第4話:憲兵司令部はとっくにない、だけど私たちは同じ街の空気を吸っていた
大谷石のひんやりとした薄暗がりのなか、大人の男女による、醜くも意地汚い罵り合いは未だに収まる気配を見せていなかった。
汗をかき、額の「必勝」の鉢巻をじっとりと湿らせた海軍少尉・菅野浩次が、必死の形相で陸軍軍曹と花魁の間に割って入り、衣服を擦れ合わせながらなだめ続けている。もはや中学二年生の山岸こころと、一九九九年の平成ギャル・高橋美香の2人は、返す言葉もなく呆然とその光景を眺めるしかなかった。
河村巌陸軍軍曹は、帽垂布のついた略帽を怒りで歪ませ、蔵の床板を踏み鳴らしながら、鼓膜を破らんばかりの怒鳴り声を上げる。
「おい、こころ! ぼうっとするな! 急いで最寄りの憲兵司令部に、有線電話でこの治安乱れし現状を知らせろ! おい貴様、千歳と言ったな! 貴様は絶対に許さんぞ、前線兵士に対する侮辱であり、抗命罪だ、この野郎!」
その前時代的な怒声に対して、美香は長いピンクのデコネイルで髪をかき上げながら、冷ややかに、しかし極めて冷静に言い放った。
「は? そんなもん、とっくにねーよ」
「な、何だと……!?」
憲兵の存在すら知らない美香のツッコミに、河村が言葉を詰まらせる。こころはただただ、両腕のなかの重たいガチョウを抱えたままオロオロとするばかりだった。
だが、よせば良いのに、千歳はさらにヌケヌケと、妖艶な唇を歪めて言い放った。打掛の真紅の絹地が、彼女の不敵な嘲笑に合わせて妖しく波打つ。
「ハッ、汗臭い、泥まみれの弱兵が何をキャンキャン喚いているのさね。そんなに頭に血が上るなんて、その慰安所とやらで遊び過ぎて、梅毒の病魔でも頭に入っちまったのかしら?」
「なんだと貴様……っ!!」
男のプライドを完璧に粉砕された河村軍曹は、怒髪天を衝き、分厚い拳を固く握りしめて振り上げた。しかし、千歳はべっ甲の髪飾りをジャラリと冷たく鳴らし、さらに見下すように言った。
「私はねぇ、お里の知れない貧乏人と、泥臭い田舎モンが一番大嫌いなんだよ!」
その「田舎モン」という言葉が、河村の最後の導火線に火をつけた。軍曹は顔を真っ赤にし、略帽の奥の坊主頭を震わせながら、全力で怒鳴り返した。
「ふざけるな! 俺は田舎モンなんかじゃない! 俺は、足立区の北千住の生まれだ!!」
その瞬間、蔵の空気がピタッと止まった。
それまで蛇蝎のごとく軍曹を睨みつけていた千歳が、白塗りの施された美しい目を見開き、打掛の袖を口元に当てて、素っ頓狂な声を上げた。
「……あれ!? お前さん、江戸っ子(東京生まれ)かい? 驚いたわさ」
「な、何だその急な態度の変わりようは……!」
千歳が生きた明治の吉原にとって、千住は目と鼻の先、馴染み深い東京の宿場町だった。急に親近感を覚えた千歳の仕草に、河村が毒気を抜かれたように呆然とする。
すると、その奇妙な静寂を破るように、海軍少尉の菅野浩次が、航空帽の顎紐に手をかけながら、少し誇らしげに、だけどどこか育ちの良さを隠せない口調で言った。
「あの……実は、僕も東京です。僕は、駿河台の明治大学に通っていました」
そのお坊ちゃん風な告白に、背後から千歳にくっついていた美香が、ガングロの顔をパッと輝かせて身を乗り出した。ルーズソックスが床板に擦れてカサリと音を立てる。
「えっ、マジ!? 明大じゃん、超頭いい! アタシも東京だよ! 都立高校に通ってた。放課後は原宿とか渋谷のセンター街で、毎日マジで遊びまくってたし!」
亡霊たちの突然の「東京トーク」の連鎖に、最中心にいたこころも、驚きで胸を詰まらせながら、小さな声を絞り出した。
「あの……、私、私は……成城に住んでいます」
特攻兵器の鉄の檻で死んだ海軍のインテリ学生も。
泰緬鉄道の泥にまみれて刑死した陸軍の無骨な軍曹も。
明治の吉原で孤独に病死した孤高の花魁も。
一九九九年の渋谷でカーストに絶望して飛び降りた平成ギャルも。
そして、二〇二六年の現代に息を潜めて生きる不登校の少女も。
「……なんだ、みんな。東京にゆかりのある人たちの集まりだったわけ?」
千歳が、呆れたような、だけどどこか嬉しそうな、大人の女性の柔らかい声で呟いた。
時代も、身分も、死んだ理由さえもバラバラで、絶対に交わるはずのなかった5人。しかし、彼らの足元は、かつて同じ「東京」という、他人の熱気と自意識が渦巻く巨大な街の土を踏みしめていたのだ。
四〇センチの正体不明のガチョウを抱えたまま、こころは驚愕に大きく目を見開いた。
目に見えない同調圧力に殺された亡霊たちが、自分と同じ「東京の先輩たち」だと知った瞬間、蔵のなかの冷え切った空気は、確かな「人間の温度」を持って、静かに変わり始めていた——。




