第5話:ラークマイルドの紫煙、あるいは傷ついた魂たちの宿泊
全員が東京という同じ街の、異なる時代の空気を吸って生きていた——。
そのあまりにも奇妙で、けれど決定的な事実に、薄暗い大谷石の蔵を包んでいた緊迫した空気は、驚きを超えて、静かに形を変えていった。それは冷え切った鉄の檻のような拒絶ではなく、どこか人間くさい、じんわりとした温度を持った暖かい空気だった。
ベタベタと窮屈そうに、だけど先ほどまでのトゲトゲしさを無くして肩を寄せ合うなか、陸軍軍曹・河村巌が、帽垂布のついた略帽を少し後ろへずらしながら、低く掠れた声を漏らした。
「……こころ、煙草はあるか?」
えっ、とこころが驚いて周囲の薄暗がりを見渡す。
ひんやりとした大谷石の壁際、長年放置された鍬や鎌といった農具が立てかけられた古びた木箱の隅に、それはあった。既に封を切られた『ラークマイルド』の白いソフトパッケージ、安っぽい透明なプラスチック製の百円ライター、そして少し埃を被ったガラスの灰皿。夏休みにここで畑仕事をする、こころの祖父のものだろう。
河村は無骨な指先で器用にライターの火石を弾き、自分の、そして菅野浩次の、さらに美香と千歳の口元へと火を渡していった。中学生のこころ以外の4人が、一斉に、それぞれの肺の奥へと令和の紫煙を深く吸い込む。
「……ケッ、洋モクはあまりうまくねえな。やっぱりタバコは『敷島』か『みのり』に限る」
河村が防暑衣の胸元を緩め、煙を吐き出しながら口を尖らせる。その贅沢な文句に対して、絢爛豪華な打掛の袖を上品に翻しながら煙を燻らせていた千歳が、べっ甲の髪飾りを優しくジャラリと鳴らし、クスッと笑いながら言い放った。
「ふん、文句を言うんじゃないよ、お前さん。色気の無い紙巻きだって、こうして喉を通れば立派な慰みさね」
白塗りの施された指先で、千歳は煙管を持つようにラークマイルドを挟み、妖艶に目を細める。
蔵のなかを、ゆったりとした紫煙が漂い、大谷石の苔むした緑灰色の壁を白くかすませていく。その光景を、黒いグラフィックTシャツの胸元を小さく上下させながら見つめていた海軍少尉・菅野浩次が、二十四年式航空時計のベルトを巻いた手首を顎に当て、理知的な瞳を落として静かに呟いた。
「しかし……不思議だな。我々はなぜ、こうして集められたのだろう。東京にゆかりのある人間、というだけではない。それに……こころちゃん、君以外、僕も含めた4人は、全員が既にこの世を去っている『亡霊』だ。もしかしたら、僕たちがこのガチョウを介して数珠繋ぎになったのには、他に……何か共通する理由があるのかも知れない」
菅野の言葉に、ヤマンバメイクの奥の瞳を煙で細め、ルーズソックスを履いた足を少し引きずりながらタバコを燻らせていた美香が、フッと短いため息とともに言葉を重ねた。ピンクのスカルプネイルが、ライターの光を浴びて鈍く光る。
「……もしかしたらさ、こころがさっき話した『人が怖い』とかいう悩み、アタシにもマジであったからかも。繋がってないと死ぬのに、教室の仲間の顔色窺って、毎日息ができない感じ……。ねえ、みんなもそうだったわけ? 人間関係とか、人付き合いとかで、何か人生悩んでた?」
美香の投げかけた剥き出しの問いに、千歳は真紅の孔雀の打掛を小さく揺らし、どこか冷めた、だけど深い諦念を帯びた声で答えた。
「……私はね、親の借金のカタとして、幼い頃に吉原へ売られたのさ。江戸町、三浦屋の格子戸の向こうで、花魁という大看板を背負うまでは、本当に、死ぬより辛いことばかりだったさね。女同士の陰湿な 嫉妬に、口を開けば嘘ばかりを並べ立てる男たち。結局、誰も信じられず、誰も愛せなかった。そうして心をすり減らしているうちにね、気づいたら当時はお約束の『胸の病(結核)』を患って……用済みになれば誰も相手にしてくれやしない。冷え切った布団の中で、一人寂しく死んだのさ」
