第46話◇ 素材を狩る
コウイチが右側へ回り込んでいる間も、ホーンディアはまだこちらに気づいていなかった。
ときおり顔を上げて周囲を見渡しているものの、警戒しているというより、草を食べながら何となく様子を確認している程度に見える。左側へ回ったミアの姿はすでに木々の向こうへ消えており、耳の良いホーンディアに気づかれないよう、コウイチも足元を確かめながらゆっくりと距離を詰めていった。
残り15メートルほどまで近づいたところで、不意にホーンディアが顔を上げた。
長い耳が動き、鼻先がわずかに持ち上がるのを見て、コウイチはすぐに足を止める。ホーンディアの視線は自分ではなく左側へ向いているため、ミアが音を立てたとは考えにくく、おそらく風向きが変わって匂いを拾われたのだろう。
そう考えた直後、ホーンディアが身を翻した。
逃げようとした先は右側――ちょうどコウイチが回り込んでいた方向だった。
「ミア!」
声を上げると同時に木の陰から飛び出し、コウイチは槍を構えた。
突然現れた人間を見てホーンディアは一瞬だけ足を止めたが、背後にはミアの気配がある。逃げ道を塞がれたと判断したのか、すぐに頭を下げると太い角をコウイチへ向けた。
図鑑で調べた通りの動きだった。
地面を蹴ったホーンディアが一気に加速してくる。コウイチは正面から受け止めようとはせず、槍先を相手へ向けたまま身体を斜めにずらした。真っ直ぐ突っ込んでくる相手なら、その勢いをまともに受ける必要はない。
すれ違う直前にさらに半歩踏み込み、首の付け根へ槍を突き込む。
確かな手応えが腕へ伝わったが、思ったより浅い。槍を引き抜くより早くホーンディアが身体を振ったため、柄を掴んだまま引きずられそうになったコウイチは、無理に武器へ執着せず手を離した。
傷を負ったホーンディアは勢いを殺しきれず数メートル走ったところで向きを変えようとしたが、その時にはミアが背後まで迫っていた。
低い姿勢から一気に距離を詰めたミアがホーンディアの横を抜け、その瞬間にミスリル合金の短剣を振るう。狙ったのは後ろ脚で、鋭い刃が腱を深く切ったことでホーンディアの体勢が大きく崩れた。
「コウイチ様!」
「ああ!」
コウイチは地面へ落ちた槍を拾い直すと、立ち上がろうともがくホーンディアへ近づいた。
倒れていても角はまだ動いている。油断して正面から近づけば、最後の抵抗を受ける可能性は十分にあるため、コウイチは角の向きを見ながら側面へ回り、今度は首の急所をしっかり確認してから槍を突き込んだ。
しばらく身体を震わせていたホーンディアから、やがて力が抜けていく。
完全に動かなくなったことを確認して槍を引き抜くと、コウイチはようやく息を吐いた。
「……Fランクでも、あの突進を正面から受けるのは嫌だな」
「速かったです」
「図鑑を読んでなかったら、最初は受け止めようとしてたかもしれない」
今の身体能力なら耐えられた可能性はあるが、角のある大型の魔物を真正面から受け止める必要などない。Fランクだから弱いと考えるより、その魔物が何を得意としていて、どうすればそれを使わせずに済むのかを知る方が重要なのだろう。
ミアは倒れたホーンディアへ近づくと、自分が切った後ろ脚を確認してから短剣の刃へ目を向けた。
「狙ったところには当たりました。でも、思ったより深く入りました」
「その短剣、かなり切れるからな。刃は大丈夫?」
「はい。問題ありません」
ミスリル合金の短剣を生成した時には大量のMPを持っていかれたが、B品質だけあって刃の通りはいい。以前から使っているB品質の鉄短剣でも後ろ脚を傷つけることはできただろうが、今の武器の方が狙った場所へ確実に刃を通しやすいようだった。
もっとも、武器の性能が上がったことを自分たちの腕まで急に上がったと勘違いするのは危険だ。
コウイチはミアが短剣を収めるのを見届けてから、倒れたホーンディアをもう少し詳しく確認するため《鑑定》Lv2を使った。
【ホーンディア】
【状態:死亡】
【素材:角・皮・骨・肉・腱】
表示された内容は、昨日図鑑で調べたものとほとんど変わらなかった。
