青い世界
第一話 青い世界
戦争が始まってから、十八年が経っていた。
少女が生まれるよりも前から続いている戦争だった。
だから少女にとって、戦争というものは特別なものではなかった。
朝になれば、基地のどこかで警報が鳴る
昼になれば、軍用車両が基地の中を行き交う
夜になれば、街の灯りが減る
それが、この世界では当たり前だった。
午前五時四十分
少女は目を覚ました。
目覚まし時計が鳴るより少しだけ早い。
薄暗い部屋の天井をしばらく眺めてから、ゆっくりと身体を起こした。
まだ外は夜と呼んでもいいくらい暗かった。
窓の向こうには、基地の照明がいくつか見えている。
規則正しく並んだ白い灯り
その間を、作業員たちが行き交っている。
遠くでは車両のエンジンがかかる音がした。
低い音が地面を伝わって、建物の中まで響いてくる。
少女はベッドの上に座ったまま、しばらくその音を聞いていた。
毎朝聞いている音だった。
だから、特に気にすることもない。
ベッドから降りる。
床は冷たかった。
備え付けの机の上には、昨日の夜に読みかけた資料が置かれている。
紙の端には、鉛筆でいくつか書き込みがあった。
今日の勤務内容
観測塔での午前勤務
午後は通信設備の点検
夜間観測
いつもと変わらない
少女は資料を一度だけ確認してから、制服に着替えた。
鏡を見ると、眠そうな顔が映っている。
髪を手で整え、少し跳ねているところを直す。
それだけで準備は終わった。
部屋を出る前に、少女は窓のところへ歩いていった。
カーテンを開けると、空はまだ暗かった。
東の空の端だけが、ほんの少し白くなっている。
朝が近づいていた。
窓を開けると、冷たい風が部屋に入り込んでくる。
「……寒い」
小さく呟いてすぐに閉め、それからもう一度だけ空を見た。
まだ夜の色が残っていて、星がいくつか見えていた。
少女はそれを眺めた。
特別なことではない。
毎朝のように空を見ている。
ただ、それだけだった。
少女は部屋を出た。
廊下には、すでに何人かの兵士がいた。誰もが眠そうな顔をしている。
軍の基地とはいっても、朝から全員が緊張しているわけではない。
眠いものは眠いし、寒いものは寒いし、腹が減れば腹が減る。
戦争が始まって十八年経っても、人間の生活そのものが変わるわけではなかった。
廊下の角を曲がったところで、前から一人の兵士が歩いてきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「早いな」
「そちらも」
「俺は当番だから」
兵士は欠伸をしながら言った。
「今日は観測塔?」
「はい」
「じゃあ、また一日中空を見てるわけだ」
「仕事ですから」
「分かってるよ」
兵士は笑った。
「でも、お前は本当に空が好きだな」
少女は少し考えた。
「……そうかもしれません」
「かもしれない、か」
「自分ではよく分からないので」
「変なの」
そう言って、兵士は先へ歩いていった。
少女も反対方向へ歩き出し、階段を下りる。
一階まで降りると、食堂へ向かった。
朝の食堂には、すでに多くの兵士が集まっていた。
大きな窓の外は、まだ暗い。天井の照明だけが食堂を明るく照らしている。
食器の触れ合う音、椅子を引く音、眠そうな会話、時折、笑い声。
どこにでもある朝の風景だった。
少女は列に並び、朝食を受け取った。
パン、スープ、卵、それから、少しだけ野菜。
席を探していると、窓際の席から手を振る人がいた。
少女はそこへ向かった。
「今日は遅かったな」
「いつもと同じですよ」
「そうだっけ?」
「そうです」
向かいに座り、スープを飲む。
少し熱かった。少女は思わず顔をしかめた。
「熱い?」
「……はい」
「毎回言ってない?」
「毎回熱いので」
「冷ましてから飲めばいいだろ」
「分かってます」
そんな会話をしながら、朝食を食べる。
窓の外が少しずつ明るくなっていく。暗闇が薄くなり、基地の建物の輪郭が見えるようになる。
食堂の壁には、古い地図が貼られていた。
現在の国境、戦線、立入禁止区域、軍の施設、避難区域。
少女は何度も見ている地図だった。
地図の中央には、この基地の位置が印されている。
そこから少し離れた場所には、大きな赤い線が引かれていた。
前線だった。
戦争が始まったばかりの頃は、もっと遠かったらしい。
今では、そこまでの距離は地図上でもそれほど大きくない。
それでも、この基地まで戦火が届くことはほとんどなかった。
前線と基地の間には、いくつもの防衛施設がある。
そのため、ここにいる兵士たちは直接戦うことよりも、情報を集めることを任されていた。
敵の航空機、通信、気象、衛星。
遠くで起きていることを観測し、必要な情報を前線へ送る。
戦場では、銃声や爆発の音ばかりが注目される。
けれど、その背後ではもっと静かな戦いが続いていた。
誰が先に見つけるか、誰が先に気づくか、誰が見えないものを見つけられるか
