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第1話:大谷石の静寂、四〇センチの鉄塊

 東京の夏は、他人の吐き出す熱気と自意識で窒息しそうだった。

 中学二年生の山岸こころが、学校という狭いカーストの軋轢に耐えかねてフリースクールに通うようになってから、都内の自宅マンションはどこか居心地の悪い場所に変わっていた。腫れ物に触るような両親の視線。世間の「普通」という無言の同調圧力が、鋭い針のようにこころの皮膚をチクチクと刺す。

 今日のこころの服装は、お気に入りのオーバーサイズの黒いグラフィックTシャツに、膝上が少し擦り切れたルーズなデニムのショートパンツ。都会のフリースクールに通う、ごく一般的な、だけど少し心を閉ざした現代の中学生の装いだ。

 だから、栃木の田舎にある祖父母の家へ行こうと言われたとき、こころは飛びついた。

「こころ、無理せんで、ここでゆっくりすればいいんだよ」

 日焼けした顔で優しく笑ってくれた祖父母は、この世界で唯一の、こころの理解者だった。けれど、その優しさにさえ、自分の弱さを突きつけられているような気がして、自己嫌悪が頭をもたげる。親戚たちが集まる居間の賑やかさから逃げ出すように、こころは敷地の外れにある古い蔵へと足を向けた。

 栃木特有の、ひんやりとした大谷石(おおやいし)で組まれた重厚な土蔵。

 幾星霜を経て苔むした緑灰色の石壁に手をかけ、錆びついた鉄の掛け金を外す。ギィ、と重苦しい悲鳴を上げて漆喰の扉が開くと、外の猛烈な太陽光が嘘のような、淀んだ薄暗がりが広がっていた。床板を踏みしめるたびに、湿った木と長年の埃の匂いが鼻腔を突く。

 一人になりたかった。誰も自分のことを見ない、誰も自分を値踏みしない空間が欲しかった。

 蔵の最奥、何十年も動かされていないであろう古い葛籠(つづら)の陰に、それはひっそりと隠されていた。

 一箱の、頑丈な布張りの箱――「将校行李(しょうこうこうり)」だ。

 国防色、すなわち緑褐色を帯びたキャンバス地は、ところどころが擦り切れ、縁を補強する真鍮製の金具は青緑色の緑青(ろくしょう)を吹いている。側面に墨書きされた掠れた文字。それは、かつて陸軍の将校として激戦地へ赴き、奇跡的に復員してこの家を守り抜いたという、こころのひいおじい様の名前だった。

 こころは吸い寄せられるように、緑青の浮いた金具に指をかけ、固いラッチを跳ね上げた。パチン、と乾燥した音が静かな蔵に響く。

 蓋を開けると、独特の防虫剤の香気とともに、丁寧に収められた昭和の遺品が現れた。

 一番上には、昭和十三年に制定された大日本帝国陸軍の「九八式軍衣」。最高級の羅紗(らしゃ)生地で作られた将校用のそれは、歳月を経てもなお気品ある絨毛の質感を保っている。立ち襟の左右には、赤い座布団の上で金色の星章が並ぶ階級章が鈍く光る。その脇には、長年の保管で硬化した、鈍い黒光りを放つ牛革製の「長靴(ちょうか)」が、一足きっちりと並べられていた。さらに軍衣の胸元には、精緻な七宝焼きの桐花をあしらった、功績の証たる「勲章(勲五等瑞宝章)」の入った漆塗りの小箱が鎮座している。戦場という、究極の集団狂気と同調圧力の中で、ひいおじい様が確かに生きていた証拠だった。

 だが、こころの目を引いたのは、その九八式軍衣の衣服の皺の隙間、行李の底の方に古びたボロ布に包まれて隠されていた、奇妙な「塊」だった。

 ボロ布をそっと剥ぎ取る。現れたのは、場違いなほど滑らかな曲線を持つ、真鍮製のガチョウの置物だった。

 大きさは四〇センチくらい。中学生の女の子が両手で抱えるほどのサイズだ。何気なく持ち上げようとしたこころは、「あっ」と小さく声を上げた。こころにとってはかなり重い。

 見た目の美しさとは裏腹に、まるで世界の重力をすべて吸い込んだかのような、ずっしりとした鉄塊の重量感が、こころの細い両腕にのしかかる。デニムのショートパンツの裾が擦れるほど低く抱え込んだガチョウの、芯まで冷え切った金属の冷たさが、手のひらから体温を奪っていく。

 なぜ、ひいおじい様は、こんな重たいガチョウを、軍服の奥に隠していたのだろう。

 こころが何かに抗えぬまま、その金属のガチョウの滑らかな背中に、そっと指先を滑らせた、その瞬間だった。

 「カチ、リ」

 耳の奥で、精緻な機械式時計が噛み合ったような、奇妙な音が鳴った。

 直後、世界からすべての「音」が消失した。

 Tシャツの胸元をかすめていた蔵の隙間風が止まり、差し込んでいた黄金色の光の粒子が、空気中でピタッと静止する。外の田んぼで狂ったように鳴き喚いていた蝉時雨が、まるでスイッチを強制的に切られたかのように途絶えた。

 令和の時間が、完全に停止したのだ。

「……っ!?」

 息を呑むこころの目の前で、大谷石の壁の影、そして将校行李の奥の空間が、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。