欲しいのは角だが、コウイチには魔物を綺麗に解体する技術がない。下手に自分で角を外して傷をつければ、何のために狩ったのか分からなくなる。
「またギルドに頼むしかないな」
「角はここで取らないんですか?」
「俺がやって割ったらもったいないだろ。櫛にするなら、できるだけ綺麗な状態で欲しいし」
周囲に他の冒険者がいないことを確認してから、コウイチはホーンディアの死体をアイテムボックスへ収納した。
以前なら魔物1匹を丸ごと消したところを誰かに見られないか、それだけでも神経を使っていた。今でも人前でアイテムボックスを使うつもりはないが、少なくともミアしかいない場所でまで隠す必要はなくなっている。
「もう1匹探しますか?」
ミアに尋ねられ、コウイチは周囲を見回しながら考えた。
まだ森へ入ってそれほど時間は経っておらず、ホーンディアとの戦闘でも《穿牙》を使っていないため、体力にもMPにも余裕がある。このまま帰る必要はないが、初めて来た森で数だけを追い求めるのも違う気がした。
「探そう。ただ今日は何匹狩れるかより、この森がどんな場所なのか覚えておきたい。ホーンディアがどの辺りに多いのかも知りたいし、中央部に近づかない範囲でもう少し歩いてみよう」
「分かりました」
2人は再び森の中を進み始めた。
今度は魔物の気配だけでなく、周囲の地形にも意識を向ける。入口付近では人が何度も通った跡が目立っていたものの、少し離れるだけで踏み跡は急に少なくなり、白い木々の間には背の低い草が広がっていた。
その草の中には、先ほどホーンディアが食べていたものと同じ種類らしいものも混じっている。
「こういうところにいるのかな」
「匂いも残っています」
ミアが地面へ視線を落としながら答えた。
「さっきのホーンディア?」
「同じ匂いだと思います。でも、少し古いです」
「足跡は……これかな」
柔らかい地面には蹄らしい跡も残っていたが、コウイチには、それがいつついたものなのかまでは判断できない。ミアは匂いを確かめながら進行方向を探っていたものの、途中で何かに気づいたように顔を上げ、何度か周囲を確認した。
「どうした?」
「別の匂いもします」
「魔物?」
「たぶん。でも、ホーンディアじゃないです」
昨日の資料室で調べた魔物のことを思い出し、コウイチは槍を持つ手へ少し力を込めた。
「どっちから?」
「向こうです」
ミアが示したのは、自分たちが進もうとしていた方向から少し東へ外れた場所だった。
「近い?」
「そんなに近くありません。でも……同じところに何匹かいるかもしれません」
複数いると聞いても、それだけでは何の魔物なのか判断できない。
「羽の音は聞こえる?」
「今は聞こえません」
「だったらグラスビーかどうかも分からないな。わざわざ確認しに行くのはやめよう」
興味がないわけではないが、正体を知りたいというだけで未知の魔物へ近づく必要はない。今日の目的には森を知ることも含まれているものの、それは危険な場所を片端から覗いて回るという意味ではなかった。
「匂いがした場所だけ覚えておいて。次に来た時、また同じ場所にいるなら何かの縄張りかもしれない」
「はい」
ミアは一度振り返って周囲の木々を確認すると、ホーンディアの痕跡を追っていた方向へ戻った。
こういう時に索敵のできる仲間がいるありがたさを、コウイチは改めて感じる。自分1人なら知らない魔物の群れへ気づかず近づいていた可能性があるし、逆にミアが何かを感じたからといって、それが何なのかまで自動的に分かるわけでもない。
分からないことは無理に確かめず、必要なら準備を整えてから戻ってくればいい。今はそれで十分だった。
しばらく歩くと、今度はコウイチにも前方で何かが動いているのが見えた。
白い木々の間に茶色い身体が2つあり、先ほどの個体と同じように下草を食べている。ミアもすぐに気づいたらしく、2人で木の陰から様子を窺った。
すでにホーンディアの特徴は分かっているため、今度は必要な情報だけ確認する。コウイチがそれぞれへ《鑑定》Lv1を使うと、Lvは3と5だった。
「2匹か」
「どうしますか?」
「両方は狙わない。近い方だけにしよう」
