第57話◇ 足りないもの
コウイチがステータスの表示を閉じると、ミアがすぐに口を開いた。
「コウイチ様。もう戻りましょう」
「ああ」
ポーションのおかげで痛みは少し引いているが、折れた骨まで治ったわけではない。いつまでも危険なダンジョンの中で休んでいる理由はなかった。
コウイチは壁へ手をつき、ゆっくり身体を起こそうとした。足には力が入ったものの、上半身を伸ばしたところで右の脇腹から胸にかけて鋭い痛みが走る。
「っ……」
すぐにミアが隣へ入り、その身体を支えた。
「無理しないでください」
「してるつもりはないんだけどな」
「さっきもそう言って《穿牙》を使いました」
「……それを言われると弱いな」
あの時は他に手段がなかったとはいえ、折れた肋骨を抱えたまま《穿牙》を放ち、その直後にゴーレムの反撃まで受けている。結果として生き残れたからよかったものの、もう1度同じことをやれと言われても断る。
コウイチは無理に自分だけで立とうとせず、ミアへ身体を預けた。
以前なら、自分のことくらい自分でどうにかしようとしたかもしれない。だが今は、できないことを無理にやる理由がない。ミアにできるなら頼ればいい。
少し呼吸を整えてから、鉱殻ゴーレムが消えた場所へ視線を向ける。
床には、黒灰色の大きな魔石と外殻らしい欠片、それに拳ほどの大きさの鉱石のようなものが残されていた。
「ミア、悪い。落ちてる物を回収してくれるか?」
「全部ですか?」
「ああ。何か分からない物もあるから、とりあえず全部持って帰ろう」
「分かりました」
ミアはコウイチを壁へもたれさせると、もう1度周囲を確かめてからドロップ品を拾い始めた。
大きな魔石と外殻の欠片をマジックポーチへ入れ、最後に拳ほどの鉱石のような物を手に取る。一瞬だけ首を傾げたものの、その場で詳しく見ることはせず、他の物と一緒にしまった。
今はそれでいい。
未知の物を見れば《鑑定》したくなるが、好奇心を優先した結果、危険度Cの魔物と戦う羽目になったばかりだ。さすがに今日は、調べることより帰還を優先したかった。
回収を終えたミアは、少し離れた場所へ転がっていた槍も拾った。
「それも持つのか?」
「はい」
「短剣もあるだろ」
「大丈夫です」
ミアの身体には長すぎる槍を持ち上げ、扱いやすい位置を探すように柄を持ち直す。
「……少し長いです」
「俺用だからな」
「でも、持てます」
「じゃあ頼む」
そこでミアが、床へ転がったままのつるはしへ目を向けた。
「あれは?」
「安物だし、今はいい。置いていこう」
「持てますよ?」
「槍を持って、俺まで支えるんだろ。それ以上は頼まない」
ミアは少し考えてから頷いた。
「分かりました」
まだ2階層へ入ったばかりで、調べたい場所はいくらでもある。それでも怪我を抱えたまま先へ進むのは、探索ではなくただの無謀だった。
「帰ろう」
「はい」
ミアに肩を借りながら来た道を戻り始めると、ポーションのおかげで歩けはするものの、一歩ごとに胸の奥へ鈍い痛みが響いた。行きには何でもなかった通路が妙に長く感じられ、1階層まで戻った頃には、戦闘中に張り詰めていたものが切れたのか、身体の重さも増していた。
途中ですれ違う鉱夫や冒険者も、ほとんどがこちらを見る。
小柄なミアが槍まで持ち、コウイチがその肩を借りて歩いているのだから、何かあったことくらいは一目で分かるのだろう。
ようやく入口近くまで戻ったところで、見覚えのある年配の鉱夫がこちらへ気づいた。
「おい、お前ら」
「……どうも」
「どうもじゃねえだろ」
近づいてきた鉱夫はコウイチの姿を上から下まで見ると、眉間に深い皺を刻んだ。
「だから言っただろうが。ダンジョンで絶対なんて言葉は使うなって」
「言われましたね」
「で、何にやられた?」
「鉱殻ゴーレムです」
それまで呆れていた鉱夫の表情が変わった。
「……どこで?」