それが、この基地の仕事だった。
「今日、天気どうだって?」
向かいから聞かれる。
「晴れです」
「本当?」
「昨日の予報では」
「じゃあ、外れなければいいな」
「どうして?」
「雨が降ると面倒だから」
少女は少し笑った。
「それだけですか」
「それだけだよ」
朝食を終え、時計を見る。
点呼まで、あと十分
少女は食器を返却し、食堂を出た。
外へ出ると、朝の空気は冷たかった。
吐いた息が白くなる。
基地の敷地は広く、建物と建物の間には道路があり、車両が走っている。
格納庫、兵舎、司令棟、通信施設、医療棟。
そして、敷地の一番奥に観測塔がある。
少女はそこへ向かった。
観測塔は、基地の中でも古い建物だった。
何度も改修されているが、基礎となる部分は建設当時のままだという。
灰色の壁、細い窓、屋上へ伸びる長い階段
塔の上には大型の観測装置が設置されている。
遠くを見るための望遠装置や空を監視するためのレーダー。
通信設備、そして、夜空を観測するための装置。
少女がここで働くようになってから、三年になる。
最初は何も分からなかった。
機械の使い方も、観測記録の書き方も、通信の手順も、少しずつ覚えていった。
今では、一人で任務を任されることもある。
点呼が終わり、少女は観測塔へ入った。
「おはようございます」
「おはよう」
中ではすでに何人かが作業を始めていた。
モニターに表示された数字を確認する。
気温、湿度、風向、視界、雲量
すべて記録する。
午前中の観測は、特に変わったこともなかった。
空はよく晴れていて、遠くまで見える。
地平線の向こうに、山々が連なっている。
そのさらに向こうには、前線がある。
少女は望遠装置を動かした。
山、道路、森林、監視塔、遠くに見える施設
いつもと同じ景色だった。
戦争が続いていることを忘れそうになるほど、静かだった。
けれど、耳を澄ませば分かる。
遠くから、低い音が聞こえてくる。
砲撃の音だった。
ここまで届く頃には、ほとんど音になっていない。
ただ、地面の奥で何かが鳴っているような音。
少女は望遠装置から目を離した。
しばらくして、また覗く。
何も見えない、それでいい。
ここから何かが見えるということは、状況が悪くなったということだから。
観測塔では、それが常識だった。
見えないこと、聞こえないこと、何も起きていないこと、
それが、一番いい。
昼になる。
交代の時間だったので、少女は記録をまとめた。
観測データを保存し、紙の記録にも同じ内容を書き写す。
この基地では、電子機器だけを信用することは許されていない。
戦争が始まってから、通信設備が壊れることが何度もあった。
停電に、攻撃、故障、原因はいろいろだった。
だから重要な記録は、必ず紙にも残す。
古いやり方だった。
それでも、紙は停電しても読める。
少女は最後に時刻を書き込んだ。
十二時三分
ペンを置き、窓の外を見る。
朝とは違って、空は完全に青くなっていた。
雲ひとつない。
「いい天気ですね」
隣にいた観測員が言った。
「そうですね」
「こういう日は、戦争なんてしてるのが馬鹿らしくなるな」
少女は返事をしなかった。
その言葉の意味が分からなかったわけではない。
ただ、空が青いことと、戦争が続いていることは、少女の中では別のことだった。
青い空は青い
戦争は戦争
どちらかが、どちらかを消すわけではない。
世界には、そういうものがたくさんある。
悲しいことがあっても、朝は来るし、誰かが死んでも、腹は減るし、街が壊れても、雨は降る。
戦争が始まっても、季節は変わる。
少女はそれを、当たり前のことだと思っていた。
昼休み。
食堂へ向かう途中、少女は掲示板の前で足を止めた。
新しい紙が貼られている。
補給物資の配給について
今週の勤務表に、周辺区域の通行規制。
それから、戦況に関する簡単な報告。
前線の位置が、少し変わっていた。
少女は紙を読んだ。
数日前より、線が数キロ動いている。
けれど、それ以上は読まなかった。
戦況を知ることは仕事の一部だった。
だから知っている。
それでも、知りすぎる必要はない。
基地で暮らす人々は、みんなそうしていた。
必要なことだけ知る。
必要なことだけ考える。
そうしなければ、十八年も戦争を続けることなどできなかった。
少女は掲示板から離れた。
食堂へ行く。
午後の仕事は通信設備の点検だった。
観測塔から少し離れた施設へ向かう。
通信施設の中は、いつも機械音がしている。
無数のランプ、画面、配線、アンテナから送られてくる信号、
少女は担当者から点検表を受け取った。
一つずつ確認する。
電圧、接続、出力、異常なし、記録、次。
その繰り返しだった。
単調な作業。
けれど、少女は嫌いではなかった。
決められた順番で、決められたことを、決められたように確認する。
世界が複雑でも、機械はそうではない。
壊れていれば直すし、動いていれば使う。
信号が来れば受け取るし、来なければ待つ。