先ほどは1匹だったから挟み込めたが、今度は2匹いる。片方へ攻撃を仕掛けた瞬間、もう片方が逃げるのか、それともこちらへ突進してくるのかは分からない。
素材が欲しいだけなら、無理に2匹とも仕留める必要はなかった。
「俺が先に出るから、ミアは逃げる方向を見てて。もし俺の方へ来なかったら、無理に止めなくていい。もう1匹が逃げても追わないでいいから」
「分かりました」
ミアが木の陰へ移動するのを待ってから、コウイチは槍を持ったままゆっくり距離を詰めていった。
先ほどの戦闘で、突進する直前にホーンディアが頭を下げることは分かっている。角を前へ向ける以上当然の動きなのだが、実際に一度見たことで、図鑑の文章を読んだだけの時よりも動きを具体的に想像できるようになっていた。
あと数歩まで近づいたところで、Lv5の個体がこちらへ顔を向け、それにつられるように隣の個体も顔を上げた。
もう隠れている意味はない。
コウイチが木の陰から前へ出ると、2匹はほとんど同時に動いた。Lv3の個体は森の奥へ向かって走り出したものの、Lv5の個体は逃げようとした先にミアの気配を感じたのか、その場で大きく向きを変え、頭を下げて角をコウイチへ向ける。
来る。
地面を蹴って突進してきたホーンディアに対し、今度のコウイチは慌てなかった。
相手の軌道を最後まで見てから身体を横へずらし、すれ違う瞬間に槍を突き出す。狙ったのは首ではなく前脚の付け根で、槍先が深く入った感触と同時にホーンディアの走りが大きく乱れた。
すぐに槍を引き、転倒した相手の正面を避けるように回り込む。ホーンディアは立ち上がろうとしたものの、傷ついた前脚へ体重を掛けられずにおり、その間にミアも反対側へ回り込んでいた。
「ミア、そのまま見てて!」
「はい!」
2人で飛びかかる必要はない。
コウイチは暴れる角の届く範囲を見極め、ホーンディアが身体を起こそうとした瞬間に側面から踏み込み、首へ槍を突き入れた。
今度は迷いなく急所へ届き、ほどなくしてホーンディアの身体から力が抜けていった。
「さっきより上手くいきましたね」
「ああ。1回やるだけでも違うな」
相手がどの程度の速度で突っ込んでくるのか、どの瞬間に避ければいいのか、槍をどこへ向ければ角を避けながら攻撃できるのか。頭で理解していたことが、実際に戦ったことで少しずつ身体の感覚へ変わり始めている。
ただ、その実感を「もう大丈夫」と読み替えるつもりはなかった。
昔、親方に言われた言葉がふと頭をよぎる。
『動いたからって直ったと思うなよ』
時計について言われた言葉だったが、こういうことにも通じる気がする。1回上手くいったからといって、次も同じようにいく保証はないのだから。
コウイチは2匹目のホーンディアをアイテムボックスへ収納すると、逃げたもう1匹が消えていった方向へ視線を向けた。
「追いますか?」
「いや。追わないって決めただろ。それに今日は2匹確保できたんだから、櫛を試作するには十分だよ」
初めて扱う素材なのだから、いきなり大量に持ち帰っても使い切れるかどうか分からない。まず実際の角を調べ、櫛を作ってみてから必要な量を考えればいい。
「もう少し森を見ながら戻ろう。まだ昼前だし、早めに帰れば今日中に解体してもらえるかもしれない」
「はい」
2人は来た方向へ戻りながら、少しだけ遠回りして森の様子を見ることにした。
◇
帰路につく途中、先を歩いていたミアが再び足を止めた。
ホーンディアを見つけた時とは少し様子が違い、耳を立てたまま森の奥へ顔を向けている。コウイチもすぐに立ち止まり、ミアの視線を追ったものの、白い木々が重なっているだけで何かが動いているようには見えなかった。
「どうした?」
「音がします」
「何の音か分かる?」
「まだ分かりません。でも、何かが動いています。少し遠いですけど……たぶん、大きいです」
ミアがそう言ったところで、コウイチも耳を澄ませてみたが、自分に聞こえるのは風で葉が擦れる音ばかりだった。
大きな何かがいると聞けば正体を確かめたくなる気持ちはある。しかし、白樹の森にはEランクだけでなくDランクの魔物まで生息していると昨日調べたばかりで、姿も分からない相手へ好奇心だけで近づくのは慎重とは言えない。