「2階層です」
「冗談だろ。あれは危険度Cだぞ」
「Lv22でした」
鉱夫はしばらく黙ったあと、今度はミアを見た。
「倒したのか?」
「なんとか」
「何をしてたら、2階層でそんなもんに出くわすんだ」
「見た目は普通の岩でした。でも、《鑑定》では名前の分からない鉱石と出たので、つるはしで叩いたら壁が崩れて、中から出てきました」
「……得体の知れねえもんを、いきなり掘るんじゃねえよ」
「気になったので」
「馬鹿か、お前は」
「結果だけ見れば否定できませんね」
鉱夫は大きく息を吐いたものの、すぐに表情を引き締めた。
「ギルドには報告しろ。2階層で危険度Cが出たなら確認が必要だ」
「そのつもりです」
「その前に治療院だ」
「場所だけでも先に――」
「嬢ちゃんに話させりゃいい。お前はまともに歩けてねえだろ」
言われて自分の足元を見ると、確かに歩いてはいるものの、ほとんどミアへ体重を預けている。
「ミア、場所は覚えてるか?」
「はい。2階層へ入ってからの道も覚えてます」
《索敵》を使いながら周囲を見ていたミアなら、自分より正確かもしれない。
「じゃあ、入口で簡単に説明してもらっていいか?」
「はい」
「最初からそうしろ」
鉱夫に呆れられながら地上へ戻り、入口の受付ではミアが状況を説明した。2階層で危険度Cの魔物が出現したと聞いた職員も、さすがに表情を変えた。
詳しい聞き取りは後でも構わないと言われ、まずは現場へ調査員を送ることになった。
入口での報告を終えると、2人はそのまま街へ戻った。治療院は冒険者ギルドからそれほど離れておらず、鉱山とダンジョンを抱える街だけあって怪我人も多いらしい。待合には腕へ包帯を巻いた鉱夫や、足を固定された冒険者が何人もいた。
診てくれたのは、50代ほどに見える男性だった。
「鎧を外せるか?」
「時間をかければ」
「なら嬢ちゃんに手伝ってもらえ。今さら無理して自分でやる意味はない」
「……今日はよく言われます」
「言われるようなことをしてるんだろ」
その通りなので反論できない。
ミアに手伝ってもらいながら革鎧を外すと、右の脇腹から胸にかけて青黒い痣が広がっていた。治療師は慎重に指を当てながら痛む場所を確かめ、背中や肩まで調べたあと、最後に深く息を吸うよう指示した。
言われた通りにしたところで、途中から鋭い痛みが走る。
「もういい。肋骨が何本か折れてるな。2本……いや、3本くらいか。細かいひびもありそうだ。右肩と背中もかなり打ってる」
「ポーションは飲みました。戦闘が終わってすぐです」
「それは正解だ。飲んでなかったら、今よりずっと面倒だっただろうな。内出血や筋肉の損傷は、かなり抑えられてる」
「骨も少しは?」
「普通の回復ポーションで折れた骨まで一瞬で繋がるなら、治療院なんて商売にならん」
「ですよね」
「高級品なら骨まで効く物もあるが、値段を聞いたら怪我する前より顔色が悪くなるぞ」
「それは遠慮します」
治療師は少し笑ってから、コウイチの右胸へ手をかざした。
「今から治癒魔法をかける。骨の治りは早められるし、痛みも多少は引く。ただし、これで終わりじゃない。明日も来い。その次の日もだ」
「何日くらいです?」
「最低でもあと3日は診たい。骨の位置と治り方を確認しながら治療する。戦闘は当然禁止だ」
「3日か……」
それなら、明日にでもラグナードへ戻るつもりだった予定を変える必要がある。
「帰りの馬車くらいなら――」
「駄目です」
横から声が飛んできた。
コウイチが振り向くと、ミアが真剣な顔でこちらを見ている。
「治療が終わってから帰ります」
「でも、3日だぞ?」
「3日です」
「宿代も――」
「駄目です」
治療師が笑いながら頷いた。
「嬢ちゃんの方が話が早いな。馬車に何時間も揺られて骨をずらしたら、余計に時間がかかる。数日はこの街にいろ」
2対1になった。
「……分かりました」