分かりやすい
だから好きだった。
夕方。
少女は再び観測塔へ戻った。
空は少しずつ色を変えていた。
昼間の青が薄くなり、西の空が橙色に染まっている。
少女は窓際に立ち、夕焼けを見る。
基地の建物も、道路も、車両も、すべてが赤く染まっていた。
この時間だけは、基地が少し違って見える。
灰色の壁も、鉄の塔も、軍用車両も、遠くの監視施設も、
全部が同じ色になる。
少女は、それが好きだった。
誰が兵士で、誰が民間人で、どこが敵で、どこが味方なのか。
そういうものが、ほんの少しだけ分からなくなるからだ。
「また見てる」
後ろから声がした。
「はい」
「好きだな、本当に」
「好きなのかもしれません」
「理由は?」
「分かりません」
「それじゃ答えになってないだろ」
少女は笑った。
「じゃあ、きれいだから」
「それも普通だな」
「普通でいいじゃないですか」
「まあ、それもそうか」
声の主は椅子に座った。
少女はそのまま空を見ていた。
太陽が山の向こうへ沈んでいく。
空の色が、橙から赤へ、赤から紫へ、そして、少しずつ青へ戻っていく。
やがて夜になる。
少女は、その変化をずっと見ていた。
何度見ても飽きなかった。
同じ空なのに、毎日少しずつ違う。
雲の形、光の色、風、空気、遠くの山の輪郭。
どれも同じではない。
だから少女は、空を見ていた。
その日の夜。
基地では夜間勤務が始まった。
照明が落とされ、必要な場所だけに灯りが残る。
基地の外は暗い。
街も暗い。
戦時下では、夜の明かりは危険だった。
遠くから見れば、それだけで位置が分かってしまう。
だから人々は、暗闇の中で暮らすことに慣れていた。
少女もそうだった。
観測塔の屋上へ出る。
風が吹いている。
昼よりも冷たい。
空を見上げる。
星が見えた。
いくつも。
無数に。
街の明かりが少ないせいで、昔よりも星はよく見えるらしい。
少女はその話を聞いたことがある。
戦争が始まる前は、もっと明るかった。
街にはたくさんの灯りがあって。
夜でも道路は明るく。
建物の窓にはたくさんの光があった。
だから、星は今より見えなかった。
戦争が始まって、街が暗くなって、人々が眠る時間が早くなって、
ようやく、空がよく見えるようになった。
皮肉な話だった。
少女は手すりに手を置き、空を見上げる。
星座を探す。
いくつか知っている。
軍の観測員として覚えたものもあれば、昔から知っていたものもある。
けれど少女には、星座の名前よりも、その形のほうが大切だった。
あそこに三つ、少し離れて一つ、その横に細い光。
線を引けば、何かの形になる。
けれど少女は、その形を名前で呼ばなかった。
ただ、そこにあるものとして見ていた。
風が吹き、少女の髪が揺れる。
遠くで車両の音がする。
通信施設から短い電子音が聞こえる。
基地は眠らない。
戦争が続いている限り、夜も仕事は続く。
少女は時計を見た。
二十二時四十六分
まだ勤務時間は残っている。
観測室へ戻ろうとした。
そのときだった。
「……あ」
少女は足を止め、空を見た。
何かがあったわけではない。
飛行機も飛んでいない。
雲もない。
月も見えている。
星もあるし、いつもと同じ。
ただ、ほんの一瞬だけ、少女は、空の向こう側を見たような気がした。
空よりさらに遠く、星よりさらに遠く、何もないはずの場所。
そこに、何かがあるような気がした。
少女は目を細めた。
けれど、何も見えない
ただ黒い夜空が広がっている。
星がある、月がある、それだけだった。
「どうした?」
観測室から声がした。
「……何でもありません」
少女は答えた。
もう一度、空を見るが、やっぱり何もない。
気のせいだったのだろう。
少女は観測室へ戻った。
椅子に座り、記録を確認する。
時刻を書く。
二十二時五十分
天候、晴れ
視界、良好
風、北西
異常なし
少女は最後の項目に目を通した。
異常なし
いつも通りの言葉だった。
ペンを置き、窓の外を見る。
夜空は静かだった。
遠くの街も静か、基地も静か、戦争さえ、今だけは遠い。
少女は椅子から立ち上がった。
もう一度だけ、空を見る。
星がある、たくさんある。
昔から、そこにあったもの、ずっと遠くにあるもの、手を伸ばしても届かないもの。
少女はしばらく、その光を見つめていた。
それから小さく息を吐いた。
窓を閉め、カーテンを引く。
観測室の明かりに戻る。
少女は知らなかった。
この世界のどこかでは、同じ夜空を見上げている人がいることを。
同じ星を見ている人がいることを。
そして、この広い世界には、まだ誰も知らない場所があることを。
ただ、その夜も、少女にとっては、いつもと変わらない一日だった。
朝が来て、昼が過ぎて、夕暮れになって、夜が来る。
それだけだった。
世界はまだ、青かった。
王室御用達nです初めまして!
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