらに深い、容赦のない光が宿る。
「デザートには、少し早いですけれど」
彼の手が、鏡の奥深くへと突き立てられた。
ガラスの砕ける音はしない。まるで底なし沼に腕を突っ込むように、鏡面が波打ち、鏡の中に潜んでいた怪異の「本体」を強引に引きずり出すかのように探す。
「さぁ……お鳴きなさい。不快なゴミ虫」
信也の細い腕が、鏡面という名の「深淵」に肘まで没した。
逃げ惑う怪異の本体――その『核』を、マヤは容赦なく鷲掴みにした。
「うふふ、捕まえましたわよっ」
信也の朱い瞳が悦に入ったように細く嗤った。
「ギ、ギィイ、イイイ……ッ!!?」
鏡の奥から、この世のものとは思えない断末魔が響き渡る。
パキン、と。
凍てつくような冷気と共に、信也の指先に力がこもった。
パカァァァァンッ!!
姿見が、内側から爆発するように粉砕された。
飛び散った破片は床に落ちる前に黒い霧へと変わり、渦巻くようにして信也の身体へと吸い込まれていく。
怪異という名の「栄養」を、マヤが喰らい尽くしたのだ。
「はぁ、はぁ……っ」
廊下で息を切らす神代凛の目に、信じがたい光景が映る。
完全に日が沈みきった宵闇の教室の奥。
鏡の妖力を喰らい、膨れ上がったどす黒い鬼気が、信也の影を、輪郭を、ドロリと書き換えていく。
「な……に、が……」
信也であって、信也ではない『ナニカ』。
その背後に、巨大な、そしてあまりにも美しい「少女の幻影」が立ち昇るのを、凛は確かに見た。
♢ ♢ ♢
一方そのころ、旧校舎の外――。
「何だ……このプレッシャーは……!」
バイクで駆けつけた氷室拓馬は、旧校舎を見上げて息を呑んだ。
三階の窓から漏れ出す波動が、一瞬にして『人の領域』を超えた。
オーガライザーの画面は、すでに計測不能を意味するエラー表示で埋め尽くされている。
「この禍々しさ……そして、この神々しさ……」
拓馬の拳が、無意識に震えていた。
「……間違いない……これは……!?」
闇が濃くなり、常闇へと夜の帳が完全に閉ざされる。
旧校舎三階、その奥まった先にある教室は、すでに外の光の届かない完全な暗がりとなっていた。
古びた校舎は、今や巨大な鬼の住処へと変貌していた。