「最初からそう言えばいいんです」
「ミア、最近ちょっと強くなってないか?」
「Lvも上がりました」
「そういう意味じゃないんだけどな」
治癒魔法が始まると、治療師の手から淡い光が広がり、右胸の奥へ温かいものが染み込んでいった。
治療が終わる頃には、呼吸するだけで走っていた痛みはかなり弱くなっていた。それでも身体を捻れば、まだはっきりと痛む。
治ったわけではない。
だからこそ、治ったつもりにならないことが大事なのだろう。
「今日は銀貨15枚だ。明日からは1日銀貨5枚でいい」
「分かりました」
コウイチは銀貨15枚を支払った。
宿へ戻る道をミアとゆっくり歩きながら、コウイチは今日の戦いを改めて考えていた。
鉱殻ゴーレムには勝った。
経験も得たし、ドロップ品も持ち帰ることができた。それでも、あれを成功だったとは思えない。
罠についてはほとんど知識がなく、採掘に至っては今日初めてつるはしを握った程度だった。硬い魔物を相手にした時の攻撃手段も少なく、自分が動けなくなった瞬間、そのすべてをミア1人に背負わせることになった。
「ミア」
「はい」
「俺たち、2人じゃ少ないな」
ミアがこちらを見上げる。
「弱いですか?」
「いや。強さじゃなくて、できることが足りないんだと思う」
コウイチは、少し先を歩いている鉱夫たちへ目を向けた。
数人で荷車を押し、それぞれが違う道具を持っている。つるはしを担ぐ者もいれば槌を持つ者もいて、腰に武器を差して周囲を警戒している者もいた。
「ミアの《索敵》には何度も助けられてる。でも、今日のゴーレムは動き出すまで反応しなかった。それにギルドで聞いた通り、魔物の気配を探すのと、床や壁にある罠や異変を見抜くのは別なんだろうな」
「……はい」
「ミアが悪いって意味じゃないぞ。俺も、《索敵》があればかなり安全になると思ってたからな」
ギルドでは、罠は《索敵》で必ず見つけられるわけではないと聞いていた。知識として理解していたつもりでも、実際に目の前の危険を見落とすまで、その違いを本当には分かっていなかったのかもしれない。
「それだけじゃない。採掘も分からないし、鉱石の知識も足りない。硬い魔物への対処も考えないといけないし、今日みたいに俺が動けなくなったら、ミア1人になる」
「私がもっと強くなれば――」
「それとは違う」
コウイチは首を振った。
「あのゴーレムを最後に倒したのはミアだ。十分やってるよ」
ミアの耳がわずかに動いた。
「足りないのは、強さより役割だと思う。俺たち2人で何でもできるようになるまで覚えるって方法もあるけど、それじゃ時間がかかりすぎる」
以前なら、できないことが見つかれば、まず自分で覚える方法を考えていた。他人に頼るより、自分でできた方が安全だと思っていたからだ。
今でも、その考え自体が間違っているとは思わない。
だが今日、自分が動けなくなった瞬間に分かった。2人しかいなければ、1人が倒れただけで、残された1人へすべてがのしかかる。
「ラグナードへ戻ったら、ルークのところへ行ってみようと思う」
「奴隷商館ですか?」
「ああ。俺たちにできないことができる奴がいるかもしれない。すぐ買うかは分からないけど、話くらいは聞いてみたい」
「分かりました」
ミアはそれ以上何も言わなかった。
ただ宿へ戻るまで、いつもより少し考え込んでいるように見えた。
◇
翌朝、コウイチは治療院へ向かうため、ミアとともに宿を出た。
分かれ道まで来ると、ミアが足を止める。
「ミアはどうする?」
「少し、行きたいところがあります」
「そうか。昼には宿へ戻る?」
「はい」
「分かった。何かあったら無理するなよ」
「コウイチ様もです」
「俺は治療院に行くだけだぞ」
「昨日も無理しました」
「……行ってきます」
これ以上話すと負けそうなので、コウイチはそのまま治療院へ向かった。