「こっちへ向かってる?」
コウイチが尋ねると、ミアはしばらく耳を澄ませてから首を横に振った。
「違います。向こうへ離れていってます」
「なら、そのまま行かせよう。正体を知りたいだけで追いかける必要はないし」
「はい」
ミアも異論はないようで、2人はそのまま帰路へ戻ろうとした。
ところが数歩進んだところで、ミアが今度は足元へ視線を落とした。
「コウイチ様、これ」
指差された場所には下草が途切れ、柔らかい土が露出している。その表面に残っていたのは蹄の跡で、形だけなら先ほど狩ったホーンディアのものとよく似ていた。
「鹿系の魔物かな」
コウイチはしゃがみ込み、跡へ手を近づけながら大きさを確かめる。
正確に比較できるわけではないが、先ほど倒したホーンディアの足より明らかに大きい。しかも1つだけではなく、その先にも同じような跡がいくつか続いており、森の奥へ向かっている。
隣へしゃがんだミアも跡を見ながら首を傾げた。
「ホーンディアですか?」
「分からない。もっと大きい個体がいるのかもしれないし、別の魔物かもしれない。ただ……昨日見た図鑑には、似たようなやつがもう1種類いたよな」
「ムーンディア……ですか?」
「可能性はある。でも、足跡だけで決めつけるのは早いな」
白樹の森の深部に生息するDランクのムーンディアは、ホーンディアよりかなり大型だと書かれていた。もしこの足跡が本当にそうなら、少なくとも深部にいる魔物が外側まで移動することもあるということになる。
それは覚えておいた方がいい情報だった。
「ミア、この匂いは残ってる?」
尋ねると、ミアは蹄跡の近くへ少し顔を寄せてから、風の流れを確かめるように鼻を動かした。
「少しだけあります。でも、さっき聞こえた音と同じ魔物かどうかは分かりません」
「追えば分かるかもしれないけど……」
コウイチは足跡が続いている方向へ目を向けた。
木々の向こうに何がいるのかは見えない。
もしムーンディアなら、その角が高級な櫛や装飾品の素材になることはすでに知っているし、どのくらいの値段で売れるのかにも興味はある。Dランクへ昇格した今なら、討伐を考える資格もある。
ただ、今日は初めて白樹の森へ入り、ホーンディアの素材を手に入れるために来ただけだった。地形も十分に把握しておらず、ムーンディアと戦うための準備をしてきたわけでもない。
価値があると知った瞬間に予定を変えるようでは、商売のために危険を避けているのか、金に釣られて危険へ近づいているのか分からなくなる。
「今日はやめよう。もしムーンディアなら、場所と痕跡があるって分かっただけでも十分だ」
「はい」
ミアはすぐに立ち上がった。
理由を聞かれなかったことに、コウイチは少しだけ笑う。以前なら自分が慎重すぎるのかと考えたかもしれないが、今ではミアも「分からない相手を無理に追わない」という判断を当然のものとして受け取っている。
「帰ったら、まずホーンディアを解体してもらおう。角がどんな素材なのか実際に見たいし、櫛そのものももう少し調べてから作った方がいい」
「何個作りますか?」
「それも角を見てからだな。1本の角からどのくらい取れるのかも分からないし、最初から大量に作って売れなかったら意味がない」
「砥石の時みたいに?」
「そういうこと」
売れると聞いた商品と、自分が作った商品が実際に売れるかは別だということは、砥石や髪留めですでに学んでいる。まして今回は素材によって価格が変わる商品なのだから、まずFランク素材のホーンディアで客の反応を見るべきだろう。
2人は足跡の続く方向には進まず、来た道へ向かって歩き始めた。
しばらくすると森の入口付近で聞こえていた人の声が少しずつ戻り、木々の間にも冒険者の姿が見えるようになってきた。そこでようやくコウイチは肩の力を抜き、アイテムボックスへ収めた2匹のホーンディアを思い出す。
初めての白樹の森で目的の素材は確保できた。
だが、コウイチが気になっているのは、狩った数よりもその先だった。