千歳が自嘲気味に妖しく微笑む。その言葉を聞いた現代の中学生、山岸こころは、ハッと目を見開いて、思わず千歳の白塗りの手を凝視した。
「あの……っ、それ、今なら治る病気ですよ! 二〇二六年の病院なら、お薬を飲めば、結核はちゃんと治る病気なんです……!」
こころのその言葉に、千歳だけでなく、軍人である河村も菅野も、驚愕に激しく息を呑んだ。
「……何だって? あれほど廓の女たちを絶望させた死病が、薬で治るのかい?」
「医療技術は……八十年でそこまで進歩したんだな……」
菅野少尉が、兎毛の航空帽の下の顔を愕然と歪め、そして遠い目をしながらぽつりと呟いた。
「……僕は、もっと文学を勉強したかったな。マルクスやカント、日本の近代文学を貪るように読んで、もっと友人と議論を交わしたかった。しかし、時代が、国家がそれを許さなかった。お国のために死ねと、直径数メートルの鉄の筒に押し込められて……。だけど、そうか。戦争がなくて、病気も治るそんな平和な君たちの時代にも、やはり、人間関係の悩みで死にたくなるほどの息苦しさはあるんだね……」
平和な未来にも存在する「心の戦場」に、学徒兵の青年が静かに寄り添う。
そのとき、ラークマイルドを根元まで吸い殻にした陸軍軍曹・河村巌が、ゴツゴツとした両手で九五式軍刀の木製柄をギリギリときつく握りしめ、苦渋に満ちた声を絞り出した。
「俺は……っ。新兵時代は、内務班の狭い兵舎で、毎日のように上官から革ベルトや鉄拳で殴られた。陸軍じゃあな、上官の命令は絶対に絶対、天皇陛下の命令と同義の世界なんだよ。その地獄を耐えて、軍曹になって、気付いたら泰緬のジャングルで捕虜虐待の罪をすべてなすりつけられていた。誰も、誰も助けてなんてくれなかった……! 戦争が終わった途端、あの無計画な鉄道建設を命令した高級参謀のバカどもは、我れ先に書類を焼いて逃げ出しやがったんだ……!」
河村は帽垂布のついた略帽を深くむしり取るように掴み、防暑衣の胸元を激しく上下させた。
「あんな、あの地獄のジャングルに、まともな設計図もなしに、無計画に鉄道を作らせたのがすべての間違いだったんだ。俺はイギリス野郎の戦犯裁判と、身勝手な上官どもに、二重に殺されたようなものさ……ッ!!」
ボタボタと、過酷な熱帯の赤土を生き抜いた軍曹の目から、大粒の悔し涙が溢れ、大谷石の床板にシミを作っていく。組織の絶対的な同調圧力に従い続け、最後にはすべての泥を被せられて処刑された男の、あまりにも生々しい、孤独な魂の叫びだった。
静まり返る蔵のなか、千歳がその河村の様子を見つめ、べっ甲の髪飾りを激しくジャラリと鳴らして、ヌケヌケと、だけどこれ以上ないほど芯の通った大人の女の声で言い放った。
「……ハッ、男のクセに、いつまでもメソメソするんじゃないよ。お前さんには、股間に立派なキンタマが付いているのかい? 泣いたって、死んだ過去は戻りゃしないんだ」
千歳は、灰皿にラークマイルドの吸い殻を押し付けると、河村の泥まみれの防暑衣の肩を、白塗りの指先でトン、と優しく叩いた。
「お前さんはね……ただ、その任務とやらに、忠実過ぎただけなのさ。悪いのは上等な机にふんぞり返っていた奴らさね。自分を責めるんじゃないよ、北千住の江戸っ子なんだろう?」
——お前さんは、任務に忠実過ぎただけ。
その千歳の、ぶっきらぼうだけど、誰よりも河村の不条理な孤独に寄り添った「情」のこもった言葉に、軍曹はハッと涙の目を丸くした。そして、その大人の亡霊たちの、ぶつかり合いながらも確かに響き合う魂の優しさを間近で感じていたこころの瞳からも、じわりと温かい涙が滲み出していた——。