ミアは背中が見えなくなるまで見送ってから、反対方向へ歩き始めた。
市場を通り過ぎ、向かった先は冒険者ギルドだった。
朝のギルドには、すでに多くの冒険者や鉱夫が集まっている。依頼票を眺める者や、ダンジョンへ向かう準備をする者の声で賑わう中、ミアは入口で少しだけ足を止めた。
昨日、コウイチは自分たちには足りないものがあると言った。
その中で、自分にもできそうなことが1つだけある。
あの岩の奥に魔物が潜んでいることを、《索敵》では見つけられなかった。もし先に異変へ気づけていれば、コウイチは怪我をしなかったかもしれない。
本当に見抜けたかどうかは分からない。だからこそ、罠や隠れた危険を見つけるにはどうすればいいのか知りたかった。
ミアは受付へ向かった。
「あの」
「はい。どうされました?」
「聞きたいことがあります」
受付の女性がミアを見る。
「ダンジョンの罠を見つけたり、安全な道を調べたりする方法を教えてもらえますか?」
「斥候技術ですね」
聞き慣れない言葉だったのか、ミアは少し考えてから頷いた。
「たぶん、それです」
受付の女性は冒険者証を確認し、ミアが《索敵Lv2》を持っていると知ると、少し興味を示した。
「《索敵》を持っているなら、適性はありそうですね。この街はダンジョンへ入る冒険者が多いので、斥候経験のある冒険者から基礎を習うこともできますよ」
「いくらですか?」
「半日なら銀貨1枚です」
ミアは少しだけ黙り、腰に下げていた小さな革袋を取り出した。
コウイチから渡されている、自分の金だ。
初めてこれを渡された時は、何に使えばいいのか分からなかった。
奴隷はお金をもらわない。
そう言った自分に、コウイチは自分が欲しいと思った物を、自分で買うための金だと教えてくれた。
最初に使ったのは、本を読むためだった。知らないことを知りたかったからだ。
今も、それと少し似ている。
昨日まで知らなかったことを知り、次にダンジョンへ入った時、コウイチが見つけられない危険を自分が先に見つけられるようになりたい。
「お願いします」
ミアは、自分の革袋から銀貨1枚を取り出した。
「ご一緒の方には相談しなくても大丈夫ですか?」
受付の女性に聞かれ、ミアは一瞬だけ迷った。
けれど、手の中にある銀貨を見ると、そのまま差し出した。
「これは、私のお金です」
◇
それから3日間、コウイチは毎日治療院へ通った。
治療費は1日銀貨5枚で、3日分の銀貨15枚を支払った。初日の銀貨15枚と合わせれば、今回の治療には合計銀貨30枚かかったことになる。
治癒魔法のおかげで回復は早く、3日目には普通に歩く程度ならほとんど問題がなくなっていたが、治療師からはまだ槍を振るなと言われている。
「明日もう1度診る。それで問題なければ、馬車で帰っていい」
「やっとか」
「帰った翌日に森へ行くなよ」
「行きませんよ」
「その返事が信用できん」
「俺、そんなに信用ないですか?」
「怪我した翌日に帰ろうとしてた奴だからな」
何も言い返せなかった。
治療院を出たあと、コウイチは宿へ戻る前に冒険者ギルドへ寄ることにした。
鉱殻ゴーレムについて、その後何か分かったか聞いておきたかったからだ。
ギルドへ入り、受付へ向かおうとしたところで、奥の訓練場へ続く扉が開いた。
最初に出てきたのは、30代くらいの細身の男だった。腰には短剣と、いくつもの小さな道具が下がっている。
その後ろから出てきた人物を見て、コウイチは足を止めた。
「……ミア?」
ミアもこちらへ気づき、同じように止まった。
「コウイチ様」
腰にはいつもの短剣とマジックポーチがある。
だが、それ以外にも見覚えのない細い金属棒や糸、小さな鏡のような道具が下がっていた。
「何してるんだ?」
「……勉強です」
答えるまでに、ほんの少し間があった。
その間が妙に引っかかった。
「何の?」
「斥候です」
「斥候?」
「はい」
