第6話:人の痛みがわかる亡霊たち、あるいはあの世のプロポーズ
千歳の情の底に触れた陸軍軍曹・河村巌は、ボロボロの防暑衣の袖口で、無骨な拳をゴシゴシと力任せに動かし、男泣きの涙を拭い去った。その略帽の脇から覗く坊主頭が、照れ隠しのように小さく揺れる。
その様子を、真紅の打掛の背中にベッタリと融着したまま見つめていた平成ギャル・高橋美香は、デコネイルの施された指先でラークマイルドの2本目に火を点け、紫煙を燻らせながら、どこか遠い目をして呟いた。
「……ハァ。アタシの時代にさ、千歳姉さんみたいな人がいたら、マジで良かったのにな」
千歳姉さん——。
その美香の言葉に、菅野浩次も、河村も、そしてこころも一斉に目を見張った。一九九九年の渋谷のギャルが、百年前の吉原の花魁を、時代を超えて「姉さん」と呼んだのだ。美香はたるんだ真っ白なルーズソックスを床板に擦れ合わせながら、切なげに言葉を紡ぐ。
「だってさ……人間関係とかカーストに悩んでる人にしか、人の痛みとか、この世の生きづらさなんて、マジで分かりっこないじゃん? アタシ、学校じゃ本音も言えないで、周りの顔色ばっか合わせて……グループからはぶかれるのが、死ぬほど怖かったんだよね。そしたら精神病んじゃってさ。毎日ギャルやって笑ってたけど、本当は、本当は凄く寂しかったんだよね……」
美香のヤマンバメイクの白い目元の奥から、一筋の透明な涙が、ガングロの頬を伝って静かに流れ落ちた。
その涙のディテールをじっと見つめていた海軍少尉・菅野浩次が、航空帽の顎紐を小さく揺らし、特用羅針儀の針を覗き込むような深い眼差しで言った。
「……そうか。もしかしたら、このガチョウは、人が信じられない人間、人の世に怯える人間を、時代を超えて引き寄せたのかも知れないな。どの時代においても、自分を偽らず、自分らしく生きるということは、それほどまでに過酷で、辛いことなのだろうな……」
菅野の静かな、まるで真理を突くような語り口に、オーバーサイズの黒いグラフィックTシャツの胸元を落ち着かせたこころが、小さく声を漏らした。
「……菅野さんって、なんだか哲学者みたい」
そう言って、こころはフッと、小さく笑った。
それは、東京のフリースクールに閉じこもり、世間の同調圧力に皮膚をチクチクと刺されていたこころにとって、本当に久しぶりに、心の底から浮かべた生きた笑顔だった。
その瞬間、真紅の孔雀の打掛を揺らした千歳と、ルーズソックスの美香の2人の女性が、同時にこころの顔を覗き込んで、華やかに声を揃えたわ。
「あら、アンタ、笑うと随分とかわいい顔をしてるじゃないさね!」
「それな! マジ激マブじゃん、もっと笑いなよ!」
女性たちのしなやかな服の擦れと、こころの赤らんだ頬の瑞々しさが、蔵の空気を完全に和ませる。すると、毒気を抜かれて大人しくなっていた河村軍曹が、防暑衣の襟元をガリガリと掻きむしりながら、ぶっきらぼうに、だけど遠い夢を見るような目で語り始めた。
「……俺だってな、本当は、現役兵の任期を終えて満期除隊したらさ、実家の北千住で、まともな嫁さんをもらうつもりだったんだよ。だけどな、戦争がどんどん長引きやがって……結局、女の肌もまともに知らんまま、絞首台行きだ。……おい、千歳」
河村は急に、白塗りの美しい花魁の顔をキッと睨みつけた。
「どうだ、これもお国のために死んだ何かの縁だ。俺と、あの世で結婚するか!?」
過酷な戦場で散った男の、あまりにも唐突で不器用な求婚。
千歳は打掛の袖で口元を覆い、べっ甲の髪飾りを呆れたようにジャラジャラと鳴らして、一瞬で突き放した。
「おやおや、お前さんみたいな、ちんちくりんでチビで、汗臭くて泣き虫な男なんて、真っ平ご免だよ」
「なんだと貴様ッ! 泣き虫とは何だ! 俺はこう見えても陸軍の頑強な下士官だぞ! いいから俺の嫁になれ! 毎晩おっぱいを揉んでやるからな!!」
河村軍曹がムキになって、小学生のような最低の下ネタを怒鳴り散らした、その瞬間だった。
バキィッ!!
「ぎゃああああああっっ!?」
ベタベタと身体が融着して離れない、その極限の死角から、千歳は重厚な黒い高下駄を履いた右足を、しなやかに、しかし狂いのない正確さで河村の股間へと跳ね上げたの。容赦のないヒールの直撃を食らった河村軍曹は、防暑衣の裾を激しく乱し、略帽を床板に転がしながら、魚のように身を悶えさせて白目を剥いた。
「おーおー、盛りのついた野良犬かい。お天道様の下を歩く前から、色気ばかり出しちゃいけないよ」
千歳はふん、と美しい鼻を鳴らし、何事もなかったかのように打掛の孔雀の刺繍を整える。
「ぶはっ……! あははは!」
菅野浩次が明治大学のインテリ学生らしからぬ爆笑を漏らし、美香もガラケーをパカパカさせながら「お腹痛い!」と大笑いする。
その最低で、最高に滑稽な大人の掛け合いを特等席で目撃した山岸こころは、あまりのド直球な下ネタに「……っ」と耳まで真っ赤に赤面して、デニムのショートパンツを握りしめながらも——やっぱり、どうしても少しおかしくて、みんなと一緒に、声を上げて笑っていた。
四〇センチのガチョウを抱えた5人の境界線が、笑い声のなかで完全に溶け合っていく。
その瞬間、5人の手のひらが吸着した真鍮のガチョウの瞳が、まるで彼らの心の弾けに呼応するように、カチリと音を立てて、一際まばゆい黄金の光を放ち始めたのだった——。




