第2話:二〇二六年への着地、肉体と時代の超密着
世界のすべてが静止した大谷石の蔵の中。
あまりにも生々しい肉体性を持って顕現した四人の亡霊と、中学二年生の山岸こころは、四〇センチのくすんだ真鍮のガチョウを核にして、まるで強力な磁石で引き寄せられたかのように、ベタベタと数珠繋ぎにくっついて離れなくなっていた。
「くっ、おのれ……! 航空帽の顎紐が締め付けられるようだ。手が、手のひらがこの鉄塊からどうしても剥がれん……! 貴様ら、これは一体何の謀略だ。新手の吸着兵器か!?」
特攻兵器「回天」の飛行服に身を包んだ海軍少尉・菅野浩次が、理知的な顔を歪めて叫ぶ。彼の右手のひらは、ガチョウの背中に完全に融着したかのように固定され、その菅野の左腕には、泰緬鉄道の泥を纏った陸軍軍曹・河村巌の、ゴツゴツとした無骨な左手がガッチリとくっついていた。
「バカ言え、海軍! 謀略を疑いたいのは俺のほうだ! 貴様こそ、その妙な鳥の置物を使って、陸軍の俺を呪縛したんじゃないだろうな!? 刀が……九五式軍刀の柄に右手が届かん!」
河村軍曹がボロボロの防暑衣の肩を怒らせ、ギリギリと歯噛みする。だが、その河村の分厚い胸板には、絢爛豪華な打掛を羽織った吉原の花魁・千歳の、白塗りの顔が不本意そうに押し付けられていた。
「うるさいねぇ、男たちの汗臭い匂いが鼻に突いて目眩がしそうだよ。打掛の袖がこれじゃあ台無しさね。心中ならもっと上等な男と小綺麗にやりたいもんだよ」
千歳は、べっ甲の髪飾りがジャラジャラと重々しい音を立てる頭を不快そうに揺らす。しかし、そんな千歳の華やかな孔雀の刺繍の背中には、真っ黒なガングロ肌にルーズソックスを履いた平成ギャル・美香が、まるでコアラのように背後からベッタリとくっついていた。
「ちょっ、マジ無理無理無理! 何これ超ウケるんですけど!っていうかウケない、ガチで手が離んない! ギャーギャーうるさいおじさん達も、その着物の激マブなお姉さんも、誰なわけ!?っていうか、私のパラダイスガラケーの画面、電波マークが一本も立たないんだけど! 圏外とかマジ終わってんだけど!」
美香は細眉をハの字に曲げ、青白いバックライトが虚しく明滅する液晶画面をパカパカと開閉させながら喚き散らしている。
そのカオスな超密着コミュニティの最中心で、オーバーサイズの黒いグラフィックTシャツの裾を美香に引っ張られ、デニムのショートパンツ越しに全員の体温を生々しく感じていたこころは、あまりの異常事態に、頭の片隅で奇妙な既視感を覚えていた。
「……これって、グリム童話の……」
こころの唇から、小さく言葉が漏れた。
「グリム童話の、金のガチョウみたいね……」
触れた人間が次々と数珠繋ぎになり、引き離せなくなってドタバタ劇を繰り広げる、あのおとぎ話。今、自分の目の前で起きているのは、まさにその滑稽で、だけど不気味な状況そのものだった。
「童話……? おい、そこの小娘。お前、何か知っているのか。ここはどこだ。今は……昭和何年だ」
菅野少尉が、航空帽の下から鋭い視線をこころに向ける。その瞳には、特攻出撃を目前に控えていた戦場の切迫感と、そこから切り離された底知れぬ恐怖が混ざり合っていた。
こころは、じっとりとした緊張の汗が背中を伝うのを感じながら、乾いた喉を鳴らした。
「昭和じゃ、ないよ。……今は、令和。西暦でいうと、二〇二六年」
こころの声が、大谷石の静寂に響く。
「私は、夏休みに栃木の、おじいちゃんちの蔵に遊びにきて……これを、ひいおじいちゃんの行李の中から見つけたの。今はもう、戦争なんてとっくに終わってる。今は、二〇二六年なの」
