第3話:乃木大将はもういない、そして令和の少女は小さく笑った
世界のすべてが静止した大谷石の蔵の中。
四〇センチの、真鍮のようでもあり、あるいは本物の妖しい輝きを放つ金のようでもある、正体のわからないガチョウの置物。その滑らかな背中を核にして、時代も身分もバラバラな5人は、まるで見えない鎖で縛られたかのように、身動きも取れず窮屈そうにベタベタとくっつき合っていた。
中学二年生の山岸こころは、デニムのショートパンツの裾が擦れるほど至近距離にいる、自分より遥かに歳上の、そして生きた時代も異なる人たちの生々しい体温に、心臓が潰れそうなほどの緊張を覚えていた。だけど、同時に不思議な感情が頭をもたげる。
(……なんだか、すごく滑稽で、少しおもしろい……)
それは、こころが小さな頃から、騒がしい教室の人間関係よりも、静かな部屋でピアノの鍵盤を叩くことや、古い本をめくって空想の世界に浸ることが好きだったからかもしれない。グリム童話の頁から飛び出してきたようなこの大混乱のなかで、こころのなかの本好きの少女の目線が、ほんの少しだけ客観的にこの状況を楽しんでいた。
こころは、オーバーサイズの黒いグラフィックTシャツの裾をぎゅっと握り締め、震える息を吸い込んで、勇気を振り絞り自己紹介を始めた。
「山岸、こころです……。中学二年で、今は……普通の学校じゃなくて、フリースクールに通っていて、夏休みに、祖父母の家に遊びに来たんです。私……昔から、対人関係とか、人間関係が、すごく苦手で……。どこに行っても、すぐにいじめの対象に、されちゃうんです。いつも人の顔色ばかり窺う性格で、人が、人がすごく怖くて……っ」
そこまで言うと、乾いた床板にこころの瞳から溢れた大粒の涙がぽたぽたと落ちた。
「私……何言ってるんだろ……」
初対面の、しかも亡霊たちを前に、自分の最も格好悪い傷口を曝け出してしまった自己嫌悪で、こころは俯いた。
だが、その言葉を受け止めた海軍少尉・菅野浩次が、航空帽の顎紐を緩めるようにかすかに首を動かし、理知的な瞳を和らげて言った。
「こころちゃん。先程は、戦場の興奮を引きずったまま、横柄な態度や口調で威嚇してしまい、本当に失礼した」
彼は必勝の日の丸の鉢巻を巻いた頭を、苦笑いとともに、素直に中学生の少女へ向けて下げた。
「やはり、僕はどこまで行っても軍隊という組織には馴染めないみたいだよ。……僕も、学生の頃は本ばかり読んでいてね。だから、こころちゃんのその、人が怖いという気持ち、少しは理解できるかな」
二十二歳の学徒兵の、あまりにも優しい、人間味に溢れた微笑みだった。
「ケッ、これだから海軍の学徒兵は、娑婆っ気が抜けてないって言うんだ!」
その菅野の左腕を掴んだまま、陸軍軍曹・河村巌が、ボロボロの防暑衣の肩を怒らせて鼻で笑った。
「おい、学生さんよ。そんな腰抜けの精神力でどうする! おい、こころ! 貴様、そんな弱気じゃ令和の世とやらは生き抜けんぞ。どうだ、この俺が貴様に、叩き直されてもへこたれん本物の陸軍軍人精神を叩き込んでやろうか!?」
ハハハ、と河村は帽垂布のついた略帽をぐっと揺らしながら無骨に笑った。
すると、河村の分厚い胸板に押し付けられていた吉原の花魁・千歳が、真紅の打掛に刺繍された孔雀の羽を誇らしげに揺らし、見下すような冷たい視線を軍曹へ向けた。
「全く、馬鹿な軍人だよ。こころちゃん、こんな野蛮な男の言うことなんて、全く気にすることはないよ」
千歳は白塗りの指先で、べっ甲の髪飾りをジャラリと鳴らす。
「乃木大将みたいなお立派なお方は、もう今の陸軍にはいないのかいねぇ? こんな、ちんちくりんのイガグリ頭しかいないなんて、世も末だわさ」
クスッと妖艶に、だけど容赦なく嘲笑う千歳。
その言葉に、河村巌の無骨な四角い顔が一瞬で真っ赤に変色した。略帽の脇から、文字通り怒りの蒸気が噴き出しそうなほどの鼻息を荒くして、河村は怒鳴り散らした。
「なんだと貴様……っ!! 俺を、大日本帝国陸軍を侮辱する気か!? 慰安所に貴様のような生意気な女がいたら、俺が毎日でも通いつめて、その高い鼻を叩きのめしてやるわ!」
だが、千歳は眉ひとつ動かさず、むしろ楽しげに妖しく微笑んだ。
「おや、私の所に通いたいって? いいよ。だけどね、この千歳の部屋に上がりたいなら、まずはその汚い泥を落として、大判の束と、美味しい物でも山ほど献上してからにしな。あんたみたいな安月給の下士官が買える女じゃないんだよ」
「このアマ……ッ! 偉そうに三枚歯高下駄を履きやがって、気取りやがってぇぇ!」
限界を迎えた河村軍曹は、怒髪天を衝く勢いで、千歳の絢爛な打掛の胸元に掴みかかろうとした。千歳も負けじと、細く硬いキセルを逆手に持ち替え、軍曹のイガグリ頭を叩こうと腕を振り上げる。
「おい! よさないか、2人とも! ここは戦場でも廓でもない! 喧嘩をやめなさい!」
真ん中に挟まれた海軍少尉の菅野が、必死の形相で陸軍の軍曹と花魁の腕を掴み、引き剥がそうとなだめるが、ベタベタと体がくっついているせいで、ドタバタと蔵の床板を揺らすだけだった。
「あわわ……っ、やめて、やめてください……!」
こころは、目の前で始まった歴史上の人物たちによる大音量の取っ組み合いに、ただただオロオロと視線を彷徨わせるしかなかった。
その時——。
コアラのようにくっついていた平成ギャル、高橋美香が、何重にもたるんだ真っ白なルーズソックスを引きずりながら、天を仰いで大きな、本当に大きなため息をついた。
「……ハァ〜。マジ何やってんだか、この大人たち」
ヤマンバメイクの奥の瞳が、完全に呆れ返っている。
ふと、オロオロするこころと、呆れる美香の視線が、大人たちの喧嘩の隙間を縫って、まっすぐに交わった。
大日本帝国陸軍の意地と、吉原の意地が激突して怒鳴り合う、令和の止まった時間の中。
現代の不登校少女と、一九九九年の平成ギャルは、お互いの顔を見合わせると——
「……ふふっ」
張り詰めていた緊張の糸が解けたように、2人で小さく、だけど確かに、通じ合うように笑った。




