遠い光
第二話 遠い光
天音という名前を、彼女自身が特別に意識したことはなかった。生まれたときに両親から与えられた、ただ一つの名前であり、基地の中ではそれを呼ばれることも多かったが、それ以上の意味を考えたことはない。十八年続いている戦争の中で生まれ育った彼女にとって、名前も基地も、空を観測することも、すべては当たり前のものだった。
その日の午前、天音が観測室で記録を整理していると、通信担当の兵士から声をかけられた。
「天音、少し手を貸してくれないか」
振り返ると、兵士は一枚の記録用紙を持って立っていた。そこには前日の夜から記録されていた観測データが並んでいたが、いくつかの数値だけが不自然な動きをしている。
「これ、何ですか?」
「昨日から何度か同じような変化が出ているんだ。最初は機械の不調かと思ったんだが、どうも違うらしい」
天音は記録用紙を受け取り、数字を目で追った。変化は大きなものではなく、注意して見なければ気づかない程度のものだったが、確かに一定の間隔で繰り返されている。故障ならばもっと不規則な動きになるはずなのに、その数値はまるで何かに合わせるように変化していた。
「別の観測機では?」
「それも調べている。ただ、念のため外でも確認したい」
そう言われ、天音は基地の外にある古い観測所へ向かうことになった。
基地の門を出ると、普段見慣れているはずの景色が少し違って見えた。基地の周囲には戦争が始まる前にはなかった壁や柵が増え、道路の先には使われなくなった建物がいくつも残っている。かつて人が暮らしていた場所なのだろうが、今では窓の割れた家や草の伸びた空き地が続いていて、そこに誰かがいた頃の気配だけが取り残されていた。
天音は隣を歩く兵士に尋ねた。
「ここにも昔は人が住んでいたんですか?」
「ああ。戦争が始まってから移されたらしい」
それ以上の説明はなかった。兵士も詳しいことを知らないのか、それとも話す必要がないと思ったのか、しばらくすると黙って前を向いた。
古い観測所は小さな丘の上に残っていた。使われなくなってから長いのか、外壁には傷が目立ち、観測機器も古いものばかりだったが、最低限の設備はまだ動かすことができた。
二人で機器を確認すると、しばらくして昨日と同じ変化が現れた。
天音は画面を見つめたまま、何も言わなかった。
「基地と同じだな」
兵士の言葉に、天音も小さくうなずいた。
少なくとも、基地の観測機器だけがおかしくなっているわけではない。それだけははっきりしたが、原因については何も分からなかった。
帰り道、天音は何度か空を見上げた。昼間の空には雲が少なく、遠くまで青が広がっている。いつもなら特に気に留めることもない景色だったのに、その日はなぜか空の向こうに何かがあるような気がした。
もちろん、何かが見えたわけではない。
ただ、そこに何かがある。
そんな感覚だけが残った。
基地へ戻ったあとも観測データの確認は続いた。夕方になってからもう一度数値が変化し、今度はその変化がどの方向から来ているのかを調べることになった。複数の観測記録を重ねていくと、やがて一つの方向が浮かび上がった。
地上ではない。
基地の周辺でもない。
その先にあるのは、空だった。
「……空の上?」
誰かが呟いた。
天音は画面に表示された方向を見つめた。そこからさらに位置を確認していくと、ある一点が示される。昼間には見えないほど遠い場所だったが、夜になれば確かめられるはずだった。
夜が来るまでの間、天音はそのことを何度も考えていた。
そして、空が暗くなった頃、観測塔から見上げた星の中に、記録された方向と重なる一つの星を見つけた。
特別明るい星ではなかった。
周囲にもいくつもの星があり、名前すら知らない星だった。それなのに、天音はその星から目を離すことができなかった。
見たことがあるような気がした。
初めて見るはずなのに、ずっと昔から知っていたような、不思議な懐かしさが胸の奥に残る。
「……なんでだろう」
誰に向けたわけでもなく、天音は小さく呟いた。
星は何も答えない。ただ遠い場所で静かに光っているだけだった。
天音はしばらくその光を見つめたあと、観測室へ戻り、いつもの記録用紙に今日の出来事を書き込んだ。
観測データに異常あり。
基地外の観測地点でも同様の現象を確認。
原因不明。
そして最後に、少しだけ迷ってから、
「特定の星の方向と一致」
と記した。
その文字を見つめながら、天音はもう一度だけ窓の外を見た。
遠い光が、夜の空に静かに浮かんでいた。
第二話です!!!
たくさん読んでくださって嬉しいです〜
ゆっくり更新していくのでよろしくお願いします!