その瞬間、蔵の中の空気が凍りついた。
「二〇二六年……!? 令和だと……!?八十年も先だと……!? 日本は、どうなったんだ。大東亜戦争は……俺たちの戦いはどうなったんだ!」
菅野少尉の端正な顔が、驚愕に凍りつく。二十二年しか生きられなかった学徒兵の頭脳が、その途方もない未来の数字を拒絶するように激しく揺れた。
「馬鹿な……! 泰緬の収容所の絞首台へ連れて行かれる直前は、昭和二十一年だったはずだ。」
河村軍曹の無骨な顔から血の気が引き、泰緬鉄道の過酷な泥に塗れた防暑衣が、激しい呼吸で大きく上下する。上官の命令に従っただけで戦犯として刑死した彼にとって、八十年後の未来など、想像の埒外だった。
「二〇二六年……。アタシたちがノストラダムスの大予言で世界が滅びるって騒いでた、一九九九年よりもっと先じゃん……。マジ意味わかんない、アタシ、学校の屋上から飛び降りて……それから、どうなっちゃったの……?」
美香のガングロの顔が、ヤマンバメイクの白縁の奥で、子供のように歪む。彼女の持つガラケーの画面には、彼らの時代には存在しない「2026年」という時間が、止まった世界のなかで無機質に刻まれているかのようだった。
「ふん、百数十年も先かい……。吉原の廓も、とっくに露と消えたってわけだねぇ」
千歳だけが、自嘲気味に妖艶な唇を歪めた。誰も信じず、偽りの世界のなかで孤独に病死した彼女は、世界の変貌をどこか冷めた目で見つめていた。しかし、その打掛に包まれた身体は、かすかに震えている。
時代も、生きてきた世界もバラバラな四人の亡霊たち。だが、彼らが共通して纏っているのは、それぞれの時代で「人間関係」や「組織の同調圧力」に押し潰され、深く傷ついた魂の傷跡だった。
「……信じられんが、この世界の針が止まっていること、そして我々の身体がこのように醜態を晒して結合していることが、それが現実だと証明しているな」
菅野少尉が、深く、諦めたようなため息をついた。
「致し方ない。手が離れん以上、まずは互いの素性を明かすのが先決か。……私は海軍少尉、菅野浩次。第二〇一海軍航空隊、特攻兵器『回天』の搭乗員だ。学徒出陣で、二十二年の生涯だった」
「……陸軍軍曹、河村巌だ」
軍曹が、九五式軍刀の鞘をカチャリと鳴らし、苦渋に満ちた声を絞り出す。
「泰緬鉄道の俘虜収容所で、上官の命令通りに捕虜を動かした。戦後、イギリスの奴らに捕まり……BC級戦犯として処刑された」
「アタシは高橋美香。一六歳の高一」
ギャルが、ルーズソックスを引きずりながら、こころのTシャツを掴む手に力を込める。
「友達にハズされるのがマジで怖くて、毎日超無理してギャルやってた。メールの返信が遅いってだけでシカトされて……精神病んで、学校の屋上からバイバイした。平成の、一九九九年」
「私は吉原の江戸町、角町、三浦屋の千歳さね。本名は染という。二一で胸の病を患って、冷たい布団の中でひとりで死んだよ」
花魁が、真っ赤な唇から煙の出ない煙管をくゆらせるような仕草で、妖しく微笑んだ。
「男の嘘を買い、女の嫉妬を売り、誰も信じられずに生きた。二一の小娘さ」
特攻の海軍少尉、戦犯の陸軍軍曹、孤独な花魁、そして平成ギャル。
全員の視線が、最後に現代の中学生、山岸こころへと集まる。
40センチの重たいガチョウを抱え、全員の肉体と、それぞれの時代が背負う「人間関係の重苦しい闇」に押し潰されそうになりながら、こころは、生まれて初めて、自分の不器用な本音を言葉にするための、震える息を吸い込んだ――。




