最終話:将校図嚢(ずのう)の記憶、あるいは黄金のガチョウが遺した温度
5人の笑い声が、大谷石の古い蔵のなかに響き渡った、まさにその瞬間だった。
こころの両腕のなかにあった四〇センチの正体不明の鉄塊が、これまでのくすみを取り払うように、網膜を刺すほどの鋭い光を放ち始めた。それは、おとぎ話の頁からそのまま溢れ出したかのような、神聖で、圧倒的な輝き——まさに、本物の「金のガチョウ」、いや、時空の縛りすら融解させる「黄金のガチョウ」そのものの輝きだった。
「うわああっ!?」
爆発的な光の波動に弾かれるようにして、5人は一斉にじりじりと後ろへ引き剥がされ、蔵の床板の上へと激しく尻餅をついた。
ハッと気がついたときには、あのベタベタと強力に融着していた感覚は完全に消え去り、全員の身体が自由に離れることができていた。
「ふーっ……」
こころは、両腕から世界の重力が消え去ったのを感じながら、深く、長いため息を漏らした。
しかし、安堵したのも束の間、次の瞬間、中学二年生の少女は耳の後ろや首筋までを一瞬で真っ赤に染め上げ、猛烈な恥ずかしさで目のやり場に困ってしまった。
こともあろうに、離れる際の大混乱のどさくさに紛れて、陸軍軍曹・河村巌が、千歳を背後から抱きかかえるような姿勢のまま、その分厚い両手で、花魁の豊かなおっぱいとお尻をガッチリと鷲掴みにしていたのだ。軍曹の顔は、これ以上ないほどだらしなく、締まりのないスケベな男の顔に成り下がっていた。
「……この、すっとこどっこいがァッ!!」
パギィィィンッッ!!!
薄暗がりに、千歳の怒りの激烈なビンタの音が炸裂した。打掛の孔雀が激しく羽ばたき、真っ白な白塗りの手が閃いた直後、河村軍曹は鼻から真っ赤な鼻血をドボドボと噴き出しながら、床板の上へと仰向けに無様に倒れ込んだ。
その最低すぎる一部始終を見ていた海軍少尉・菅野浩次と平成ギャル・美香の2人は、同時に頭を抱え、心底呆れ果てたような苦笑いを浮かべた。
(ダメだ、コイツは……。最後の最後で何をやっているんだ……)
言葉にせずとも、蔵のなかの全員の心が、倒れた軍曹へのツッコミで一つになった。
その温かい笑いに満ちた空間のなかで、こころは、オーバーサイズの黒いグラフィックTシャツの裾をきゅっと握りしめ、4人の亡霊たちをまっすぐに見つめた。そして、生まれて初めて、自分の内側から溢れ出た本物の言葉を、彼らに向けて紡いだ。
「……あの。私、人間関係も、人が接するのも怖くて、本当に弱い人間だけど。……でも、これからも、みなさんとここで肌を接して、心で触れ合ったこと、一生絶対に忘れません。……本当に、ありがとうございました!」
こころは、デニムのショートパンツの膝に手を当て、深く、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、そこには、いつの時代にも存在した「目に見えない圧力」に殺され、深く傷ついていたはずの4人の亡霊たちが——これ以上ないほど優しく、穏やかな、本物の人間の笑顔を浮かべて、こころを見守っていた。
学徒兵の菅野が、優しく頷く。美香が、長いネイルの手を振る。千歳が、打掛を揺らして微笑む。鼻血を出した河村軍曹が、気まずそうに笑う。
その優しい笑顔のまま、4人の姿は、大谷石の薄暗がりのなかへ、陽炎のようにサラサラと静かに消えていった——。
静寂が戻った蔵のなかで、こころの目からは、もう止めることのできない涙が、次から次へと溢れて止まらなかった。それは悲しい涙ではなく、自分の心が、確かに彼らによって救われたことの証だった。
こころは涙を拭うと、再びただの重たい真鍮の置物に戻ったガチョウを、古びたボロ布で丁寧に包み、ひいおじい様の九八式軍衣が眠る「将校行李」の奥底へと、そっと戻した。
そのとき、行李の隅に、もう一つの遺品があることに気がついた。硬化した牛革で作られた、陸軍将校が作戦マップなどを入れて携行する「将校図嚢」だ。
こころがその頑丈な革のフラップを開けると、なかから、経年劣化で茶色く変色した、大戦期の質の荒い紙の束が出てきた。そこには、鉛筆の掠れた筆跡で、ひいおじい様の当時のメモが書き残されていた。
『昭和十五年、南部仏印(フランス領インドシナ)進駐の折、サイゴンのフランス人高官の邸宅にてこれを発見す。持ち主たる高官は、我が軍の進駐直後、本国フランスへ急遽帰国せしものなり。現地人の使用人が語るには、この怪異なる鳥の置物こそ、かの西欧に伝わる「グリム童話・金のガチョウ」のモデルとなった本物なりとのこと。結局、持ち主の消息は知れず、図嚢に収めて内地へと持ち帰るものなり——』
掠れた鉛筆の文字を追いながら、こころは驚愕に大きく目を見開いた。
あの4人と自分を繋いだガチョウは、ひいおじい様が遥か南方の戦場、ベトナムの地から命がけで持ち帰った、歴史の激動の遺物だったのだ。
「……ひいおじいちゃん。素敵な人たちに会わせてくれて、本当にありがとうね。私、このことは……誰にも言わないから」
こころは図嚢をそっと閉じ、それから、大人たちが灰皿に残していった、ラークマイルドの吸い殻を一つずつ丁寧に集めた。祖父母に見つかって、タバコを悪戯したと叱られたら大変だ。
吸い殻をポケットに仕舞い、こころが重い漆喰の扉を押し開けて蔵の外へと出ると、そこには、令和二〇二六年の、どこまでも突き抜けるような青空と、猛烈な夏の太陽がまだ高く昇っていた。
外の田んぼからは、さっきまでと変わらない、狂ったような、だけどどこか愛おしい蝉時雨が、少女の新しい一歩を祝うように、賑やかに鳴り響いていた。
(完)