コウイチはミアの顔を見た。
「いつから?」
「ゴーレムと戦った次の日からです」
自分が治療院へ通っている間、ミアは毎日ここへ来ていたらしい。
「俺には、行きたいところがあるとしか言ってなかったよな?」
「……はい」
その返事を聞いた瞬間、胸の奥に小さな棘のようなものが引っかかった。
自分の知らないところで、何かをしていた。
ただそれだけのことなのに、遠い記憶が勝手に重なる。
工房。
なくなった腕時計。
自分の知らないところで動いていた人間と、あとになって知ったこと。
信じていた相手。
ほんの一瞬だったが、身体のどこかが先に身構えた。
「なんで黙ってた?」
思ったより低い声が出た。
ミアの耳がわずかに下がる。
「……言った方がよかったですか?」
その顔を見て、コウイチは我に返った。
違う。
目の前にいるのは、あの時の誰かではない。
「いや。怒ってるわけじゃない」
「でも……」
「本当に怒ってない。ただ、理由が分からなかっただけだ」
ミアは少し迷ったあと、腰につけていた小さな革袋を手に取った。
「これで払いました」
「それ、お前の金だろ?」
「はい」
「いくら?」
「半日、銀貨1枚です」
「じゃあ、銀貨3枚も使ったのか?」
「はい」
コウイチは思わず革袋を見た。
食事も宿も装備も、基本的には自分が払っている。その金だけは、ミアが自分で欲しいと思った物を、自分で選んで買えるようにと渡していた。
以前、ミアはその金で本を読んだ。
今度は、自分の技術を身につけるために使ったらしい。
「必要な訓練なら、言ってくれれば俺が払ったのに」
ミアは小さく首を振った。
「私がやりたかったからです」
コウイチは言葉を止めた。
「コウイチ様が、私たちには足りないものがあるって言いました。あの岩の奥にいた魔物は《索敵》でも分からなかったから、どうすれば隠れた危険を見つけられるのか知りたかったです」
「それはミアのせいじゃないぞ」
「はい。分かってます」
珍しく、ミアが途中で言葉を重ねた。
「でも、分からなかったのは本当です。だから、分かる人に聞きました」
その答えが、いかにもミアらしかった。
分からないことを、分かったふりはしない。分からなければ聞き、教わったことを自分で確かめる。
「それで、3日間?」
「はい」
「でも、なんで俺には言わなかったんだ?」
今度は先ほどより穏やかに聞けた。
ミアは少し考えてから、視線を落とした。
「まだ、できなかったからです」
「できなかった?」
「教えてもらっただけで、できるようになったって言うのは違うと思いました」
その言葉を聞いた瞬間、今度は別の記憶が蘇った。
――動いたからって直ったと思うなよ。
小さな工房で、師匠に何度も言われた言葉。
教わっただけでは身についたことにはならないし、一度うまくいっただけでも駄目だった。何度も確かめ、自分で失敗し、それでも同じことができるようになって、初めて覚えたと言える。
ミアがその言葉を知るはずはない。
それでも、どこか似ていた。
「できるようになってから言おうと思ったのか?」
「はい。それと……」
そこでミアは少しだけ言葉に詰まり、伏せていた視線を上げた。
「コウイチ様の役に立てるようになってから、言いたかったです」
コウイチはすぐに返事ができなかった。
自分の知らないところで、誰かが何かをしていた。
最初に浮かんだのは、昔の嫌な記憶だった。
だが、ミアが黙っていたのは、自分から何かを奪うためではない。
命令したわけでもない。
金を出したわけでもない。
それどころか、自分が自由に使えと言って渡した金を使い、自分たちに足りなかったものを埋めようとしていた。
そこまで考えたところで、コウイチはふと引っかかった。
命令したわけでもない。
ミアは奴隷だ。
少なくとも、この国の制度ではそうなっているし、金を払って買ったのも自分だった。