 静寂を破り、そこに現れたのは――あまりにも生々しい肉体性を持った、「4人の亡霊」だった。

 ひとりは、最期の瞬間に身に纏っていたはずの、特攻兵器「回天」搭乗時の航空衣料(飛行服)を纏った海軍少尉、菅野浩次(22)。

 防寒用の兎毛が内張された航空帽を深く被り、その額には「必勝」と墨書された日の丸の鉢巻が、血が滲むほどの力で結ばれている。上衣の胸元には、飛行科搭乗員を示す「鷲の翼」の胸章。航空救命胴衣(カポック)の太い紐が胸前で強固にクロスし、その隙間から、二十四年式航空時計の幅広な革ベルトが覗く。腰には、海軍将校の証である海軍短刀。

 彼の周囲だけ、徳山湾・大津島基地の刺すような潮の匂いと、回天の内部に充満する九一式航空揮発油(ガソリン)の、鼻を突く強烈な臭気が漂っていた。学徒出陣ゆえの理知的な切れ長の目を剥き、菅野少尉が周囲を見回す。

「……五〇型酸素魚雷の信管は、まだ抜いていない。ここは……伊号潜水艦の甲板上か?」

 その背後、影が一段と濃くなった場所から、重い足音とともに現れたのは、陸軍軍曹・河村巌(32)だった。

 彼が纏うのは、あの地獄の「泰緬鉄道」建設現場の泥にまみれて生き抜いた、ボロボロの防暑衣だ。生地は汗と脂、そして硝煙で斑に汚れ、幾度も現地で拙く補修された形跡がある。襟元には、三ツ星の下に一本の赤線が走る、陸軍軍曹の階級章。下士官である彼の革帯(ベルト)には拳銃はなく、ただ一本の、使い込まれた茶色い木製柄の九五式軍刀(曹長刀)だけが不気味に吊るされている。

 彼のまわりには、タイとビルマの国境に広がるジャングルの、あの酷暑と腐臭が立ち込める。捕虜収容所の監視員として、上からの絶対命令に従って連合軍捕虜を過酷な労働に就かせただけなのに、戦後はすべての責任を押し付けられ、BC級戦犯として刑死した不条理。無骨で四角い顔には、組織に裏切られた男の、深い絶望の皺が刻まれていた。

「命令は絶対だ。拒否すれば俺が殺される。なのに……なぜ俺だけが処刑されにゃならんのだ……」

 そして、そのミリタリーの重苦しい空気を裂くように現れたのが、女性のふたりだった。

 ひとりは、吉原の最高位を極めた花魁、千歳(21)。

 京都の最高級絹織物、目が眩むほど鮮やかな真紅の地に見事な金糸銀糸で孔雀が刺繍された、五重の重みを持つ絢爛な打掛を羽織っている。首元からは抜けるように白い白塗りの肌が覗き、その妖艶な唇には、紅花から作った艶やかな赤が差されている。頭上には、べっ甲の髪飾りが何本も複雑に突き刺さり、歩くたびにジャラジャラと重々しい音を立てる。その下に潜む瞳は、男たちの嘘を見破り続け、誰のことも信用しないと決めた、冷徹で孤高な美しさに満ちていた。

「やれやれ……粋じゃない場所へ連れてこられたもんだねぇ」

 もうひとりは、一九九〇年代末の東京をそのまま切り取ってきたような平成ギャル、美香(16)。

 限界まで細く抜きまくった麻呂のような細眉に、不自然なほど真っ黒に日焼けした「ガングロ」の肌。目の周りだけを不気味なほど白く縁取ったヤマンバメイクが、薄暗い蔵のなかで異様な存在感を放っている。首元にはハイビスカスの安っぽいチョーカー。制服の紺のプリーツスカートは極限まで短く折られ、その下からは、泥だらけの蔵の床板を引きずる、何重にもたるんだ真っ白なルーズソックス。手元には、不釣り合いなほど青白いバックライトが明滅する、パラダイス形状のガラケーをしっかりと握りしめている。学校カーストの繋がりを恐れて自死した彼女は、狂ったように画面を凝視しながら喚いた。

「ちょ、マジ意味わかんないんだけど! 電波入ってないし、何ここ!?」

 パニックになったこころは、両手に抱えた四〇センチの重たい金のガチョウを放り出そうとした。

 しかし――離れない。

 オーバーサイズのTシャツを引っ張られるように、手のひらが強力な電磁石で吸い付けられたかのように、真鍮の肌から剥がれないのだ。

 それどころか、異変に気づいた菅野少尉が、河村軍曹が、千歳が、美香が、磁石に引き寄せられるようにこころの手やガチョウに触れた瞬間、エネルギーの奔流が蔵の中を駆け抜けた。

「な、なんだこれは!? 操舵レバーではない……手が離れん!」(菅野)

「おのれ、新手の敵の術策か! 貴様、何者だ!」(河村)

「ちょっとマジで何これ!? 超ウケるんだけど、手がベタベタくっついて動けないんだけど!」(美香)

「心中でもさせようってのかい? 嫌だねぇ、男の手なんて冷え切ってるよ」(千歳)

 令和の時間が止まった、栃木の古い大谷石の蔵の中。

 四〇センチの重たい金のガチョウを核にして、特攻の飛行服を着た海軍少尉、泰緬鉄道の泥を纏った戦犯軍曹、絢爛にして孤高な花魁、そしてガングロにルーズソックスの平成ギャル。

 時代も、身分も、抱える闇もバラバラな5人の、物理的かつ精神的な「強制超密着コミュニティ」の幕が、いま切って落とされた――。

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