けれど最近、自分がミアへ何かを頼む時に、それを奴隷への命令だと考えたことがあっただろうか。
一緒に森へ行き、獲物を探し、戦い、飯を食う。分からないことがあれば相談し、危険だと思えば互いに止める。自分が無茶をしようとすれば、ミアは普通に駄目だと言う。
奴隷にしては、ずいぶん遠慮がない。
そう思うと、少しだけおかしくなった。
「……何ですか?」
「いや」
コウイチは小さく笑ってから、改めてミアを見る。
奴隷商館で初めて会った頃とは、ずいぶん変わった。
何を聞いても相手の顔色を窺い、自分の意見があっても飲み込んでいたミアが、今は自分で考え、自分の金を使い、自分に必要だと思ったことを学んでいる。
けれど、変わったのはミアだけではないのかもしれない。
いつからそうなったのかは分からない。
森で背中を預けるようになった頃なのか、《穿牙》を2人で覚えたと思った時なのか、それとも今日なのか。
たぶん、はっきりした境目などない。
それでも1つだけ、今なら分かる。
少なくとも自分はもう、ミアを「金を払って買った奴隷だから一緒にいる人間」とは思っていなかった。
「ミア」
「はい」
「ありがとう」
ミアが少し目を見開いた。
「……はい」
それだけ答えると、少し照れたように視線を逸らした。
ありがとうだけでは足りない気もした。
何かもう少し言いたかったが、うまく言葉が見つからない。
仲間。
今の自分がミアに感じているものに、一番近いのはたぶんそれだった。
「それで?」
「はい?」
「3日も銀貨を払ったんだろ。何を覚えたんだ?」
聞いた途端、ミアの耳が少し上がった。
「床を見る方法と、壁の傷を見る方法です。それから音も聞きます。同じ石に見えても叩いた時の音が違うことがあって、あと埃が途中で――」
「ちょっと待て」
止めると、ミアが口を閉じた。
「ここで全部聞くと長くなりそうだから、帰りながら聞く」
「はい」
「その前に、ゴーレムのことを聞いてくる」
コウイチは受付へ向かい、現場の調査結果について尋ねた。
調査員が周囲を確認したものの、同じような岩や鉱殻ゴーレムは見つかっていないという。なぜ2階層に危険度Cの魔物が潜んでいたのかも、現時点では分からず、引き続き調査を続けることになっていた。
2人でギルドを出る。
歩きながら、ミアはこの3日間で教わったことを話してくれた。
床や壁に残る小さな傷、積もった埃の乱れ、石材の継ぎ目、空気の流れ、叩いた時に返ってくる音。それらを1つずつ見るのではなく、いくつもの違和感を重ねて危険かどうかを判断するのだという。
《索敵》で何も感じなかったから安全なのではない。
自分の目や耳で確かめたものと合わせて、初めて判断する。
それを聞きながら、コウイチは鉱殻ゴーレムが現れた時のことを思い出した。あの時、ミアの《索敵》は、鉱殻ゴーレムが動き始めるまで何も捉えなかった。
もし今の知識があれば防げたのか。
それは分からない。
ミアも、できたとは言わなかった。
「同じものを見ないと分かりません。教えてもらった罠と、あの岩は違いますから」
「そうだよな」
「でも、次はもっと見ます」
その言葉に、コウイチは頷いた。
3日習っただけで、一人前の斥候になれるはずはない。それでも、これまで見えなかったものを見ようとする方法を、ミアは自分から学び始めている。
それで十分だった。
翌日、治療師から馬車での移動を許可されればラグナードへ戻る。
ルークの奴隷商館へ行き、自分たちにないものを持つ人間を探す。
仲間を増やす。
その言葉を頭の中で繰り返したところで、コウイチは隣を歩くミアを見る。
最初の1人なら、もういる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語の感想や印象に残った場面など、ひと言でもいただけると今後の執筆の励みになります。




